第一章 総論
いかなる理論も、それが科学的であるとされるためには、反証可能性を要請される。カール・ポパーは、この原理によって、疑似科学を科学から区別しようとした。しかし、トーマス・クーンは、それが事後的な判断にすぎないことを明らかにする。すなわち、科学は累積的に進歩するのではなく、特定のパラダイムの内部で「正常科学」として運用され、異常事態が蓄積したときに「革命」として転換する。ここには、ある種の多数決的な要素がある。ある理論が「真」として受け入れられるのは、その理論がより優れているからではなく、研究者集団がそれを支持するからである。
ポール・ファイヤアーベントは、ここに「知のアナーキズム」の可能性を見た。彼にとって、科学は単一の方法論に拘束されるものではなく、むしろ方法の多様性を認めるべきである。知は、一定の規範や制度によってではなく、無秩序な実践のなかで生まれる。科学がそうであるならば、藝術もまたそうではないのか。藝術とは、なにがしかの美の基準を共有し、それに従う行為ではなく、美の基準それ自体が絶えず揺らぎ、変化し、無数に分岐する場ではないのか。
この問いに対する答えとして、われわれは「美のアナーキズム」を標榜する。つまり、美においてもまた、ひとつの基準に収束するのではなく、むしろ多様な価値が並列し、相互に対立しながらも共存する状態こそが本質的である。美は普遍的な基準によって保証されるのではなく、各々の文脈において異なる仕方で顕現する。それは、知の営みと同様に、支配的なパラダイムの内部で安定するのではなく、むしろ異端や逸脱のなかにこそ見出される。
ここで、「美のアナーキズム」を理解するための視座として、ファイヤアーベントの方法論をさらに拡張する必要がある。彼は、あらゆる方法論がその時代の文化的・社会的制約のもとで機能していることを指摘し、それゆえに科学において「なんでもあり(anything goes)」の立場をとる。これは、一見、無原則な相対主義のように映るが、むしろ逆である。知的実践が固定された規範に従うのではなく、不断に変化し、異なる原理が共存しうる場として捉えられるならば、それはむしろ多様な知の生成を可能にする。
藝術においてもまた、「なんでもあり」は単なる混沌を意味するのではない。むしろ、特定の価値基準によって排除されるべきでないものが並存しうるという視点を提供する。藝術は、美の規範を設定し、それに則ることではなく、規範そのものを絶えず疑い、再構築し、破壊する実践である。この意味で、「美のアナーキズム」は、藝術における制度的な制約を超え、美の価値そのものが多元的に存在しうることを示す。
このことを具体的に論じるために、次章ではレーモン・クノーの『文体練習』を分析する。本作において、単一の「優れた文体」は存在しない。それぞれの文体が、ある意味で無政府的に、しかし等価に並列されている。この作品は、従来の文学における文体の価値づけを根本から覆すものであり、したがって「美のアナーキズム」を体現するものである。さらに、この考え方を一般化し、あらゆる藝術における価値判断がいかにして相対化されるのかを考察することで、「美のアナーキズム」の可能性を探る。
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