第5話 仕事Ⅱ
休憩時間になると、田中の周りに数人が集まってきて、スマートフォンを囲んで盛り上がっていた。最新の配信ドラマの話らしく、何やら芸人の真似をして笑い合っている。
「それってハラスメントじゃん。コンプライアンス的にアウトでしょ?」
誰かが冗談めかして言うと、
「確かに。今の時代は厳しいからな」
「社内の話じゃないんだから、まあいいだろ。最近はどこも昔みたいに振る舞えなくなってきてるけどさ」
「いや、時代がそうなんだから従うしかないよな。業務でも気にする項目の一つだし」
若い社員たちはそんな会話を交わしながら、どこか慣れた調子で笑いを続けていた。
確かに、職場内での振る舞いも、昔とは違う。気をつけるべきことが増え、軽い冗談すら慎重に選ばねばならない時代になった。それが当然なのだと理解していても、息苦しさを感じることもある。
淳一は彼らの方を一瞥したが、話には加わらず、ただ黙って席から離れて行った。
昼休み、同僚の高橋が弁当を広げながら声をかけてきた。
「佐藤さん、最近元気ないね。俺もさ、腰が痛くて参ってるよ」
「そりゃ、歳には勝てないな」と笑い合う。
ほんのひとときでも、そんな会話が心をほっとさせた。みんな、何かを背負いながら働いているのだ。かつては徹夜も平気だったのに、今では肩こりと目の疲れが抜けない。体力の衰えは隠せない。
淳一は少し離れた席で弁当を広げた。弁当箱を開けると、昨夜の残りのサバと冷凍ご飯が寂しげに並ぶ。
「家族が作ってくれる弁当が一番だよな」
高橋がそう言って笑うと、淳一は小さく頷いた。
「ああ、そうだな」
その言葉が胸に刺さり、優子の笑顔が一瞬脳裏をよぎる。
かつては、優子の手作りの弁当が、職場でちょっとした話題だった。『奥さん、料理上手だな』と言われるたびに、嬉しさと照れが混ざった気持ちで蓋を開けた。煮物に小さな卵焼き、梅干しの乗った白飯。今では、レンジで温めた冷凍ご飯が、その場所を埋めている。
午後が始まってすぐに部下を呼んだ。午前中に目を通した田中の提出した資料に誤字と計算ミスがいくつか混じっていた。
「田中、これ直して持ってきてくれ」と穏やかに指摘すると、彼は慌てて頭を下げた。
「すみません、すぐ直します」
その姿に、若き日の自分を重ねた。誰もが、失敗し、学び、成長していく。そう信じることで、今日もまた、前を向いて仕事をする意味が見出せる気がした。
「焦らなくていい。丁寧にやれば大丈夫だ」
淳一は田中に資料を返しながら、彼に向けて声をかけた。
「課長って優しいですよね」
田中からそう言われて、淳一は照れくささが込み上げてきた。
それでも、部下たちからは慕われている。飲み会で昔話を披露したり、後輩の相談に乗ったりする姿は、『頑固だけど頼れる課長』として定着していた。
その日、総務から健康診断の案内が回ってきた。一年に一度の義務だ。
「佐藤課長も早めに予約して、行ってくださいね」と田中が笑う。
淳一は頷きつつ、カレンダーに印をつけた。優子の三回忌がひと段落してから、近くの医療センターに行くことに決めた。優子の病が発覚したあの春を思い出し、胸がざわつく。それまでは、人間ドックなど受けなくても自分は大丈夫と高をくくっていた。
『俺も何か見つかったらどうするんだろう』
そんな考えが頭をよぎるが、すぐに打ち消した。定年まであと数年。健康でいなければ、孤独な日々を乗り切れない。
午後の業務が始まり、資料作成に追われる時間が続く。パソコンの画面は淡々と数字を並べ、時折入力ミスに気づいては眉をひそめる。集中力が途切れると、ふと視線が窓の外に向いた。冬の陽はもう傾きかけていて、街並みの輪郭を黄金色に染めている。
気づけば、時計は午後五時を指していた。周囲では若手社員たちが『今日は早く帰れそうですね』などと軽口を交わしている。その様子に、淳一はかすかな疎外感を覚えた。彼らの『早く帰る』の先には、誰かと過ごす時間があるのだろう。家族、恋人、友人。自分には、その『誰か』がいない。
「佐藤課長、今日の資料、ありがとうございます。助かりました」
田中が頭を下げて言った。若者の礼儀正しい姿に、
「いや、こちらこそ頼りにしてるよ」と答える。
こうして、自分が誰かに必要とされる瞬間は、まだある。それが唯一の支えだった。
少し残業をして業務を終えると、帰りの支度をする。残っていた同僚たちが『飲みに行きますか』と声を掛け合っているが、淳一はその輪に加わらなかった。誘われても、笑顔で断ることが常となっていた。飲みの席で、かつての武勇伝や家族の話が飛び交う中、自分の話すことはない。それが寂しさとなり、重くのしかかる。
会社を出ると、外はすでに暗くなっていた。ビルの窓には灯りがともり、街は夜の顔を見せていた。雪は止み、地面には溶け残った白がまだらに残っている。コートの襟を立て、駅へと向かう道。人波の中を一人歩く。誰もが自分の世界に没頭し、誰も彼を気に留めない。淳一は、通勤用に持ち歩いているカバンを片手に歩き始める。かつては優子が作った弁当がそこにあった。今は書類と老眼鏡だけだ。
帰りの電車も満員だった。押し合いへし合いの車内で、淳一はつり革を握りながら、ぼんやりと天井を見つめた。『どこか遠くへ行きたい』そんな衝動に駆られる。もうこの日常から逃げても、誰も困らないのではないか─そんな考えが頭をよぎる。
駅を降りて自宅へ向かう住宅街は静まり返り、窓越しに見える灯りが温もりを感じさせる。窓越しに漏れるテレビの音、食卓から響く家族の笑い声。そのぬくもりに触れたくて、しかし届かない現実に、淳一は無意識に歩を早めた。そのぬくもりが、自分には手の届かないものであることが、胸を締め付けた。
自宅の玄関は暗く、ドアを開けるといつもの様に暗闇が迎えた。手探りで照明をつけ、狭い部屋が明るくなる。誰もいない部屋。荷物を置き、コートを脱ぐと、すぐに冷蔵庫を開ける。昨日買った総菜が一つ、ラップに包まれたままのご飯。湯気の立たない食事がそこにあった。
電子レンジで温める音が、静かな部屋に響く。その音さえ、どこか空虚だった。テーブルに並べられた食事を前に、淳一はしばらく手をつけなかった。テレビをつけると、ニュースキャスターが『今年最も感動した出来事は?』と街頭インタビューの映像を流していた。笑顔で答える人々。結婚、出産、昇進。誰もが何かを成し遂げていた。
そして、自分は?─テレビの音が遠ざかる。目の前の食事をひと口、またひと口と運びながら、味はやはりわからなかった。ただ、空腹を満たすだけの行為。
食後、ソファに身を沈める。ふと、古びたアルバムを取り出した。埃を払って開くと、そこには若き日の自分、そして優子との思い出が並んでいた。海辺で笑う二人、桜の下で寄り添う姿。時は戻らない。それでも、その瞬間の幸せは確かに存在していた。
写真の中の優子は、今も変わらず微笑んでいた。『頑張っているわね』と語りかけるように。その笑顔に、淳一の目尻が熱くなる。誰にも見せることのない涙が、一筋流れ落ちた。
時計は午後十一時を回っていた。静かな部屋の中で、ただ時間だけが過ぎていく。ベッドに横たわり、天井を見つめる。明日もまた、同じように始まり、同じように終わるのだろう。変わらぬ日々。それでも、生きていくしかない。
淳一は目を閉じた。暗闇の中で、微かなぬくもりを探すように。誰かに必要とされた記憶、それが唯一の希望だった。
そして、静寂の中で目を閉じた。こうして、誰にも知られることなく、また一日が終わる。
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