第12話 たった一ヶ月間のできごと
水野がビール缶数本を飲み干したあと、彼は少し呂律の回らない口調で言い出した。
「そういえば……。看護師さんが、サチジマさんと先生が婚約してるようなことを言っていましたが、本当なんですか?」
円香の胸がどくんと跳ねる。確かに都はそんな啖呵を水野に切っていた。
青樹先生の顔を見つめる。どんな反応をするのか気になった。
円香は青樹先生と結婚なんて、天と地がひっくり返ってもありえないと思う。青樹先生はいつも優しくて大人で、円香の理想を具現化したような
「……こんなことを言っては、幸島さんは二度とここに来てくれないかもしれませんが……僕はそうなったらいいなと思います」
だが、青樹先生は円香が考えてもいなかったことを口にする。すき焼きの鍋を菜箸で突きながら……。
「おーっ! 先生、言うじゃない!」
ばしっと乾いた音を立てて、都は青樹先生の背を叩く。青樹先生は慌てて口をおさえて咳き込んだ。
「ごほっ、こほっ」
「本当ですか? 先生……」
「す、すみません、幸島さん。あなたは患者さんで、僕よりもずっと若い……。結婚対象として見るのはよくないでしょう。でも、この医院の運営が厳しくて、一番辛い時に助けになってくれたあなたに、尊敬以上の気持ちを抱いてしまいました。あっ、も、もちろん、都さんにも支えて……!」
「先生、こういう時は私の話題はいいんですよ!」
青樹先生はどこまでも真面目だった。看護師として青樹医院を支えてくれていた都のことを忘れない。彼の義理堅さ……本当に推せる。推せるというか、改めて好きだと思った。
「僕は医者ですけど、お金はあんまりありません……一緒になっても、贅沢をさせてあげられないかもしれませんが」
「自分の食い扶持ぐらい、何とかします! それに……」
円香は頬に落ちそうになった涙を、慌てて手の甲で拭うと、渾身の笑顔を浮かべた。
「この青樹医院は、もっともっと患者さんが来る病院になりますよっ! 私が、ホームページのSEO対策しますから!」
◆
肉も野菜もあらかた食べ終わり、青樹先生はシメのうどんを黒い鍋に入れる。
茶色く色づいたうどんはとても美味しそうだ。だが、喉を通りそうにないと円香は思う。
やんわり振られると覚悟していたのに、青樹先生が自分との結婚を考えていただなんて。
「先生とサチジマさんは出会ってどのくらいなんですか?」
「幸島さんが初めてこの医院にいらっしゃったのは、先月の十二日です。だから……出会って一ヶ月ぐらいでしょうか」
今日は十二月の十五日。青樹先生や都と出会ってから、長い月日が経っていたように感じていたが、まだたった一ヶ月だった。だが、この一ヶ月はすごく濃厚だったと思う。
「まだ? たったの……?」
「マイケルプリンス君、昭和の時代は見合いを何回かして、交際ゼロ日で結婚することも普通だったのよ」
戸惑った表情を見せる水野に、都はちっちっちと人差し指を横に振った。
「今は令和ですよ……?」
「令和だって、交際ゼロ日で結婚していいと思うわ。今の人は忙しいから、恋愛してる暇なんてないでしょ?」
都の言うことに、もげそうなほど首を縦に振りたくなった。仕事して、家事して、たまに同僚と飲みに行って……休みの日は小説を書いていたら時間がなくなってしまう。恋人のことで悩む時間なんて取れないのだ。
「だって、円香ちゃんはこんなに可愛いのに彼氏がいたことなかったんでしょ?」
「告白されても全部断ってました。まぁ、学生の頃はアイドルがすべてだったのもありますけど……あはは」
円香は右手で自分の頭を撫でつけながら、苦笑いする。
「でも、ウチの先生には会いたいと思ってくれたのよね? 忙しいのに、青樹医院のホームページまでリニューアルしてくれたもの」
「そうですね!」
青樹先生は推しだから……とはもう言わない。
穏やかな顔をして話を聞いてくれる青樹先生を好きになって、彼が大事にしているこの医院を救いたいと思ったのだ。
「ありがたいですねぇ、先生。先生、円香ちゃんを幸せにしてくださいね?」
「は、はい! それはもう! 幸せにできるように頑張ります!」
器にうどんをよそっていた青樹先生は頬を赤くして頷いている。
都がいなかったら、こんな展開には絶対になってなかっただろう。青樹先生はあくまで推してる医者なだけで終わっていたと思う。
「……看護師さんと私は、先生とサチジマさんの恋のキューピットですね」
水野はビール缶片手にドヤ顔で言う。確かに彼に追い詰められたせいで体調を崩し、たまたま目にした青樹医院に行ったことで青樹先生と出会えたが、腑に落ちない。
「寝言は寝てから言ってください、水野さん! ……あ、都さんは恋のキューピットですけど!」
改稿作業中は、担当編集に嫌われたらもう本が出せないと思って言いたいことも言えなかった。
苦笑いしている水野を見ていると、最高にスカッとした。
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