第9話 水野は諦めない(2)

 水野はちらちらと、都のことを見ている。


「サチジマさん、こちらの女性はお母様ですか……?」

「円香ちゃんの婚約者がオーナーしている病院のベテラン看護師、都よ。よろしく」

「えっ、サチジマさん、婚約してるんですか……? 初めて聞きましたけど」


 ここは都がよく行くというイタリアンレストラン。高い天井にはシャンデリアが輝くラグジュアリーな空間で、周りのテーブルには着飾ったカップルや楽しそうな女性達のグループが見える。


(なんでここに水野さんが……)


 街中を都と歩いていたら、いきなり後ろから水野に声をかけられたのだ。

 てっきり都は水野を追い返してくれると思ったのだが、円香の願いもむなしく、都は『まぁ! 円香ちゃんの元担当編集さんなんですか。これからランチするの、一緒に来ます?』と水野を誘ってしまったのだ。


(ああああぁぁぁ~~!!!……水野さん、もう一生顔も見たくなかったし、声も聞きたくなかったのに!)


 あれだけ世話になった人を嫌うのはどうかと思うが、あの改稿地獄の日々を思い出すと冷や汗が止まらない。


「あなたも名乗ったらどう?」

「申し遅れました、私は米田社の──」


 水野はきっちり着込んだスーツの懐から名刺入れを取り出すと、一枚都に渡した。


「水野磨衣駆留皇子マイケルプリンスと申します」


 水野はキラキラネームの中でも、かなり難易度の高い名前をしていた。円香の直属の上司の下の名は世那せなというのだが、『親がアイルトン・セナの大ファンでさ~キラキラネームで嫌になっちまうよ』と笑って言っていたが、その比ではないレベルのキラキラネームだ。

 水野本人は菅田将暉似で慶応卒でそこそこ有名な出版社勤めで、ハイスペックな部類の人間だと思うが、それでも名前負けしていると思う。……磨衣駆留皇子マイケルプリンス恐るべし。


 だが、都はその名を耳に、目にしても微動だにしない。さすがはベテラン看護師。変わった患者の名前にも触れてきたのだろう。


「……水野磨衣駆留皇子マイケルプリンスさん、あなたもう、円香ちゃんの担当編集ではないのですよね? どうして円香ちゃんに声をかけたの?」


 都はじっと水野を睨んでいる。

 水野は銀色の眼鏡のふちを掴むと、位置を直した。


「半年間も担当していた作家さんが目の前を歩いていたら、ご挨拶ぐらいして当然です」

「当然、ね……。今後はもう円香ちゃんとは関わらないでちょうだい。あなたのせいで、円香ちゃんは体調を崩したのよ?」

「都さん……っ!」


 体調を崩したことを水野のせいにするのは、八つ当たりもいいところだ。円香は慌てるが、都は厳しい表情を崩さない。


「私は看護師しかやったことないから、編集さんがどんなお仕事か存じませんけど、作家さんを睡眠障害になるまで追い詰めるのが編集さんの仕事なんですか? 円香ちゃんはねぇ、ずっと自分を責めていたのよ……!」


 都はガタッと音を立てて椅子から立ち上がると、手元にあった水が入ったグラスを手に持った。そして、その中身を水野の顔にばしゃりとかけたのだ。


「……うせな、磨衣駆留皇子マイケルプリンス


 どすの効いた都の声。水野は目を見開いたまま、動かない。何をされたのか、分からないといった様子だ。


「都さんっ、幸島さん!」


 修羅場と言える場面に現れたのは、青樹先生だった。よほど慌ててきたのか、息を切らしている。


「わっ、だ、大丈夫ですか……? 大変、ずぶ濡れだ……!」

「先生、そんな子ずぶ濡れでいいですよ!」

「何を言ってるんですか、都さんっ……! 外の気温はマイナスですよ。雪もちらついているのに」


 青樹先生は黒いダウンジャケットのポケットからハンカチを出すと、水野の顔やぐっしょり濡れた首元を拭う。水野の眼鏡は、そっとテーブルの上に置いた。


「濡れたままでは風邪を引いてしまいます。良かったら、家に来ませんか? 着替えたほうがいいです」


 「ねっ?」と青樹先生は水野に優しく語りかける。微動だにしなかった水野の大きな目から、ぼろっと大きな涙が溢れ落ちた。


「わ、私だって……! 本気だったんだ……! 本気でサチジマさんが書いた話を出版したいって、思ってたんだ……!」


 いきなりわっと泣き出す水野に、円香と都は顔を見合わせた。

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