彩りの余白、光の狭間に ―84歳の女性画家が見つめた生と死―(約44,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1話『倒れた日の光』

 白い光が久保くぼ鳳来ほうらいのアトリエに降り注いでいた。朝の十時半、冬の空気は澄み渡り、柔らかなブルーグレーの空から差し込む光は、床に置かれた数十枚のキャンバスを照らしていた。大きさは様々だが、そのほとんどが150号の大作だった。


 鳳来は窓際の椅子に座り、昨日まで続いていた激しい咳が収まったことを確かめるように、ゆっくりと深呼吸をした。胸に軽い痛みを感じたが、一週間前に比べれば格段に楽になっていた。


「先生、薬の時間ですよ」


 アトリエの奥から、助手の篠宮桜子の声が聞こえた。


 桜子は三十六歳。鳳来が教鞭をとっていた美術大学の卒業生で、十年前から助手として働いてくれている。彼女がいなければ、鳳来の創作活動は成り立たないだろう。特に五年前の心筋梗塞の後は、彼女の献身的な支えが、鳳来の命の恩人でもあった。


「ありがとう、桜子さん。でも、もう大丈夫なのよ、昨日先生も言ってたでしょう?」


 鳳来はそう言いながらも、桜子が差し出した水と薬を素直に受け取った。抗生物質の苦みが喉を通り過ぎる。


「それでも、もう少し休んだ方がいいです。先生、無理しすぎですよ」


 桜子の優しい声に、鳳来は小さく笑った。


「八十四歳の老婆が何を無理するっていうの? もう無理できる年齢じゃないわよ」


 桜子はそれに答えず、鳳来の肩に手を置いた。その手の温かさに、鳳来は安心感を覚えた。桜子の手は画家の手だった。指先に絵の具の跡が少し残っている。桜子自身も画家として活動している。ただ、鳳来のような華々しい成功は収めていない。才能はあるのに、彼女は控えめすぎるのだ。


 窓の外では、冬枯れの庭に小鳥たちが集まっていた。


「あの子たち、毎朝来るのね」


 鳳来が言うと、桜子はうなずいた。


「先生が倒れてからも、ずっと来てましたよ。エサを置いておいたから」


 それを聞いて鳳来は嬉しくなった。自分が意識を失っている間も、この世界は変わらず続いていたのだ。小鳥たちは変わらず餌を求め、季節は少しずつ進んでいく。


「桜子さん、こちらに来てくれない?」


 鳳来は窓際のもう一つの椅子を指さした。桜子はそこに腰を下ろし、二人で窓の外を眺めた。


「先週はごめんなさいね。突然倒れて、心配させてしまって」


「そんな……先生こそ大変だったでしょう」


 桜子は鳳来の手を取り、そっと握った。その手は細くて冷たかったが、生命力が宿っていることは間違いなかった。


「でも、倒れた時はね、"あぁ、ついに来たか"と思ったの」


「え?」



 鳳来はそう言って、改めて外の光を見つめた。


「そんな……まだまだです! 北斎だって九十歳まで生きたんですから。先生はまだ六年ありますよ」


 桜子の必死の様子に、鳳来は思わず笑った。


「そうねぇ。北斎先生には負けたくないわね。でもね、桜子さん。死ぬことは特別なことじゃないの。みんな必ず死ぬんだから」


 鳳来は立ち上がり、アトリエの中央に置かれた未完成のキャンバスに近づいた。それは縦二メートル、横三メートルほどの大きな作品で、抽象的な色彩が渦を巻いていた。鮮やかな赤と深い青、そして金色が交わる様は、鳳来の代名詞とも言える画風だった。


「この作品、まだ完成させなきゃね」


「無理しないでくださいね」


「大丈夫よ。でもね、桜子さん、私が倒れている間、何か不思議な夢を見たの」


「夢、ですか?」


「ええ。私の過去の作品がね、全部生き物になって動き出したの。あの展覧会の大きな作品たちが、みんな部屋の中を飛び回って……」


 鳳来は少し恥ずかしそうに笑った。


「変な夢ね」


「素敵な夢じゃないですか。先生の作品たちが生きていたなんて」


 桜子の言葉に、鳳来は深くうなずいた。


「そうかもしれないわね。死んだ後もね、私の絵たちが生き続けてくれるなら……それはとても幸せなことだわ」


 その時、アトリエの扉がノックされた。


「はい、どうぞ」


 入ってきたのは、鳳来の娘の久保美代子だった。五十代半ばの美代子は、母に似た端正な顔立ちをしていたが、絵の道には進まず、出版社で編集者として働いていた。


「お母さん、もう起きてたの? まだ休んでいた方がいいわよ」


 美代子の声には、心配と少しの苛立ちが混じっていた。彼女と鳳来の関係は複雑だった。互いを愛しているものの、芸術家である母の生き方を、美代子は完全には理解していなかった。若い頃の鳳来は創作に没頭するあまり、家庭をないがしろにすることもあったのだ。


「大丈夫よ、もう元気になったから。桜子さんも見ていてくれるし」


 美代子は桜子に会釈し、部屋の中を見回した。


「昼ご飯、持ってきたわ。ちゃんと食べてね」


「ありがとう。でもね、美代子、私はもう大丈夫なの。あなたには自分の仕事があるでしょう?」


 美代子は少し困った表情をした。


「お母さんの体調が心配で……」


「心配はいらないわ。私はまだまだ死なないから」


 鳳来はそう言いながらも、一週間前の夜のことを思い出していた。急に激しい咳が出始め、胸が締め付けられるような痛みを感じた瞬間、彼女は「これで終わりか」と思った。それは恐怖というよりは、ある種の諦めと安堵に近い感覚だった。


 美代子は深いため息をついた。


「わかったわ。でも無理はしないで。何かあったら、すぐに連絡してね」


 彼女は鳳来の頬にキスをし、桜子にもう一度会釈して部屋を出て行った。


 美代子が去った後、鳳来は再び窓際の椅子に腰を下ろした。冬の日差しはまだ部屋を明るく照らしていたが、少し斜めになり始めていた。


「桜子さん、昔の写真アルバム、持ってきてくれるかしら?」


「もちろんです。どれがいいですか?」


「一番古いやつ。箱の中にあるはずよ」


 桜子がアルバムを探している間、鳳来は自分の手を見つめた。シミとシワに覆われたその手は、かつて数え切れないほどの作品を生み出してきた。若い頃は滑らかで力強かった手が、今はこんなにも弱々しく見える。でも、この手にはまだ創造する力が残っている。それだけは確かだった。


 桜子が古いアルバムを持って戻ってきた。二人で窓際に座り、ページをめくり始めた。


「あら、これは先生が若い頃ですね! 本当にお美しい」


 桜子が指さした写真は、二十代半ばの鳳来が初めての個展の前に撮ったものだった。長い黒髪と凛とした表情の若い女性が、大きなキャンバスの前に立っていた。


「ふふ、若かったわねぇ。あの頃は世界を変えられると思っていたの」


 鳳来は懐かしそうに微笑んだ。


「でも、先生は本当に世界を変えましたよ。あの時代に、女性画家として認められるなんて、すごいことです」


 桜子の言葉に、鳳来は首を横に振った。


「いいえ、世界は変わらなかったわ。私が変わっただけよ。芸術は人を変える力があるけど、世界を変えるほどの力はない。それを理解するのに、私はずいぶん時間がかかったわ」


 二人はさらにページをめくり、鳳来の人生の断片を追っていった。結婚式の写真、娘の美代子が生まれた時の写真、パリでの展覧会の様子……。


「あ、これは誰ですか?」


 桜子が指さしたのは、四十代の鳳来と一緒に写っている美しい女性だった。


「ああ、それは村上先生よ。私の恩師なの」


 鳳来の声には特別な温かみがあった。


「とても素敵な方ですね」


「ええ、素晴らしい画家で、素晴らしい人だったわ。私が絵を続けられたのは、彼女のおかげよ」


 鳳来は村上先生との思い出を語り始めた。戦後間もない頃、女性が芸術家として認められることがいかに難しかったか。村上先生はそんな時代に、女性画家の道を切り開いた先駆者だった。


「彼女は私に言ったの。"絵を描くのは、自分の魂を紙の上に置くようなものだ"って」


 鳳来はそう言いながら、窓の外に目をやった。日が傾き始め、アトリエの中に落ちる光の角度が変わっていた。


「先生は私にとっての村上先生みたいな存在です」


 桜子の言葉に、鳳来は驚いたように顔を上げた。


「まあ、とんでもないわ。私なんかとは比べ物にならないわよ」


「いいえ、そんなことはありません。先生がいなければ、私は絵を続けていなかったと思います」


 桜子の目には涙が浮かんでいた。鳳来はそっと桜子の手を取った。


「桜子さん、あなたには才能があるのよ。私よりずっといい絵が描けるはずだわ」


「そんな……」


「本当よ。だから私の助手なんかしてないで、もっと自分の作品に打ち込むべきだわ」


 桜子は少し俯いた。


「でも、先生のそばにいるのが好きなんです。先生の創作を間近で見られることが、私にとって何よりの学びです」


 鳳来はため息をついた。本当は桜子にもっと自立してほしいと思っていた。でも、彼女の献身的な姿勢を否定することもできなかった。


「あなたはいつか、私を超えるのよ。それを楽しみにしているわ」


 鳳来がそう言うと、桜子は照れたように微笑んだ。


 二人がアルバムを見ているうちに、外は徐々に暗くなっていった。冬の夕暮れは早い。


「もう五時か。今日はここまでにしましょう。桜子さん、明日また来てくれるかしら?」


「もちろんです。でも、先生、今日はこのまま帰っても大丈夫ですか?」


「ええ、美代子が夕食を持ってくると言っていたから。それに、もう体調はずいぶん良くなったわ」


 桜子は少し迷った様子だったが、最終的にはうなずいた。


「わかりました。また明日。でも、何かあったらすぐに電話してくださいね」


 桜子が去った後、鳳来はもう一度自分の作品を見回した。未完成の大きなキャンバス、壁に掛けられた過去の作品たち。それらはすべて、彼女の人生の証だった。


 ふと、鳳来は村上先生の言葉を思い出した。


「絵を描くのは、自分の魂を紙の上にぽつんと置くようなものだ」


 もしそうなら、彼女の魂はこれらの絵の中に生き続けるのだろうか。死後も何かが残るとしたら、それは彼女の作品の中なのかもしれない。


 鳳来は窓際に立ち、空を見上げた。暗くなり始めた空には、まだ色が残っていた。青と紫と赤のグラデーション。彼女がいつも作品で表現しようとしていた色だ。


「まだ描くべき色がある」


 鳳来はそう呟いた。死はいつか必ず来る。でも、それまでの時間を無駄にするわけにはいかない。彼女にはまだやるべきことがあった。


 鳳来は椅子に腰を下ろし、スケッチブックを取り出した。柔らかな鉛筆の線が紙の上を滑っていく。それは新しい作品のための下絵だった。八十四歳の手は少し震えていたが、描き出される線には確かな力強さがあった。


 窓の外は完全に暗くなり、星が輝き始めていた。

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