第8章:交錯する運命 ~過去と未来の狭間で~

 梅雨の雨が小休止したかと思えば、神戸の空は再び薄曇りに覆われていた。ジメジメとした空気が、山と海に挟まれたこの街特有の湿度をいっそう際立たせる。そんな中、粟生(あお)はいつものように早朝に目を覚まし、ほんの少しだけ散歩をしたあと、まだ閑散とした海舟メモリアル図書館へ向かった。

 昨夜も深夜に及ぶまで解読作業を続けていたが、地下での発見を経て、過去の恋人たちの存在が一段と鮮明になり始めている。彼らの物語――イギリス人商人と日本の旧家に生まれた娘――当時の身分や国籍の壁を越えて愛し合おうとした二人の姿が、暗号や日記、写真を通じて少しずつ浮かび上がる。

 その恋は悲劇的な結末を迎えたとされるが、詳細は暗号に隠され、まだすべてが明かされたわけではない。図書館から盗まれた文献や、地下に封印されていた書簡を合わせて読み解けば、最期に交わされた約束の場所や時間が判明するかもしれない。そこに一連の事件を解くカギが潜んでいる――粟生には、そんな予感があった。


 館に到着すると、すでに司書・三田(さんだ)はアーカイブ室でパソコンと睨めっこしていた。顔にやや疲労がにじむが、その瞳には燃えるような意志が宿っている。二人は互いに小さく会釈し合い、黙って机に向かった。

 「おはよう、三田さん。……調子はどう?」

 粟生が声をかけると、三田は微かに笑みを見せる。

 「ええ、暗号の解読がかなり進んでます。昨夜まとめた資料のおかげで、当時の恋人たちがどんな手順で隠れ家を行き来していたか、ある程度見えてきました。あとは、どこで最期を迎えたのか……その部分にまだヒントが足りないように思いますが。」

 スクリーンには、象形文字と数字の羅列が映し出され、各項目ごとに注釈がついている。「山と海」「夜と朝」「誓いと別れ」――意味深な単語が幾重にも並び、見ているだけで胸が締めつけられるようだ。


 「この“誓い”っていう暗号っぽい部分、おそらく二人が最後に取り決めた“待ち合わせ場所”を意味してるんじゃない? しかも“海の見える丘”って書かれているから、神戸の街で海と山を同時に望める高台だろう。……異人館街のあたりかもしれないな。」

 粟生が仮説を口にすると、三田は大きくうなずく。

 「はい。文章にも“丘の上で再会を誓う”とか、“欧州式の石段を登った先”みたいなフレーズが散見されますし。神戸の地理を考えれば、北野や山本通あたり、あるいはさらに上に行って外人墓地付近かもしれません。でも、地形や建築の変遷を踏まえると、当時の光景は今とは違うはずで……調べる必要がありますね。」

 数日前まで漠然としていた暗号が、こうして具体的な地名や風景と結びつくようになると、二人の胸には不思議なロマンと焦りが混在する。犯人が同じ情報に辿り着けば、先手を打って“何か”を成し遂げてしまう危険があるからだ。


 図書館内の騒動は、一方でますます拡大しつつあった。新聞やネットニュースが「神戸市海舟メモリアル図書館で相次ぐ希少文献の盗難」という見出しを大きく扱い、館の信頼問題が揺らぎ始める。副館長の鷹尾(たかお)は市役所や関連団体から説明を求められ、連日電話や会議に追われていた。

 「外部から取材依頼も来ているし、下手に情報を隠しても疑われるだけ。何とか早期解決しないと、館の評判が地に落ちますよ……。」

 疲れ切った表情で鷹尾が司書室に戻ってくる。三田は申し訳なさそうに頭を下げながらも、「こちらも必死で調べております」と答えるしかない。

 しかし、盗難は止まず、犯人の姿さえ捉えられない現状では、世間は苛立ちを募らせるだけだ。粟生は副館長に「もう少し時間を」と頼むが、あまり良い反応を得られず、組織的にも焦燥感が増しているのを感じる。


 そんな中、粟生がさらに暗号を読み進めると、「明治期に英国から来た男性と、旧家の娘が、数度の失敗を経て最終的に“夜明け前の丘”で落ち合うことを誓った」という具体的な記述が浮かび上がってきた。しかも、その直後に“連れ去り”や“争い”を示唆する言葉が混在しており、どうやらこの恋は血なまぐさい事件へと発展した可能性が高い。

 「連れ去り……? 家族が娘を強制的に引き戻したのか、あるいは別の人間が介入したのか……。」

 粟生が推測すると、三田はうつむいて呟く。

 「悲劇的な最期と聞いていましたが、こうまで暗示が多いとは。しかも、実際に命を落としたのは英国人男性の方だったみたいですね。娘の方はその後行方知れず……。」


 想像を巡らせば巡らせるほど切なくなる。愛を貫こうとした二人は、社会の圧力や家の都合に踏みにじられ、最後に悲惨な別れを余儀なくされた――それが、この図書館(当時は洋館)を拠点に暗号でやり取りされていた事実と絡んでいる。

 「犯人は、そんな過去の真実を世に暴露したいのか、それとも闇に葬るために資料を回収しているのか……。どっちにしろ、ここまで執着する理由はただの興味本位じゃないだろうね。」

 粟生が思案気に漏らすと、三田は複雑な表情でしばらく口を開かなかった。


 一方、夜の巡回が続いても、相変わらず犯人を直接確保できないでいる。職員や警備員が目撃した足音や人影は、相変わらず摩訶不思議なタイミングで姿を消す。カメラにはわずかに映り込むが、すぐ死角へ移動してしまい、画面を追う間もなく見失ってしまう状況だ。

 やむを得ず、防犯強化をさらに図る館側。だが、メディアの報道が加熱するにつれ、世間からは「内部犯行では?」との疑惑も囁かれ、鷹尾は参っている様子だ。館長は外部会議で不在がちで、現場で火消しに当たる副館長は、もはや精神的に追い詰められているように見える。


 「外部の声もきついですが、内外から圧力が増すほど、犯人が焦る可能性も高まる。俺たちとしては、その瞬間を狙うしかない……。」

 粟生は自分に言い聞かせるように呟くが、その目には決意がみなぎっている。三田も強く頷き、さらに暗号の解読を急ぐ。

 暗号の“最終地点”は、おそらく丘の上――だが、そこはどこなのか。どうやって辿るのか。引き続き、複雑な数字の組み合わせや象形文字との照合を繰り返す。こうした地道な作業は膨大な時間を要するが、逆に言えば犯人に先行するにはこれしか道がない。


 そんな作業の最中、三田の様子が日に日に変化していくのを、粟生は感じ取っていた。彼の気配はどこか穏やかになったかと思えば、突然塞ぎ込むこともある。まるで“過去の自分”を鏡に映し出したように、この悲恋の物語と共鳴しているのだろう。

 ある夜、館のロビーで一息ついていると、三田がふと声をかけてきた。

 「……僕、かつての自分と重ねてしまうんです。立場も理由も違うけれど、当時の二人が必死で暗号を組んだのに、それが報われず悲劇に終わった……そんな事実を思うと、過去の自分が何も言えずに別れてしまった苦さと重なるんです。」

 胸の奥からこぼれ落ちるような告白に、粟生は静かに頷く。そして、少しだけ自分の過去を口にした。

 「俺も似たようなもんだ。大切な人を失って、悔やんでもどうにもならない日々があった。だから今、こうして事件を追いかけることで、“誰かの想い”を完遂できるならと思ってる。……少しは過去の自分を救えるんじゃないかって。」


 薄暗いロビーを明るく照らす蛍光灯の下、二人の心がさらに近づいた瞬間だった。まだ明確に言葉にはしないが、その沈黙の合間に共有される痛みと優しさが、粟生と三田を確かに結びつけはじめていた。


 翌日、また新たな盗難未遂が起こった――何者かが館の奥の資料室に侵入しようとした形跡が見つかったが、鍵を破ろうとした痕だけが残り、実際の被害はなかった。まるで焦れた犯人が強行策に出かけたが、失敗したようにも思える。

 この事件が新聞の小さなコラムに載ると、ネットでも「図書館怪盗」「明治の禁断の恋の亡霊」などと噂が拡散され、騒ぎは広がる一方。鷹尾が再び記者から質問を浴びるが、「コメントできる段階ではない」と繰り返すしかなく、ますます風当たりが厳しくなる。


 「一刻も早く全容を解明しなきゃ、ほんとに騒ぎが収まらないですね……。内部の職員にも動揺が広がってるし、利用者も減少気味ですし。」

 日下部が頭を抱えている横で、粟生と三田は改めて時間をかけて暗号を検証し、事件をまとめる作業に没頭する。

 「もし暗号の終着点が本当に“海の見える丘”だとしたら、そこに犯人がたどり着くのは時間の問題かもしれない。あるいは、もうすでに現地を探っているかもしれない。」

 粟生はもやもやとした危機感を抱えつつ、ノートパソコンに地図を表示させる。神戸の高台で海が見える場所は多いが、当時の地形を考慮すれば範囲は限られるはずだ。


 こうして粟生は、三田、そして警備員の一人とともに、昼下がりの休憩時間を利用して実地調査に出ることにした。北野異人館街から山本通、さらに外人墓地のあるエリアを回り、当時の地形を示す古地図と照らし合わせてみるのだ。

 細い坂道を登ると、洋館風の建物が並び、観光客が少しだけいる程度。雨が上がったばかりの風景は、独特のレトロな雰囲気を漂わせる。粟生は地図を片手に、遠くに見える神戸港を観察しながら、「ここからの眺めが当時の“海の見える丘”に近いかもしれない」と感じ取る。


 「もし、このあたりが暗号に示された最終地点だとしたら……恋人たちはここで最後の約束を交わそうとしたんじゃないか?」

 三田が切なげに漏らす。周囲の異国情緒や坂道に息を呑みながら、かつての二人が夜の闇を縫うようにしてここに来た姿を想像するだけで胸が苦しい。

 「ただ、実際には警察や家族に見つかって連れ戻され、男性が命を落とす流れになったのかも。もしかすると、この地が最期の目撃場所だった可能性もあるな……。」

 粟生が遠い目をする。今はただの観光スポットにしか見えないが、そこに血や涙の香りが染み付いていたかもしれないと思うと、現実感が一気に増してくる。


 館に戻って再び作業を重ねるうち、暗号と実地での感触が合致しはじめた。どうやら「海の見える丘」で最終的に二人は逢おうとしていたが、そこに至るまでの間、図書館(当時の洋館)で暗号を使いながら衣装や資金を準備していたらしい。おそらく駆け落ちの計画も含め、詳細に書かれたメモや手紙が存在しているはずだ。

 「それこそが“事件を解く”本格的な暗号メッセージ……二人が最後に残した指示書か、あるいは秘めた思いを綴った書簡。現に地下で一部が見つかったけれど、それがまだ不完全なんですよね。」

 三田がタブレットを操作しながら嘆く。そこに重要部分が欠落しているからこそ、犯人は他の文献を探しているのだろう。


 そんな矢先、粟生がノートを見て顔を上げる。「つまり、犯人は“完全なメッセージ”を再構成しようとしているのか。最期の場所や時間、もしくは二人が封印した真実がそこに示されているのか……。」

 もし真実が暴かれると、現代に何か不都合が生じる存在――あるいはそれを望む存在――が犯人なのかもしれない。ますます謎は深まるが、粟生と三田は確実にゴールに近づいていると感じていた。


 ところが、その直後、館内で事件が起きる。とある職員が「暗号文が保管された鍵付きキャビネットが荒らされた」と報告し、現場に駆けつけると、なんとロックが壊されそうになった形跡があった。幸い一部しか破損されていないが、あと一歩で暗号文の原資料を持ち去られるところだったのだ。

 「くそ、また強硬手段か! 犯人はもう時間がないのかもしれない……。」

 副館長の鷹尾も真っ青な顔で怒鳴るように叫ぶが、現場に証拠らしいものはほとんど残っていない。カメラ映像にも不審な人影が映った気配はあるが、またしても死角に逃げ込まれた。


 これにより、館内は大騒ぎとなり、「もう内部犯がいるのでは?」と職員の間に疑心暗鬼が広がる。粟生は急ぎ三田を呼び出し、今後の対策を練ることに。

 「ここまでやってくるんだ。もう最後の仕上げに近いと見ていい。暗号を完成させたら、きっと“海の見える丘”に行くつもりだろう。あるいは、その前に地下の隠し部屋のさらに奥を開けるとか……。」

 三田もうなずく。「どちらにしろ、早く全貌を掴んで先回りしないと――。」


 そして夜。二人は再びアーカイブ室にこもり、徹夜覚悟で暗号を詰め切る。これまで得たすべての断片を総合し、パズルの最後のピースを探す。途中何度も警備員から“異常なし”の連絡が入り、館内巡回をしても尻尾を掴めないまま時間が過ぎる。

 だが、明け方近く、ついに粟生が声を上げた。

 「……おそらく“暗号が示す本当の場所”はここだ。先日の調査で回った異人館街の一角、今は一般住宅が並んでる区画だけど、当時は洋館の所有地が広かったみたいだ。山を見渡せて、海を遠望できる丘の端。もしそこで二人は再会を誓ったのに……。」


 タブレットの地図には北野地区の複雑な区画が表示され、現在と当時の地図を重ねるソフトで検証すると、ある地点が合致することが判明した。三田が興奮を抑えきれない様子で続ける。

 「ここ、今はマンションになってるはずです。けれど敷地の一部に古い洋館の基礎が残っているとか聞いたことがあります。もしそこが真の最終地点なら、犯人はきっと……。」


 まるで運命を紡ぐように、二人の指が重なりそうになる。暗号は“海の見える丘”へ導き、そこに“最後の誓い”が眠っている――過去の恋人たちが生きた証を葬るためか、あるいは復活させるためか。犯人の狙いは確実に近づいている。


 しかし、その絶好の発見を成し遂げた直後、突然アーカイブ室の電気が一瞬パチパチと明滅する。何者かが電源をいじったのか、館内のブレーカーが落ちかけているのか――不吉な予兆に思わず息が詰まる。

 「な、なんだ……。停電か?」

 粟生はすぐに警備室に連絡を入れようとするが、回線が混線しているのか繋がりにくい。三田が「また妨害かもしれませんね……犯人が焦ってる?」と苦い顔になる。

 仕方なく廊下へ出て警備員を探そうとした瞬間、館内放送が途絶え、非常アラームらしきものが短く鳴った。何者かがシステムに干渉しているのか、警備員たちの走る足音が遠くで聞こえる。


 「まずい……館が混乱している。犯人が意図的に騒ぎを起こしているのかも。」

 粟生は急いで三田を連れ、通路を駆ける。そこら中で薄暗い非常灯が点滅し、まるでホラー映画のような光景だ。職員たちの声が聞こえるが、どこで何が起きているのか把握しづらい。


 数分後、ようやく警備室に行き着くと、警備員がモニターを操作しながら「書庫のカメラがまた死角だらけです。誰かがカメラを動かしてる……」と叫ぶように言う。

 (まさか、本格的に“最後の文献”を奪いに来たか?)

 粟生と三田の脳裏にそんな可能性がよぎる。ちょうど暗号解読が大詰めを迎え、二人が“真の場所”に近づいた今、犯人も最後の仕上げに動くタイミングが合致してしまったのだろうか。


 「よし、俺たちは旧館地下へ回る。三田さん、いいね?」

 「はい、行きましょう……。ここで逃したら、また夜が明けてしまう。」

 二人は疲労や恐怖を振り払うかのように駆け出す。背後では日下部が「気をつけて!」と叫ぶが、彼らの足は止まらない。どこかで敵と遭遇するリスクがあるとしても、この混乱下でじっと待つより先に進むほうが得策だ。


 こうして矢継ぎ早のイベントに巻き込まれながら、章はクライマックスへ突入する。粟生と三田は“運命の印”を完全に解読し、“過去と未来”が交錯する場面を目前に控えている。

 同時に、粟生自身の失われた愛への後悔や、三田が抱える孤独と再生の願いが、かつてのイギリス商人と日本人女性の悲恋と重なり合い、二人の胸中を揺さぶっていた。まだはっきりと言葉にできないが、互いを意識する微妙な感情が芽生え始めているのは明らかだ。


 館内での異常事態がピークに達する中、犯人の狙いがより鮮明になる――暗号を完成させ、“海の見える丘”で何らかの儀式や真実を暴露しようとしているのかもしれない。粟生はその青ざめた表情のまま、あとわずかの差で“妨害”に遭わないよう祈りながら、暗い通路を駆け抜ける。

 一歩間違えば、今夜こそ犯人と直接対峙することになりかねない。だが、それこそが最終的に過去の恋と現在の事件を交わらせ、すべてを終わらせる運命の瞬間なのだろうか。

 未知なる結末が待つ“過去と未来の狭間”に、粟生と三田は飲み込まれつつある――彼ら自身の心が、悲恋の運命を辿るのか、それとも新たな光を見いだすのかは、まだ定かではない。


 こうして第8章は幕を下ろす。物語は大きく加速し、暗号解読がほぼ完了しつつある一方、犯人の影が鮮明に迫ってきた。過去の恋人たちが残した悲劇と約束が、現代の粟生と三田を巻き込みながら、運命の歯車を激しく回し始める。

 次なる章では、解読された暗号が指し示す最終目的地――“海の見える丘”――でどんな衝撃が待ち受けるのか。旧館の地下に隠された扉や、犯人の意図は実現してしまうのか。そして、粟生と三田の絆は果たして悲劇を回避できるのか――すべての伏線が交錯する中、物語はさらに緊迫の度合いを増していく。



(第8章・了)

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