第6章:秘密の解読 ~心を結ぶ作業~

 神戸市海舟メモリアル図書館に朝の光が差し込むころ、粟生(あお)は三田(さんだ)と待ち合わせをしていた。昨夜も遅くまで暗号解析に打ち込み、わずかな睡眠しかとれなかったせいか、二人とも目の下にクマができている。だが、その表情には奇妙な高揚感が混じっていた。


 前日までに分かったこと――それは「身分や国籍を超えた恋愛」に関連した古文書や手記の中には、特定の象形文字や数字の組み合わせが頻出し、それらが“運命を刻む印”として機能していたらしいという点だ。しかも、当時の恋人たちは、これを用いて逢瀬の場所や時間を密かに示し合っていた可能性が高い。犯人がそれらを求めているのも、何かしら重大な目的があると推測される。


 「今日こそ、本格的にまとめましょう。昨夜、いくつかの資料を突き合わせてみたら、単なる絵柄じゃなくて“実際に数字と地名がリンクしている”としか思えないパターンがいくつか出てきたんですよ。」


 三田が意気込んだ声でそう話す。粟生は言葉少なにうなずき、用意していたメモやノートパソコンを開いて席に着く。場所は、図書館の2階にある小さなミーティングスペースだ。朝のうちは利用者も少なく、ここなら落ち着いて作業ができそうだった。


 「たとえば、この“蔓のような線”と“山を示す三本の斜線”を合体させた記号。角度を調べたら、ちょうど六甲山を望む視点を模しているんじゃないかという仮説が成り立つんです。しかも、数字の組み合わせが“3-6-5”と“1-9-0-2”のように区切られていて……どこか年号や標高に関連しているように感じる。」


 三田が口早に説明しながら、プリントアウトした紙に赤ペンで線を引く。その情熱的な態度に、粟生は圧倒されつつも感心していた。司書として積み上げてきた知識と、かつて“報われない恋文”を守れなかった後悔が、今の三田を突き動かしているのだろう。


 「なるほどな。年号とか標高とか……じゃあ“山側”の暗号なんだな。となると、“海側”を示す記号もあるはずだよな。前に出てきた錨(いかり)っぽいマークや、波形の曲線が怪しいと思う。」


 粟生がパソコン画面を開き、昨日までにデータ化した暗号パターンのファイルを呼び出す。そこには先人が残した研究ノートの断片も含まれていて、神戸港を指し示すらしき記号がいくつも羅列されている。

 「はい、こっちです。錨と波形が隣り合っているものは、決まって数字が続くんですよね。“7-2-0”とか“8-0-5”とか……。何を意味しているかまだ確証はありませんが、下手をすると“旧港の桟橋番号”とか“昔の埠頭の通し番号”なんて線もあり得ます。」


 三田が嬉々として語るのを見て、粟生は思わず笑みをこぼす。いつもはおとなしく控えめな彼が、これほど熱を帯びている姿は新鮮だ。

 (本当に、こういう歴史的資料の解読が好きなんだな……。)


 しかし、次の瞬間、三田の表情が急に翳った。ふとした弾みで“失敗”や“失われた恋文”のことを思い出したのかもしれない。自分にしか分からない後悔がこみ上げているらしく、彼は少し目を伏せる。

 「あ……ごめんなさい、先走りました。続きをやりましょう。」


 粟生は声を掛けたい衝動を抑え、「いや、こちらこそ。焦らずに行こう」とだけ言う。今は解読作業に集中するべきタイミングだ。



 数時間後、午後も昼下がりを過ぎた頃、二人は広げた資料を一旦片づけ、館内での状況を確認するために司書室へ向かった。日下部(くさかべ)や他の職員が盗難被害の進捗や警備員の報告をまとめているからだ。


 「特に新しい被害は出ていないみたいですよ。昨夜から今朝にかけては、何も盗まれていません。ただ、こちらをご覧ください。」


 日下部がタブレットの画面を見せる。そこには、ここ数日で館内職員や来館者から寄せられた“妙な物音”や“人影の目撃情報”がリストアップされていた。

 「警備員も巡回を強化してるんですけど、犯人なのか不審者なのか、そもそも幻聴や錯覚かも分からない。でも、こうして見ると特定のエリアでの目撃例が多いんです。」


 三田がそのリストを食い入るように見つめる。確かに、旧館の地下階段付近や、“防空壕跡”の可能性が指摘されている区画での目撃が集中しているようだ。

 「やっぱり、あの隠し部屋や通路が存在するんでしょうか。犯人はそこを利用して文献を隠しているか、あるいは出入りしている……。」


 粟生は唸るように声を上げる。先日見つかった隠し扉や地下通路も、その一端に過ぎないのかもしれない。

 「もし暗号が示す“山と海”の組み合わせが館の地下構造に対応しているなら……館内の特定箇所ってのは、まさにその隠し通路の入り口か出口か? 今のところ確証はないが、関連はありそうだ。」


 日下部も苦悩の表情を浮かべる。増改築や修復を繰り返した建物だけに、完全な構造図がないのだ。

 「館長や副館長も動いていますが、あまり派手に工事や調査をするのは難しいらしく……。早く解明したいのに歯がゆいですね。」


 このようなやり取りをしながら、三田と粟生は「やはり暗号と館の構造を繋げる作業を本格化せねば」と決意を新たにする。ちょうど夕方にかかる時刻で、またバタバタと利用者が帰り支度を始める。夜になれば、静かに作業を続けられるかもしれない。



 夜、閉館のアナウンスが流れる。粟生と三田は、またしてもアーカイブ室にこもることにした。帰宅する職員たちの「お疲れさまでした」という挨拶を受けながら、二人は最後まで残り、暗号解析の続きを行う。警備員や日下部は巡回をしたり、警備室で監視カメラをチェックしたりと手分けをしている。


 アーカイブ室の大きなテーブルには、相変わらず紙やノートパソコンが山積みだ。二人は椅子に腰を下ろし、ため息まじりにコーヒーをすすりながら作業を再開する。


 「ここ数日の記号分析を総合すると、確かに神戸の地形を示すパターンと、“日付や時間”らしき数字のパターンの二種類があるように思えます。それらが組み合わさったときに“暗号文”として完成すると……。」

 三田が新たな資料を開きながら説明する。目には赤い血走りが見えるが、その声には妙な興奮が宿っている。


 「たとえば、『月と波』、『山と錨』など組み合わせが何通りもあって、そこに数字が付随する。でも、数字の並びをよく見ると大正年間を示すような年号や、西暦で換算した明治の年号っぽいものがあるじゃないか。そこに何か裏の意味が……。」


 粟生もペンを走らせながら、幾つかの可能性をリストアップしていく。

 - 例えば“1892年の冬、六甲山の麓で夜の8時に会う”ことを暗示する記号

 - あるいは“1903年の夏、港の倉庫に隠れる”ことを示す記号

 こうした恋人たちの“密約”が暗号化され、複数の文献にまたがって散りばめられているのだろうか。


 「もちろん、これがただの妄想に終わらないよう、同じ年号や数字を示す記述が他の手記にもあるか突き合わせたいですね。作業は大変だけど、突き止めたときには大きな武器になる。」


 三田が決意をにじませる。その姿を見て、粟生は少しためらったあと、口を開いた。


 「三田さん。もし、この暗号が単に恋人たちの思い出を示すだけならいいが、何かもっと深い悲劇を暗示しているかもしれない。たとえば、当時殺人や自殺未遂まで発展したケースだって考えられる。……そういう話を読んだら、かなり心に来るんじゃないか?」


 この問いに、三田は苦い表情を浮かべる。

 「そうですね……正直、怖いです。でも、そもそも無視しても盗難は止まらないし、犯人の狙いが分からないままだ。どんな結果になったとしても、僕は知りたいんです。『報われない恋がどんな最期を遂げたのか』。かつて救えなかった恋文のことを考えると、今度こそ向き合わなきゃいけない気がするんです。」


 粟生は彼の真剣な瞳を見つめ、静かにうなずく。自分もまた、過去に失った愛がある身だ。三田の覚悟には胸を打たれるものがあった。



 そのとき、ドアをノックする音が響く。日下部の声が遠慮がちに聞こえた。

 「ちょっと失礼します……。今、警備員さんから“奇妙な足音が聞こえた”って連絡があって、また旧館の地下付近らしいんですけど……。」

 粟生と三田は顔を見合わせる。ここ数日、何度も同じような報告がありながら、成果は得られなかった。でも、もしかしたら今度こそ犯人が動いているのかもしれない。


 「行ってみよう。ここで成果を逃すわけにはいかない。」


 作業を中断し、三田と粟生は日下部と合流して旧館へ向かうことに。閉館後の薄暗い廊下を、懐中電灯を手にゆっくり歩む。歴史ある壁面に飾られたステンドグラスの模様が、闇の中でかすかに浮かび上がって不気味な雰囲気を醸し出す。


 (暗号解読は進んだけど、まだ犯人を捉えない限り結末には到達できない……。)


 粟生はそんな焦燥を胸に、足音をしのばせる。三田も緊張の面持ちだ。

 「足音っていうのは、いつどこで聞こえたんでしょうか?」

 「ついさっき、地下階段を巡回していた警備員が、一瞬人影を見たような気がしたと。ただ暗くてはっきり分からなかったといいます。」

 日下部が息を詰めながら答える。


 書庫や防空壕跡らしき通路をすみずみまで探すが、やはり人影は見つからない。下に降りたフロアはほとんど暗く、足元が微かにきしむ音がするだけだ。何度となく同じような探索をしているが、犯人は巧妙に姿を隠すのか、それともすでに逃げたのかもしれない。


 「今回も空振りかな……。いったい、いつになったら捉えられるんだ。」


 粟生は低く唸る。三田と日下部も疲弊した表情を隠せない。闇の中を手探りするような状況では、物理的な証拠にたどり着くのは至難の技だ。



 深夜になり、結局何の成果も得られないまま三田と粟生はアーカイブ室へ戻った。日下部は巡回チームと別れ、司書室へ向かう。何か報告があればインターホンで連絡する約束だ。

 静まり返ったアーカイブ室に入り、二人は改めて椅子に座った。先ほどまでの緊張が一気に解け、ぐったりと疲労が押し寄せる。


 「ああ、もうくたくただ……。少し休むか?」

 粟生が提案するが、三田は首を振る。「あともう少しだけ。暗号の核心が近い気がして……。」


 あふれる情熱に触発され、粟生も眠気を振り払う。机の上には暗号パターンの整理ノートが何冊も積まれている。

 「じゃあ、これまでまとめた仮説を再点検しよう。“山と海”を示す記号が組み合わさることで“神戸の地形”を連想させ、そこに数字が絡み合うことで“日時”や“座標”を表すと。加えて、幾つかの象形文字は“愛の誓い”を暗示するかもしれない……。」


 三田はペンを走らせつつ、昨日拾った研究ノートをめくる。ここで思わぬ情報が目に留まった。


 「“洋館の地下に隠し部屋があり、そこで恋人たちが連絡を取り合っていた”――そういう伝承があるって書かれてる。これ、まさに私たちが探している隠し通路や防空壕の話かもしれませんよ。」


 紙面には“旧館の地下には防空壕跡の一部が残されている”、“そこがかつての洋館時代、身分違いの恋人たちの“密会場所”となった”というような記述が走り書きされている。当時は執事や下女を巻き込み、秘密裏に逢瀬が行われていたと噂されているらしい。


 「もしかして暗号には、その隠し部屋へ行くための座標や鍵の在りかが書かれている? だからこそ犯人は館内から資料を片っ端から回収して、完全なルートを掌握しようとしているのかもしれない。」


 想像するだけでぞくりとする。もしその隠し部屋が今も残っていて、そこで何らかの証拠や禁断の記録が大量に眠っているなら……犯人がそこを目指すのも頷ける。

 「ならば、こちらが先にたどり着けば、犯人の計画を阻止できるし、盗まれた文献を取り戻せるかもしれない。」


 三田の顔にうっすらと汗が浮かぶ。粟生も深く息をつき、決意に近い言葉を口にする。

 「そうだな。暗号が指し示す場所を突き止め、先回りして犯人を捉える……これがベストなシナリオだ。」



 夜も更けてきたが、二人はなおも紙と向き合う。作業を続ける中で、三田がふと声を震わせながら言う。

 「……粟生さん、こんなことを話すのはどうかと思うけれど。実は僕、以前勤めていた図書館で恋文を救えなかっただけじゃなく、自分自身も似たような恋をして、結局上手くいかなかったんです。」


 粟生は意外そうに三田の横顔を見る。彼は視線を落とし、震える声で続ける。

 「身分とか国籍とか、そういう大袈裟な問題ではなかったかもしれない。でも僕にとっては“越えられない壁”がありました。自分の性格や過去のトラウマで、相手に踏み込めなかった……。結局、何も言えずに終わってしまって……今も後悔してるんです。」


 胸が痛むような告白に、粟生は黙って耳を傾ける。自分も似たような苦しみを抱えているからこそ、痛いほど気持ちが分かった。

 「それで、こういう“封印された恋”の資料を見ると、自分の無力さを重ねてしまう。だから今度こそ救えるなら、救いたいって……思ってしまうんです。馬鹿みたいですよね。」


 粟生はそっと三田の肩に手を置く。

 「馬鹿なんかじゃないよ。過去の苦しみを知っているからこそ、今の状況に真剣に向き合える。俺だって、かつて大切な人を救えなかったから……その後悔を原動力にして、探偵になったんだ。似たようなもんさ。」


 暗闇に包まれたアーカイブ室で、蛍光灯の白い光だけが二人を照らす。その空間は、まるで時間が止まったような静寂に満ちていた。粟生と三田は、人生の痛みを少しずつ打ち明け合うことで、不思議な安堵感を分かち合う。



 翌朝。結局、夜通しで解析を続けた二人は、ついに“暗号の一部を具体的に解読”したとの見解に至った。明治の大正初期までに書かれた恋愛手記のうち、ある種の“鍵付き記号”が散りばめられ、それらを総合すれば“旧館地下に続く道”を暗示する可能性が高い。さらに座標や日時を示すと思われる数字列も判明し、そこには“二人が心を結ぶ時刻”というようなロマンチックな文言が推測される部分もある。


 「これが確定的証拠ではないけれど、状況的に犯人がそこを狙っているのは間違いないでしょうね。隠し部屋か防空壕跡か……とにかく、そこに当時の恋人たちの“未公開の記録”が残っているのかもしれない。」


 三田が大きく伸びをしながら言う。顔は疲労でやつれているものの、長い試行錯誤を経て結論に近づいた喜びが感じられた。粟生もうんうんとうなずきながら、さっそくこの情報をどう活かすかを考える。


 「じゃあ、これを元に、館内をくまなく調べるしかないな。すでに何度か試みたが、今度は具体的な“位置の目星”があるわけだから、一気に突き止められるかもしれない。」


 実際に暗号が指す座標や地形のイメージと、館の増改築を示す図面を重ね合わせれば、どこかに“当時の洋館地下”への入り口があるはず。見逃してきた隠し扉や仕掛けが、まだ潜んでいる可能性が高い。



 朝イチで二人は職員たちを集め、緊急ミーティングを行った。日下部や警備員チームの代表も加わり、粟生が「暗号解読による推測」を説明する。正直、信じがたい内容かもしれないが、日頃からの盗難事件でみんなが疲れ切っている今、わずかな希望でも掴みたい気持ちが強い。


 「これらの記号は、明治期の恋愛手記に登場する暗号らしきものとほぼ一致します。おそらく、旧館地下に隠し部屋があるとしたら、そこへ誘う“地図”の役割を果たしているはず。犯人がこれを利用しているのなら、我々も先回りして調べるべきです。」


 粟生が落ち着いた声で説明すると、三田は続けて具体的な候補場所を指し示す。

 「この図面を見てください。ここに“戦後に埋めた”とされるスペースや、“防空壕跡を途中で塞いだ”という記述が複数見られます。暗号が示す内容と重ね合わせると、この一角が最も怪しい。わずかに壁が厚くなっている部分があるんですよ。」


 地図上で示された区画は、旧館の地下階段を下りた先のさらに奥、一度も立ち入りを確認していない“空きスペース”があるという。一同は顔を見合わせ、不安と期待が入り混じった表情を浮かべる。そこが実際に通じているかは未知だが、たしかに今までスルーしてきた場所でもある。


 「よし……そこを集中的に探検しましょう。なるべく少人数で、一気に調べる。」


 日下部が決断を下す。職員総出で大がかりにやると犯人に警戒される恐れがあるし、図書館の利用者を巻き込むのもリスクが高い。閉館後に粛々と捜索する計画が立てられる。



 そして当日の夜。館が閉館した直後、粟生、三田、日下部、それに警備員の一人がチームを組み、旧館地下へと足を踏み入れる。懐中電灯と簡易的な工具を携え、念のため対話用のインカムも装着し、いざ“暗号が示す壁”を探すのだ。記録係の職員が一人カメラを回すが、できるだけ静かに動くよう警戒心を高めている。


 階段を下り、薄暗い廊下を進む。足元はひんやりとし、湿った空気が漂う。どこからか水滴が落ちる音がかすかに響き、何度来ても妙な圧迫感がある。

 「この先、左手にある倉庫の裏側が怪しいんだよな。過去の図面では“埋め戻し”と記されてるけど、それが不確かだという話だった。」

 粟生が確認するように呟く。三田がうなずき、タブレットの拡大図をチェックしながら言う。


 「はい。暗号にも“山の線と波の曲線”が重なったマークが出てくるんですが、そこに“8-4-1-9”という数字が併記されていました。年号なのかスペース番号なのか、正体不明なんですけど、図面の“8.4m×19m”という寸法がぴったり当てはまるんですよ。」


 なんとも偶然とは思えない一致に、日下部と警備員も息を呑む。もしそこが暗号に示された空間なら、今回の盗難事件の核心に近づくかもしれない。


 廊下の奥、左手の倉庫へ入る。そこにはホコリまみれの古い道具や木箱が積まれ、普段ほとんど使われていないスペースだ。薄暗いランプを点け、粟生たちはゆっくりと壁を探る。しばらくして、三田が「ここ……妙に響きが違います」と声を上げる。コンコンとノックすると、どうやら普通のコンクリにしては音がやや軽い。


 「叩いた感じ、中は空洞かもしれないね……。」

 警備員が呟き、試しに壁面の一部を工具で軽く削ってみると、予想どおり、表面の奥に空間がありそうな感触がある。

 「うわ、ここ、本当に埋めてないんじゃ……。」


 日下部が驚愕の表情を浮かべる。もし暗号どおりなら、この先に隠し部屋があるかもしれない。粟生は警備員に目配せし、あたりを慎重に見回す。万一犯人が潜んでいる可能性もあるからだ。


 「よし、少しだけ壁を破ろう。騒音でバレるかもしれないが、ゆっくりと慎重にやれば……。」


 こうして、チームは最低限の手で壁に穴を開ける作業を始める。サクサクと音を立てて表面のモルタルが剥がれ落ち、次第にすき間が見えてくる。埃が舞うのを警備員が懐中電灯で照らし、慎重に進める。

 「ほら、向こう側に空間が……!」

 日下部が興奮気味に声を出す。確かに、真っ暗な空洞が広がっているのが懐中電灯で確認できた。


 「犯人もここを通っているのか。それとも、まだ誰も知らない空間なのか……。」

 三田が微かに震える声で呟く。粟生は警備員の肩を軽く叩き、「先に俺が入る。何かあっても落ち着いて」と言い残して、小さな穴から身体をねじ込むようにして中へ入った。



 真っ暗な空間の中、懐中電灯をかざすと、そこは古いレンガ造りの壁が見える。天井は低く、湿った空気が肌を刺すようだ。足元には石や土がまばらにあり、何か荷物らしきものが転がっている。


 「うわ……蜘蛛の巣もすごいな。長い間、放置されていた感じだ。」

 粟生が声を出すと、後ろから三田たちも続く。空気は重く澱んでいるが、少なくとも“隠し部屋”と言えるほどのスペースはあるようだ。奥の方にはまた扉のようなものが見えるが、錆びついており完全に閉ざされている。


 「まさか、ここが……あの暗号に示された部屋……?」

 三田は言葉を詰まらせる。

 「ちょっと見てください、床に何か落ちてますよ。」


 日下部が懐中電灯で照らす先には、埃にまみれた本の一部が散乱している。焼け焦げたような跡もあり、装丁はボロボロだが、背表紙には図書館の蔵書印らしきものが微かに残っていた。盗まれた文献の一部だろうか。


 「やっぱり……ここで作業していたんだ、犯人は。」

 粟生が背筋を粟立たせながら手袋で本の欠片を拾う。文字はかすれて判読しづらいが、恋愛関連を示す章題がちらりと見えた気がする。


 「となると……さらに奥に行けば、もっとあるかもしれない。でも、この錆びた扉が鍵だな。」

 警備員が扉を押してみるが、びくともしない。錆びついているだけでなく、内側からも何らかの仕掛けで固く閉ざされているように感じる。


 「暗号が指し示すのはこの先か……もしや、犯人は別のルートで出入りしているのかもしれない。」

 三田が手で扉をまさぐりながら言う。



 その後、一同は周囲をざっと捜索し、部屋の壁や天井を確認したが、他に通路らしきものは見当たらない。犯人がここをどう使っているのか、まだ確証は得られないが、少なくとも一部の盗難資料の破片が落ちていた以上、無関係とは思えない。

 「とりあえず、ここを封鎖しておきましょう。あまり大規模に壁を壊すと建物に影響が出るので、一旦は監視カメラを設置して、犯人が出入りするかどうか様子を見ましょう。」

 日下部が提案し、警備員も同意する。粟生と三田は悔しいが、「仕方ない」と頷くしかない。


 「ここまで深く入り込んでいるってことは、やはり暗号解読が急務ですね。もし犯人が完全なルートを把握していたら、まだ奥がある可能性も捨てきれない。」

 粟生が唇を噛むように言う。三田も疲れた顔で、「早く全貌を突き止めたい」と強く答える。



 翌日。暗号解読の作業はさらに加速する。粟生と三田は、夜に見つけた隠し部屋(手前の空間)にあった盗難資料の断片を回収し、その内容を調査。そこには、やはり国際結婚や身分差の恋愛にまつわる記録が含まれ、“あの象形文字”が挟まれたページが焦げたように残されていた。


 「明らかに“蔓”と“波”を組み合わせたマークですね。数字の部分は焼けて読めませんが……何者かが故意に痕跡を消そうとしたのかもしれない。」

 三田が歯ぎしりするように言う。犯人は自分が使用した文献を破棄し、証拠隠滅を図っている可能性がある。


 館内の騒動も相変わらず止まらない。夜に足音が聞こえたという報告がまたもや上がり、警備員が必死に追いかけたが、結果的に何も見つからずじまい。まるで幽霊のように現れては消える犯人に、職員たちの心は疲弊していくばかりだ。


 それでも、粟生と三田は懸命に暗号を組み立て直す。新たに得た手記の断片や研究ノートを合わせ、どの数字がどの記号とペアになっていたかを復元しようとする。さらに、旧館地下で発見された隠し部屋を経て、一段と強まった仮説――「洋館の地下にまだ奥がある」という筋書き――を補強するためにも暗号の完全解読が急がれるのだ。


 「少し分かってきたぞ……。この数字、どうやら月日や時刻だけじゃなく、“方向”も示唆してるんじゃないかな。昔のコンパス方位か、それを示す度数のようにも見える。」

 粟生がメモ帳に書き込みながら言う。三田が隣で食いつくように画面を見て、「度数……なるほど、北や南を表すのに数字を使ってる?」と驚きをにじませる。


 もしそうなら、地図上の方位と“山と海の距離”が連動し、館内どこかに正確な位置を示す暗示が含まれているのかもしれない。国際式のコンパス度数(360度)を使った暗号であれば、当時の外国人の発想としては理にかなう。


 「つまり、時間と場所の合わせ技だ。たとえば“夜の9時、北東の方角へ行け”とか、“夕暮れ、南西の階段へ”とか……そんな命令を複数の記号で示している可能性が高い。」

 粟生の推理に、三田も熱っぽく同意する。

 「それこそ、恋人たちが周囲の目を欺きながら移動するには最適ですね。しかも洋館の中には使用人や家族の目があったはずだから、暗号なしには自由に会えなかったでしょう。」



 こうして二人は、昼夜問わず机に向かい、休憩も最低限に抑えて暗号解読を突き詰めていく。道中、警備員からの連絡で何度か現場へ駆けつけるが、空振りが続く。それでも諦めず、作業を続けるうちに、ようやく「決定的な糸口」にたどり着きそうな瞬間が訪れた。


 深夜、またアーカイブ室。書類の山に埋もれた三田は、ある特定の記号列に目を留め、顔を上げる。

 「……見てください、ここ。“12月24日”っぽい数字と、“北東”を示すらしき度数が記されていて……その近くに、月と船のマークが重なっている。どうも『クリスマスの夜、北東の海が見える場所で会おう』って意味っぽいですね。」

 クリスマスに夜の海辺で会うというロマンチックな暗号。興奮を抑えきれない三田に、粟生も胸が高鳴る。この示唆は明確だし、仮説が一段と確信に近づく。


 「そして、もう一つ。“夜明け前の山”を示唆する記号もあって、そちらには“2月11日”らしき数字が……。つまり、別の日に別の場所で再度会う計画か? なるほど……恋人たちは細かい暗号を重ねていたんだろう。」

 粟生がメモを追加していく。


 こうした記号の組み合わせは、複数の文献に散らばっていたものを統合して初めて意味が通るらしい。犯人はそれらをすべて盗み出し、完全な“地図”を作ろうとしているのだろう。


 「つまり、暗号がすべて揃えば、当時の恋人たちが計画した密会スケジュールが網羅されるわけですね。山と海、異人館、港町……神戸のロマンが詰まってる。」

 感嘆の息を漏らす三田。その眼差しには、格別な想いが宿っている。


 「結局、彼らは叶わぬ恋を貫けたのか、それとも……。」

 粟生は疑問を抱えたまま、タブレットの画面に見入る。すると、不意にインターホンが鳴り、「粟生さん、三田さん、ちょっと来てください!」と慌てた日下部の声が聞こえた。声の調子からして、ただごとではない。


 「また何かあったのか……!」


 二人は資料をそろえながら、一気にアーカイブ室を飛び出す。廊下を駆け抜け、司書室へ向かうと、そこには警備員がモニターを見ながら呆然としている姿があった。

 「ど、どうしたんですか?」

 「防犯カメラに、書庫らしき場所で不審人物が一瞬映ったんです! すぐに死角に入ってしまいましたが……たぶん間違いなく人がいる。今から急行しますか?」


 粟生の血が滾る。絶好のチャンスかもしれない。三田も意を決したようにうなずく。

 「行きましょう……もう逃がしたくない。犯人に問いただして、この事件の全貌を知るしかない!」



 だが、その夜も結局空振りに終わる。警備員と粟生たちが書庫へ突入したときには、そこに人影はなく、盗難も確認されなかった。ただ、奥の一角に本が乱れている場所があり、誰かが入った痕跡だけが残る。一足遅かったのだ。


 深夜を回り、また空しさを抱えたまま二人はアーカイブ室へ戻ってきた。もはや足元がおぼつかないほど疲れているが、暗号解読の最後の一押しを諦める気はなかった。


 「犯人……もうすぐ手を打ってくる気がします。そろそろ“完全版”を手に入れるために動くのかも。」

 粟生が机に突っ伏すようにして呟くと、三田は虚ろな目で微笑む。

 「僕たちも、それに先回りできるはずです。あともう少し……ここさえ突破すれば。」



 翌朝、ついに暗号の一部に決定的な“地図的”意味合いがあると判明する。三田が徹夜で検証した結果、数字と記号を重ね合わせたとき、「館の中央階段の位置と、そこから北東に伸びる通路の長さ」を示唆する可能性が高いと分かったのだ。

 「ほら、ここの度数と距離を足し合わせると、まさに改装前の洋館があった位置と合致します。この線上に“鍵”があるとの示唆かも。扉か隠し棚が存在するのかもしれません!」


 三田が感激の面持ちで発表する。粟生も瞬時に理解し、地図をにらむ。確かにそこは以前は立ち入りが少なく、しかも壁の一部が改修されている。

 「よし……今夜、そこを徹底的に探そう。まさしく暗号が“特定箇所”に導いているんだろう。」


 この発見を日下部や警備員に報告し、次なる大捜索を準備する。こうして、第6章はクライマックスへ向けて動き出す。

 恋人たちの暗号は、山と海が交差する神戸の地形を背景に、複雑な数字や象形文字を組み合わせていた。そして、その一端を粟生と三田が解読した今、館の中心部――あるいは地下――に秘められた部屋が実在するのかもしれない。

 同時に、二人の間にもかすかな心の距離が詰まりつつあった。暗号解読を通じて互いの傷を打ち明け合い、繊細に共感を深める。まだ言葉にはしないが、そこには強い絆が生まれているのは明らかだ。


 果たして、夜の大捜索で何が見つかるのか。犯人との追走は、いよいよ次章で加速する――。



(第6章・了)

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