第5話 特訓スタート


「これで大丈夫かな……っと」



 洗面台の鏡に映った自分の姿を見てそう呟く。


 朝から顔を洗って、髪を整えて──そんな今は、土曜日のお昼前。

 いつも休みの日は、ボサボサ頭でパジャマのまま過ごしている私だけど、今日ばかりはそういうわけにもいかない。

 今日は我が家に、乾さんと九条さんが来る日だ。だらしない格好なんて見せられない。



「本当に大丈夫? 挨拶くらいしておいたほうが……」


「まだいたの!? お母さんは早く行って!」


 扉から顔を覗かせたお母さんを見て、ぎょっとする。

 二人にはもう会わせたくないから、出かけてもらうはずだったのに……。

 約束の時間まであと少し。お母さんの背中をグイグイ押して、急いで玄関へと連れていく。




 ──ピーンポーンッ。




 なんてタイミングが悪いんだろうか。

 お母さんが靴を履き始めたところで、インターホンが鳴ってしまった。


「あぁもう、来ちゃったじゃん! とりあえず引っ込んで──」


「いらっしゃい~。この間も来てくれたのに、また来てくれるなんて」


 私の制止よりも先に、お母さんはドアを開けて出迎えていた。

 肩越しに覗くと、目を見開いて驚いている乾さんと九条さんが。


「こんにちは、日坂ちゃんママさん!」


「すみません、お休みの日にお邪魔してしまって。こちら、ほんの気持ちなんですけど……」


「そんな気にしなくていいのに~。だったら、優美子と三人で食べてちょうだい」


「そういうわけには……」


「いいのよ。私はお邪魔みたいだから、ゆっくりしていってね~」


 お母さんはそう言い残すと、二人の間をすり抜けてそそくさと去ってしまった。


「行っちゃった」


「前も思ったのだけど、明るいお母様ね」


「明るい……でいいのかな?」


 あれだけ早く動けるなら、二人が来る前から動いてほしかった。


「とりあえず上がってよ」


「そうね、お邪魔させてもらうわ」


 あの九条さんですら押され気味だったから、我が母おそるべし。





「おっ邪魔しま~す!」


「二人にしてみたら狭い家だけど」


「日坂ちゃんって、うちら二人の家がお金持ちだと思ってない?」


「えっ、違うの?」


「豪邸なのは憬華だけ。うちの家もこんな感じ」


 クラスのみんなは、手の届かないお嬢様だと思っているはず。私だってその認識だった。

 驚くと同時に、九条さんが本当にお嬢様だったことにも納得する。


「家の大きさなんてどうでもいいわ。親の功績であって、私たちには関係のないことだから」


「九条さんらしいね」


「そんなことよりも──日坂さんは、どのくらいの頻度で料理をするのかしら?」


 突然切り出された料理の話題で、私は言葉に詰まる。

 中学の頃は、家庭科の調理実習でたまにやっていたものの、高校に入ってからは全くと言っていいほどゼロ。

 だけどハッキリとそう言うのは、少し躊躇われた。


「えっと、月に三回あれば良いかな……なんて」


「そんなことで悪あがきをしないで。無ければ無いでいいのよ」


「……本当は全くやらないです」


「そうだろうと思ったわ。予想はしていたから、今日のところは大丈夫よ」


 そんなイメージを抱かれていたのは、少しだけ心外だ。

 全て事実ではあるから言い返せない悲しさを、私は苦笑を浮かべて誤魔化す。


「うちも一緒に料理の勉強しようかな」


「乾さんも?」


「なんか苦手なんだよねぇ。器用さには自信あるつもりなのに」


 確かに、乾さんが出来ないのは意外に感じる。

 メイクや髪のセットもすごく綺麗だから、料理だって出来そうなものだけど。

 私がそんなことを考えていると、隣からボソッと呟く声が。



「あなたの分は、私が作るんだから。出来るようになる必要はないでしょ」



「えぇ、うちだって憬華の隣で手伝いた──あっ、顔赤くなってる」



「ホントだ、九条さん可愛い……!」



 あまりにも珍しい九条さんの表情だったから思わず口に出てしまったけど、すぐに私はやってしまったと思った。

 今もどんどん、顔を赤くしていく九条さん。


「二人とも、いい加減にしなさい」


「ご、ごめんなさい」


「あれあれ~? そんなこと言うなら、もっと恥ずかしい秘密をバラしちゃうけど?」


「乾さん。煽るようなことは……」


「そんな秘密、私にはないわ」


「ねねっ、日坂ちゃん」


「な、なんですか?」


 出来れば、巻き込まれたくなかったんだけどなぁ。いつ、九条さんの怒りが爆発するのかヒヤヒヤする。

 そんな私の気も知らずに手招きをしてくる乾さん。

 私は仕方なく、その手に導かれるように身体を近づけた。



「憬華はね、普段はうちのこと名前呼びなんだけど──人のいるとこだと、恥ずかしくなっちゃうみたいなの」



 こそこそと、内緒話をするような所作で。だけど声の大きさは、普通の会話をするくらいのもの。

 意地悪だと思いながらも、九条さんの顔をこっそり伺うと──見たことないほどの笑顔を浮かべる九条さんが。


「ねぇ、千波? 今日は帰ってもらってもいいのよ?」


「うっ、わ、悪かったって……」


「分かればいいの。それじゃあ、料理のほう始めていきましょうか」


 背筋にゾッと寒気が走ったのは、私だけじゃなかったみたい。

 九条さんを本気で怒らせるのだけはやめておこう。

 心にそっと刻んでいると、平然と準備を始めていた九条さんから一枚の紙が渡された。


「今日はこれを作ろうと思うの」


「玉子焼き……。私がこの間もらったやつ?」


「そうね。この間の甘い味付けのもので、今日は作ってみましょう」





 長方形のフライパンと渡された紙を交互に見つめながら、慣れない手つきで玉子を巻いていく。


 料理前に渡されたあの紙には、材料から調理手順まで綺麗な字で細かく、そして分かりやすくまとめられていた。

 九条さんにアドバイスをもらいながら、完成しては食べ、また完成しては食べ────繰り返すこと数十分。


「ねぇ、さすがに玉子焼きばっかり飽きてこない?」


「実を言うと、私も少し……。ごめんなさい、教えてもらっている立場で」


「いいのよ。私も同じのばかりはどうかと思っていたから。なら、次で最後にしましょうか」


「あの、最後だったら九条さんのを食べたいんだけど」


「おっ、日坂ちゃん良いこと言うね」


「そう言われると、お手本を見せていなかったわね」


 別に、九条さんの実力を疑っているわけではない。

 けど、同じレシピで作っているはずのに同じ味にならないのが、どうしても納得いかなかったのだ。

 その間にも、さっそく九条さんは手際よく卵を割ってかき混ぜていく。


 長方形のフライパンに、油を吸わせておいたキッチンペーパーで全体に油を引いて。フライパンの熱を確認すると、溶き卵を流し入れた。

 無駄な動きが一切ない完璧な所作に、思わず見入ってしまう。

 フライパンの奥に粗く巻いて寄せると、再びキッチンペーパーで油を引いて、また溶き卵を流し入れる。

 その繰り返しはとても簡単そうに見えるけど、実際は難しくて、こんなスムーズに作るのはかなり慣れていないと不可能だ。

 あっという間に、美しいほど形が整った玉子焼きの出来上がり。



「完成よ」



 九条さん作の玉子焼きが、私が作ったやつの隣に並べられると差がハッキリ。

 これが元から持ってるセンスの差ってやつなのかな……。


「最初に比べると、日坂さんのもだいぶ綺麗になっているわ。見た目は及第点よ」


「日坂ちゃんも着実に成長してるって!」


「慰めてくれてありがとう……」


 何も言ってないのに二人からフォローされると、なんだか複雑な気持ちになる。



 そうして、本日最後の試食会へと入ることに。

 前に食べたときと同様、箸を入れた瞬間に伝わってきたふわっとした感覚。それだけで違いを思い知らされる。

 向かいの乾さんが目を輝かせながら口に運ぶのを見て、私も口へ。


「ん~これこれ。うちの好みにドンピシャ!」


「やっぱり美味しい~!」


「二人の満足いくものだったのなら、安心したわ」


 優しい甘さが口の中へと広がると、じっくりとろけて消えていく。

 思わずその余韻に浸りかけたけど、ハッとして、さっきの私の玉子焼きをすかさず口に運ぶ。


「むぅ……。こうして食べ比べると、私のほうはなんか残念な感じ」


「そうかしら。いい味だと思うわよ?」


「うんうん、日坂ちゃんのも美味しいよ。でも、憬華のやつを再現したいなら、まだ少し違うかな」


「だよね。同じ分量で作っているのに……」


「分量は同じでも、一つ一つの工程にまだ違いがあるわ。火を通す時間が僅かに違っていたり。それで味だって変わるもの」


「まだまだ憬華の味には及ばないから特訓だね~」


「乾さんのは愛情補正が入ってない?」


「ひ、否定は出来ないけど……」


 九条さんの作った玉子焼きばかり頬張る乾さんに、ジッと抗議の視線を送る。


「えっと……うちだけ楽しんでて悪いし、このあと日坂ちゃんの持ってる服でコーディネートとかどう?」


「いいの!?」


「態度の変化すごっ」


 信じられない提案に、思わず私は乾さんのほうへと身を乗り出した。

 もう、私の玉子焼きへの扱いなんてどうでもいい。


「乾さんの制服の着こなしとか、いつも可愛いって思ってたんだよね」


「厳密には、校則違反なのだけれど」


「あはは……細かいことは気にしな~い。じゃあ食べたらやろ!」



 その後もはしゃぎ続けてしまった私は、夕方頃にお母さんが帰ってきたことで、ようやく冷静になるのだった。

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