第六話「その時、言葉が溢れた」

 私は馬車に乗っていた。窓はない。外が見えないようになっている。運転席にも壁があり、前から様子を伺うこともできない。

 聞こえるのは、音。ガラガラと車輪が回り、時折ガチャと言って車体が揺れる。馬車はスピードを抑えて慎重に道を進んでいた。そのことから、馬車が岩が多く危険な道を進んでいることがわかる。恐らくは、崖っぷちの道なのだろう。

 それは別にどうでも良い。気になっているのは、この辺に来てからずっとノイズのようなものが聞こえることだった。それは、地を這うような、低い人間の声だと思われる。ゲームで見るようなゾンビの唸り声のような感じだ。当初ほとんど聞こえなかったそれが、今では耳障りなほど大量に鳴っている。

「痛っ」

 ゴトンと音を立て馬車が斜めになって、私は頭を後ろの席にぶつける。馬が嘶<いなな>く。鞭のしなる音が聞こえる。馬車は坂道を登り始めたようだった。

 しばらくして、道は平坦に戻った。不思議と、その頃には例のノイズは聞こえなくなっていた。

 それからすぐ、馬車は停車した。扉が開いた。剣を腰にぶら下げた若い兵士が降りろということを仕草で示す。

 降りると、そこは険しい山の中に囲まれた小さな平地だった。草花は生えていない。砂利と土、半々で構成されたような大地である。

 その真ん中には、異様なほど青い湖があった。霧がかっていて、青いということ以外はよくわからない。霧の出所を辿ると、湖畔に、現代の前衛建築のようなガラス造りの小屋があった。研究室とでもいおうか。正面に当たる部分は五角形で、他は四角で作った球体のような、この世界の他の建築物とはまるで違う幾何学的な建物である。

 その中に、3mほどの直立した石の輪。「それが門なのだ」。そう直感した。

 門は、縞馬<しまうま>を見て涎を垂らす獅子のように霧を吐き出していた。建物に穴があるのか、あるいはこの門から出ている霧は特別なのか、湖に覆いかぶさるように、広く、濃く、絶え間なく広がり、陽の光を遮断する。

「おぉ……」

 背後にはいつのまにか兵士が横一列に並んでいる。彼らは息を漏らし、初めて親の目を盗んでチョコレートを食べる子供のように憧れと怯えが混ざったような顔をしていた。

 「来訪者様は、今から神話の世界に行くのです」。外務卿の部下を名乗る男はそう言って馬車に私を乗せた。彼らは門の向こうに世界があることを知っており、それを「あの世」と捉えて畏怖し、同時に「神々の世界」として信仰している。だからこそ、どよめき、恐れながらも歓喜する。空に浮かぶ二つの星だけではない、神話の世界からの遺物に。

 けれども、決して近づこうとする人間はいない。私の前に出るものは誰もいない。

 かつて、統一帝国の中にある国を収めていた王が金銀財宝を求め数百名の部下と共にこの門に入っていった。彼らは選りすぐりの戦士たちで、そこからあぶれた10人の男たちは選ばれなかったことに対する落胆と、その後に待ち受ける大きな功績に対する期待という二つを胸に、キャンプを張って王を待った。しかし、待てど暮らせど戻ることはなかった。三日が経って物資が尽きた。ここは山の中だが木も生えていなければ草花も生えていない。湖はあるが、水だけでは生きていけない。彼らは王の帰還を諦め、下山することにした。けれど、その道は歩くだけでも辛い隘路<あいろ>。物資はなく、下山まで何日かかるか分からない。そんなある種の極限状態で、彼ら10人はいつしか二つの派閥に分かれ残り少ない物資の奪い合いをした。それは簡単に殺し合いに発展した。10人のうちの1人が殺し合いの最中に抜け出し、無我夢中で走って、偶然麓<ふもと>にあった家屋の住人に救われた。その後、王も、戦士たちも帰ってくることはなかった。

 らしい。神話に書いてあるのだ、と外務卿の使いは言っていた。きっと、その話の教訓は門をくぐるなどという驕<おご>りは酷い結末を迎えるからよせ、ということなのだろう。じゃあそんなところに放り込むな、と抗議したいところだが、高空城の馬車の運転手にあの世へ行く胸の手紙を渡したのは他でもない私だ。

 じゃあ、そろそろ行くか。

 ざわざわと喧しい兵士を背に、私は門に向けて一心不乱に歩いていく。

「待ってください……!」

 声に振り向くと、そこには青年がいて、手に持っている真っ黒の分厚いコートを渡された。

「これは?」

 青年は首を振る。

「聞かないでください。私にできるのはここまでです。波が穏やかでありますように。双子星がいつまでも輝きますように」

 そう言い残して、青年は平野の入り口にたむろしている兵士たちの元に戻っていく。私は訳がわからないなりにそれを羽織って、そのままノブを捻り、門の前に立つ。

 まるで獲物がかかったことに興奮しているかのように、門は大量の霧を吐き出した。この門は生きているのかもしれない。ならば、例えで言った縞馬<しまうま>と獅子の話はあながち間違いでもないのかも知れない。

 だが、私は門をくぐる。軽快な足取りで。今ならわかる。岬との生活をただただ楽しんでいた私は、弱かった。迫る問題に、見て見ぬ振りをしていた。けれど、今はその問題を背中に背負っている。明確なやることがないぼやけた日々よりも、よっぽど奮い立っていた。

 ふと、あの世に行くならなんて台詞がいいか、考えた。門に足をかける。そして、もう一歩を踏み出す。その時、言葉が溢れた。

「待っててね、私の」

 妹。

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