第14話 首筋を隠す


 八月二十四日。


「おかえり!」


 買い物から帰って玄関に入ると、真菜がひょっこりと顔を出した。


「ただいま。あれ、今日、仕事だったんじゃ」

「ああ、今日ね、私がシフト勘違いしてて。午後休みだったの。お店ももう閉まっちゃった。店長の都合みたいでね」

「そうだったんだ」


 真菜は不意に、くすくすと笑った。


「雪本君、最近来ないねって、しょげてたよ。今度来たら」

「ああ、いいかも」


 荷物を持ってくれた真菜に会釈して靴を脱ぎつつ、考えをまとめる。


「ちょうどいいから、あさっての昼に行ってみます。自分の家とか掃除して、それから――」

「いいんじゃない? その日は私もシフト無いし、気まずくもないでしょ」

 

リビングに荷物を運ぼうとしていた真菜が、振り返って、首をひねった。


「あれ、そういえば、あさってって何の用事だっけ」

「花火大会。バスケ部と陸上部合同の」

「そうだそうだ。いいな。ついてっちゃダメ?」

「ダメ」

「ダメか」


真菜は首をすくめた。雪本はわざとらしくため息をついた。


「川上さんとお出かけでしょ」

「そうだけど。雪ちゃんがいないんじゃ映画もお預けだし、どうせなら夏らしいとこ行きたいねって話してたの。ねえねえ、浴衣は?新調しなきゃって言ってたじゃない、どんなのにしたの」

「買ってないんです」


 雪本は首を振った。


「今日、探したんですけど。しっくりくるのが無くて」

「あら、残念」

「和服そんなに好きじゃないし、俺はいいんですけどね」


 花火大会にみんなで行こうと提案したのはもとはと言えば浜上で、その浜上の一番の狙いは、榊に浴衣を着てきてもらって二人で花火を見ることだ。

榊の友人として、思い出を作りがてら様子を見に行くだけの雪本が何を着て参加しようと問題はないはずだった。


 一度リビングを出て、洗面所で手を洗った。鏡を見ると髪が大分伸びてきていた。

 これまで顔を隠すようにして伸ばしてきた反動で、最近はむしろそういった気持ちの跡ごと切り取ってしまいたいと思い始めていた。思い立ってからまだ幾日もたっていないが、随分気持ちは急いていて、街ですれ違う一人一人の毛先や段が気にかかるし、首に毛先が触れるだけでももどかしくて仕方なかった。

 ふと、首にかかる髪の隙間から、川上に掴まれた時の傷を見つけ、髪をどけて、位置を確かめた。

 次に髪を下ろして首の周りにわざとかぶせた。またその次に、オープンカラーの白シャツの襟を整えたり裾を後ろから引っ張ったりして上着を少しずつずらしても見た。

それでも傷は隠れなかった。


 リビングに戻るなり、ソファの上の真菜に駆け寄る。


「ねえ、真菜、ちょっと」

「うん?」

「これ、傷跡見えるよね」


 真菜は上体を傾け、そらし、前のめりになり、様々に雪本を眺め、ついには立ち上がって数歩下がり、雪本の周りを一周までした。


「見えちゃってるね」

「あさってどうしよう。ここが隠れる服は持ってないし」

「隠したいの?」

「隠したい。いや、怪我だなってわかってもらえればそれでいいんだけど……」


雪本が口ごもると、真菜は暢気に笑った。


「なるほど、そういう風にも見えるか。……どうしても隠したいのね?」

「うん。ちょっと、こういうの駄目そうな人もいて」


誰あろう、今回のイベントの主役の榊がその筆頭だった。


「わかった。じゃあ、お化粧で隠してあげる。一回練習させて」

「そんなことできるの?」

「できるよ」


 真菜は軽やかに笑って、自分の部屋の扉を開けると、すぐにいくつかの化粧品を抱えて戻ってきた。


「座って」


 雪本が真菜の隣に座ると、真菜は雪本の顎をそっと傾げさせて、首元を改めて眺めた。


「あ、でも、言ってもそんなにひどくないね」

「隠せそう?」

「うん。良ちゃんの方はもっとがっつりだったから」

「ああ。……ごめんなさい、川上さんに怪我させて」

「許さない」


真菜がしてやったりと言わんばかりの顔で笑う。雪本は目元が引きつったのを自分で感じた。


「話したんだ、川上さん」

「え?」

「え?」

「話したって、何が?」


雪本はカッと顔が熱くなったのを感じて、すぐに誤魔化すように首を横に振った


「ごめん、なんでもない、勘違い」

「ええ、何?何それ」


真菜は目ざとくその仕草の意図をニュアンスで感じ取り、ソファから立ち上がろうとする雪本を引き戻す。


「何よ、雪ちゃん。急にどうしたの」

「うるさいよ」

「お化粧するんじゃないの?」


 そう、真菜に問われると、雪本はおとなしく隣に座って、顔も首も真菜に向けてやるしかなくなった。


「白いと大変だね。赤くなったのすぐばれちゃう」


下手に口答えをして、万が一にも『練習』に差し障る事態だけは避けなければならなかったので、ただ黙ってやりすごそうとすると、首筋に軽い痛みが走って、震えた。


「あ、ごめん、痛かった?」

「ちょっとだけ」


 真菜は、ちょっと我慢してね、と言いながら、雪本の首に化粧水を塗り込んでいった。痛みは大したものではなく、また真菜の手つきがよいのか、不思議と、くすぐったいということもなかった。それなのに、真菜の指が痣にあたってチラチラと痛みが起こる度、背筋から心臓まで一気にしびれが回るような感覚に襲われた。数秒ごとに軽いけいれんを味わわされているようで、流石に眉をひそめてしまい、真菜は幾度か、手を止めた。


「大丈夫?」

「うん……なんか、変な感じ」

「雪ちゃん、もともとちょっと首回り苦手だもんなあ。……そうだ。新学期、制服とか大丈夫?」

「そのころにはさすがに治ってるでしょ」

「じゃなくて、ほら。そろそろ冬服になるじゃない。雪ちゃん学ランでしょ」

「第一ボタンくらい開けられるから」


 そっか、と言って、真菜はまた黙々と作業に戻った。

 雪本は、邪魔しては悪いから、と誰に言うでもなく心中で言い訳をかかげ、そのまま黙っていようとしたが、また首に走った衝撃を合図に、衝動的に切り出した。


「二学期が始まっても、ここから通っていいですか」


 真菜は手を止めた。目を丸く見開いていた


「雪ちゃんはいいの?」

「俺はそうしたい。本当は、土日とか、金曜日だけにこっちに来ようと思ってたけど、やっぱり嫌だ。ここを中心にしたい」

「雪ちゃん」

「大変かもしれないけど、どうにかする。迷惑なようなら考えなおします。だから、真菜の都合を聞かせてほしい」


 一瞬流れた沈黙が、心底恐ろしかった。しかしすぐに沈黙は破れた。真菜の声は震えていた。


「嬉しい。何でも手伝う。力になるから、ここから学校に通ってください」


 真菜はそうして、手を差し出そうとして、化粧用のスポンジを持っていたのを慌てて手離した。

 雪本は手を取りながら、どうしようもなく頬が緩むのを止められなかった。


「そういうところだよ」

「え?」


 どういうわけか、そんなときだけ物分かり悪く、また真菜は首をかしげた。


「そういうところが可愛いよ」

「やかましい」


 真菜が笑って、パシリと雪本の手を叩いた。思いのほか痛かった。そしてそのまま、乱暴に化粧を再開した。と、ちょうどリビングの扉が開いた。


「あ、良ちゃんおかえり。もうそんな時間か」

「おかえりなさい」

「ただいま」


 川上は、ソファに座る二人を凝視した。二人も川上を凝視し返した。真菜が、やっと状況を掴んで、手元を再び動かし始めた。


「私ね、今日シフト間違えてて、早く帰れたの。雪ちゃんはさっき帰ってきたばっかり」

「ああ、なるほど」

「で、これは、旅行の時の傷隠し」


 川上は、さっと顔色を変えて、ソファの近くまできてかがんだ。


「そんなにひどくなったのか」

「いえ、悪化はしてないです。全然平気」

「酷くはなってないんだけど、ほら、あさって雪ちゃん花火大会で、高校の子と会うんだってさ」


 真菜は一旦スポンジを置いて、雪本の首筋を川上に見せた。


「これだと誤解されちゃうから」

「ああ、なるほど」

「キスマークみたいだから」

「皆まで言うなよ」


 真菜と雪本が遠慮なく笑うと、川上が二人を交互に睨んだ。


「玄関、鍵閉まってなかった。雪本だろ」

「あ、私が呼び止めちゃったから、そのまんまになっちゃったね」

「すみません、気を付けます。一人の時と違って、誰かいるから大丈夫って思いすぎる時があって、多分それがいけないのかな」


 雪本がそう言うと、川上は口ごもった。目の険が幾分か和らぎながら、それでもまだ怒っていた。


「川上さん。俺、二学期からも、ここにいていいですか。ここから学校に通いたいんです」


 意外なことに、川上は驚かず、真菜に尋ねた。

 

「高校は、カフェのある駅だよな」

「そうね。他の駅からも行けるけど」

「定期代、手伝ってくれ。そしたら多分問題ない。雪本は出さなくていい。ただ今後も、鍵はちゃんと閉めろよ」


 川上は真面目な顔でそう言った。雪本は流石に、言葉も笑みも呑み込みながら頭を下げてありがとうと言うほかなかったが――。

 川上も川上で、こういうところだ。そう思った。

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