ふと湧いた違和感
倒れる寸前、受け身は取った。だから、痛みも怪我もない。上に覆い被さっているレティシアも大丈夫だろう。
ヒメナは、レティシアが退いてくれるのを待っていた。
しかし、退く気配がない。ヒメナは首を捻って、背中に乗っているレティシアを見る。彼女は視線を脇に遣ったまま、硬直していた。
「アンヘル……?」
「あっ、えっと、ごめんっ……!」
レティシアははっとし、起き上がる。ようやく、ヒメナの上から退いてくれた。
その瞬間、鼻孔をくすぐるような匂いを嗅ぐ。
「ん……?」
柑橘系の香りだった。くんくんと鼻を動かしていると、スカートを履き終えていたレティシアが口を開いた。
「あ、ごめん。気になった? それあたし。髪に使ってる石鹸がさ、レモン果汁混ぜたやつなの」
「あぁ、なるほど……」
身だしなみに気を遣っているだけあり、レティシアは石鹸にもこだわっているようだ。納得し、ヒメナも起き上がろうとした。
だが、途中でピタッと動きを止める。それは、唐突に湧いた違和感があったからだ。
「……待て、おかしい」
眉をひそめるヒメナを見て、レティシアが自分の髪をくんくんと嗅ぎ始めた。
「え、おかしい? そんなに? あたしは結構、気に入ってる香りなんだけど……」
「あぁ、いや……そうじゃなくて……」
違和感を持ったのは、石鹸についてではない。
ヒメナは額を押さえてから立ち、言葉を補う。
「わたしが違和感を持ったのは、ダミアンについてだ」
「え、あの貧民街の子?」
「そうだ」
その違和感は、覆い被さってきたレティシアの匂いを嗅いだことがきっかけで生まれたものだ。だが、それはヒメナがさきほどまで取っていた体勢が、奇しくも人狼に襲われたダミアンと同じだったというところが大きいだろう。
「憶えているか? あのとき、わたしはこう尋ねた。人狼の正体に繋がるようなことで、他に感じたことや気付いたことはなかったか。それに対して、ダミアンはこう答えた。感じたことや気付いたことは特にないと……」
「あ、うん。憶えてるよ。あたしもマジかーって萎えたし」
「じゃあ、次に思い出してほしいのはサウロについてだ。サウロはなめし工。その職業ゆえの特徴が一つあったな?」
「特徴? あーえっと、臭い?」
「そうだ。革をなめすために使うなめし剤の臭いが髪や服に染み付いてた。だが、おかしくないか? なぜ、ダミアンはサウロが漂わせるなめし剤の臭いに気付かなかった?」
「あっ……」
「わたしはなめし剤の臭いを人狼変異時にも嗅ぎ取っている。ゆえに、人狼に変わっていたから臭いが消えていたなんてことはありえない」
「確かに……でも、えっと、だから……?」
レティシアは、思考を整理するような間を作る。
「つまり、どゆこと? ヒメナちゃんが言いたいのは、人狼事件の犯人はサウロじゃなかった的な話?」
「いや、そこまでは言っていない。ここから導けるのは、あくまでダミアンを襲ったのはサウロじゃなかったという可能性。他の犠牲者の際は分からないが、いずれにせよ言えるのは……レルマにもう一体人狼がいるかもしれないということだ」
「えっ……」
レティシアは顔色を失った。
「で、でもさ……やっぱ考えすぎじゃない? ダミアンは襲われてパニックになってたはずじゃん。臭いなんて気にする余裕なかったんじゃないの?」
「その可能性も否めない。だが、パニック状態は感覚が鈍くなるパターンもあれば、鋭くなるパターンもあるそうだ。襲われた際、それがどちらに振れたかは分からない。仮に鈍くなっていても、ダミアンは臭いを嗅ぎ取れたんじゃないかとも思う。彼はとても鼻が利くという話があったからだ」
具体的には、食べ物が腐っているかどうかを嗅ぎ分けられるというものだった。一般的に臭いがないとされる、初期段階の腐敗まで見抜けるのだとしたら、彼の鼻は相当に敏感だ。
「あっ、そいえば……いや、でも……」
平らにした額にふたたび皺を寄せながら、レティシアは尋ねる。
「じゃあ、これは? サウロはダミアンを襲ったって自分で言ってたじゃん。どーゆーことになるの?」
「必然的に嘘を吐いていたということになるな。その理由としてぱっと思いつくのは、サウロがもう一体の人狼を庇ったという説だが……」
ヒメナは言いながらも、その線は薄そうだと考えていた。
尋問を行った日の朝、リカルドは部下にサウロの身辺調査をさせていたらしい。その結果、サウロに妻や子はおらず、親しいと言える友人もいないことが分かったそうだ。つまり、サウロには庇うような相手がいないのである。
さらに、これは感覚的な話にはなるが、尋問時のサウロは嘘を吐いているようには見えなかった。すべての罪を認めた上で、事実を洗いざらい話しているように見えたのだ。
となると、話は一度目の襲撃もサウロの仕業というところに戻ってしまう。だが、その結論に収まるのはまだ早いと思っていた。
ありえなくはないと思ったからだ。サウロは自分を襲撃犯だと認識しているが、サウロは襲撃犯ではなかったなんていう奇妙な事態が、ヒメナはありえなくはないと思っていた。
「君が言った通り、考えすぎならそれでいい。だが、そうじゃなかったとき、レルマは大変なことになる。確かめるには、とにもかくにもサウロだ。行くぞ、アンヘル!」
「えっ……あ、うん!」
ヒメナが駆け出し、レティシアは遅れてついてくる。二人は、部屋を飛び出した。
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