迷った者、迷わなかった者
それから、ヒメナはレティシアに一日中連れ回された。観劇、入浴、乗馬をし、ティーハウスを挟んで、その後にショッピングをした。
ヒメナは夕陽を浴びながら、重い脚を動かしている。もう疲労困憊だった。一方、レティシアはけろりとしている。一体、どんな体力をしているのか。本当に同じ人間かどうかを疑いたくなる。
そして、これが何よりも言いたい。なぜ、もう一度ティーハウスに寄った?
二度目だぞ。今日は、人生で最も菓子を食べた日になってしまった。腹だけではなく胸もいっぱいだ。そんななか、レティシアが恐怖の発言をしてきた。
「次はティーハウスに行くよ!」
「三度目⁉」
「夜限定メニューってのがあるとこ見つけたの! スターリーケーキっていうんだけど、チョコレートを混ぜた黒い生地の上から砂糖をかけて、星空を表現してるんだって! 超可愛くない⁉」
「チョコレートを混ぜた生地に砂糖を……うぷっ」
ヒメナは想像し、吐き気を催してしまった。さすがにもう付き合えない。ヒメナは隙を見て、逃げ出そうとした。しかし、レティシアにすぐ見つかってしまう。
「あっ、ヒメナちゃん逃げようとしてる? こらっ、そうはさせないから!」
「もう勘弁してくれっ……!」
ヒメナは見つかってもなお、足を止めなかった。涙目になりながら、必死に走り続ける。こちらを見据えながら、レティシアも地面を蹴った。
空気を裂くような、女性の悲鳴が響いたのは、その直後だ。
「なっ……」
ヒメナはレティシアとともに止まり、顔を強張らせた。さきほどの悲鳴はなんだ。事件でも起きたのだろうか。
今日は非番だ。駆けつける義務はない。だが、駆けつけないことはできなかった。
レティシアと顔を見合わせ、ヒメナは頷く。それから、二人で悲鳴が聞こえてきたほうへと向かっていった。
†
ヒメナとレティシアは、レルマを縦断するように流れているセルヴィン川に架かる橋に辿り着いた。
橋には人だかりができている。人だかりは片側に寄っており、みなが橋の下を覗いていた。
二人は人混みを掻き分け、前に出る。周囲と同じように橋の下を覗くと、溺れる少年の姿が目に入った。
その少年は川で藻掻くように手足を動かしながら、水から口が出るたび、ママ、ママ、と叫んでいる。そして橋には手すりから身を乗り出し、ルーク、ルーク、と少年の名前らしきものを叫んでいる婦人がいた。少年の母親だろう。さきほどの悲鳴は、彼女のものかもしれない。
少年は橋から落ちてしまったようだ。助けなければいけない。胸には使命感が湧いていた。
しかし、時間差で躊躇も湧く。
騎士学校には水泳の授業もあり、溺れている者を救助する訓練は経験済みだった。しかし、それは川のように、水の流れがあるところで実施されたものではなかったのだ。はたして、習ったものは通用するか。助けられず、ミイラ取りがミイラとならないか。
少年を助けるための一歩目を、ヒメナはなかなか踏み出せずにいた。そんなとき、ヒメナの傍らに立っているレティシアが動く。
「ヒメナちゃん、先に岸行って待ってて」
「え?」
ヒメナがきょとんとした、次の瞬間だ。レティシアは橋から川へ飛び込んだ。
「アンヘルっ⁉」
ヒメナが叫ぶのと、レティシアの着水は同時だった。
「──ぷはっ!」
ややあって、レティシアは水面から顔を出す。そして平泳ぎで少年に近づき、その腕を掴んだ。
「お姉ちゃんがっ、来たから……もう大丈夫!」
レティシアは少年を支えながら、岸に引っ張っていく。ヒメナははっとしたのち、橋を下りて岸に急いだ。そして、岸に辿り着いたレティシアから少年を受け取る。
ヒメナは青くなった。怪我はないが、少年は呼吸をしていなかったのだ。
「くそ、間に合えっ……!」
慌てて、胸骨圧迫を始める。すると、何度目かで反応があった。
「──げほっ! げほげほっ!」
口から水の塊を吐き出し、少年は呼吸を再開する。ヒメナはほっと胸を撫で下ろした。びしょ濡れで岸に上がったレティシアも少年の無事を確認し、息を切らしながら言う。
「はぁっ、はぁっ……よかった~!」
その顔は、安堵の色に染まっていた。
†
溺れていた子どもは駆けつけた騎士に任せ、ヒメナとレティシアは川から去った。
その後、レティシアの自宅に移動する。都市によくある、細く高い石造りの建物の三階に、レティシアの自宅はあった。
中は、狭くも広くもない。越してきたばかりだからか、ベッドやテーブルなど、家具は最低限のものしかなかった。ただ、そのベッドに掛けられたシーツはピンク色だったり、そのテーブルに掛けられたクロスはオレンジ色だったりと、そこにはレティシアらしいセンスが感じられた。
レティシアはチェストの前で下着姿となり、女性らしい曲線を持つ身体を晒しながら、濡れた服を着替えている。
ヒメナは壁に寄り掛かりながら、溜息を吐いた。
「──少年が橋から転落したからと言って、君も橋から飛び込む必要はなかっただろう。川が浅かったからよかったものの、深ければ怪我していた可能性もあったぞ」
戒めるように言ったが、胸には呆れではなく、尊敬があった。
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