母親
「相変わらずですね、リカルドさん」
溜息が溢れる。ヒメナは、この男を知っていた。
リカルド・サンチェス。レルマ支部に所属している騎士の一人である。
ヒメナは生まれた頃から、リカルドと親交があった。だから知っているのだが、彼はずっとこうだった。とにかく、だらしがないのだ。
騎士とは高潔かつ格式高い人間であるべきだという考えを持つヒメナにとって、この男のだらしなさは昔から目に余るものでしかない。
──床で寝るな、ちゃんと無精髭は剃れ、もっと綺麗な服を着ろ。
ヒメナは、溢れる小言を必死に押し留めていた。
しかし、こんなリカルドでも、騎士としてすこぶる優秀という話だから分からない。
魔女戦争では、単独で魔女を討っているそうだ。レルマで起きた難事件をいくつも解決に導いてもいるらしい。そういった功績が認められたのか、ヒメナが王都に行っている間にリカルドは副支部長に就任していたようだ。
いや、そこには人柄も加味されているかもしれない。リカルドは部下からの信頼が厚いそうだ。
それに関しては分からなくもなかった。確かに面倒見は良く、気遣いもできる印象はある。
なんだかんだ、ヒメナもリカルドのことは嫌いではなかった。むしろ、好きというのが正直なところだ。それが悔しい。
「大きくなったなぁ。いや、大人っぽくなったって言うほうが正しいかな」
リカルドは起き上がりながら、感慨を露わにする。そして、頭を撫でてきた。
途端、ヒメナは華やぐような気持ちに包まれる。自然と頬が緩んでいった。
しかし、ふとした拍子で我に返る。なぜ、普通に喜んでしまっているのか。ヒメナはリカルドの腕を退け、鋭い眼差しを送る。
「ろ、六年前とは違います。わたしはもう子どもじゃありません。明日からは副支部長の部下でもあるんです。こんな扱いはしないでください」
「えぇ? その割には喜んでた気がするけどなぁ」
「見間違いです。きっと寝惚けているんでしょう。お手洗いで顔を洗ってくることをお勧めします」
ヒメナは図星を悟られないよう、そっぽを向く。リカルドは頭をぼりぼりと掻いてから、残念そうな顔を見せた。
「んま、そういうことなら気をつけるよ。で、どうしたの? 着任式は明日じゃん。今日は別に来る必要ないと思うけど」
「明日からお世話になるので、その挨拶に」
「うーん、ヒメナちゃんは相変わらず真面目だなぁ」
リカルドは微苦笑を浮かべる。
「着任式当日に挨拶したって、誰も咎めたりしないよ?」
「それはそうかもしれませんが、咎められる咎められないの話ではありません。言うなれば、べきすべきの話です。事前の挨拶をするかしないかなら、するほうがいいのは間違いありません。だから、わたしは──」
「いやいや、必要ないって。そんなんじゃ疲れちゃうでしょ。人生、テキトーぐらいがちょうどいいんだよ。これ、ヒメナちゃんの倍ぐらい生きてるおじさんからの助言ね」
「……はぁ」
ヒメナは頷く。しかし、話を聞き入れたわけではなかった。ヒメナが、人生が適当でいいなんていう話を聞き入れられるわけもない。
「まぁ、いずれにせよ疲れてはいるでしょ?」
リカルドは、気遣うような口調で言った。
「王都から何日もかけてやってきたんだからさ。今日は帰って休みなよ。ヒメナちゃんには初日からバリバリ働いてもらうつもりだしさ。具体的に任せたいって思ってる仕事もある」
「え、もうですか?」
「うん。ヒメナちゃん、同期がいることはもう聞いてる?」
「えぇ、それは……」
手紙で知った。ヒメナの他に、レルマ支部に配属された新人騎士がもう一人いるらしい。
「その同期とやってほしい仕事なんだけどね。詳しくは明日話すよ。さっき失敗しちゃったばっかだしね」
「失敗?」
「あぁ、こっちの話。とにかく、諸々は明日からでいいから」
「……」
ヒメナは釈然としない気持ちに包まれる。正直に言うと、任せたい仕事とやらがとても気になっていた。しかし、ここで変に食い下がるのは心象が悪いかもしれない。明日、聞けるのならよしとすべきか。
「了解です。では──」
ヒメナは引き下がる。そして最後に一つだけ質問をしてから、この騎士舎を去ろうとした。
「リカルドさん、あの方はもう帰られましたか?」
その言葉だけで、リカルドは分かってくれたようだ。
「あぁ、支部長か。あの人だったら──」
リカルドが答えようとしたときだ。
出入り口の扉が開く。女性が一人、騎士舎に入ってきた。
彼女はホルスターから両手剣を提げ、ワンピースの上から騎士団のエンブレムを彫った胸当て、腰当て、腕当て、脛当て、篭手、鉄靴を装着していた。ワンピースのスリットから覗ける脚は引き締まっており、細かい傷跡がいくつか確認できる。そしてヒメナと同じく、瞳はエメラルドのような緑、ストレートロングの髪は深海のような青だった。
ふいに心臓が跳ね、全身がきゅっと締まるような感覚に襲われる。
噂をすれば、というやつか。
「母様っ!」
ヒメナは、背中を押されるようにして駆けていった。
彼女の名は、イメルダ・ガルメンディア。ヒメナの実の母親にして、王下騎士団レルマ支部の支部長を務めている人間だ。
イメルダの傍に控え、ヒメナは姿勢を低くさせる。全身は締まったまま、熱を帯びつつあった。
「大変、申し訳ありません」
真っ先に謝罪が溢れる。
「先刻、レルマに到着いたしました。もっと早く到着する予定だったのですが、想定外に遅れてしまい……」
頭を下げていたため、イメルダの顔は見えない。だが、これだけはなぜか分かる。イメルダはヒメナにずっと視線を注いできていた。
「話は聞いている」
数年ぶりに聞いた、イメルダの声だった。相変わらず、深みと重みがある。
「つかの間、エルダリウム山脈の麓が土砂崩れで通行止めになっていたそうだな。お前が乗っていた馬車も害を被っていたのだろう? ならば、お前に非はない。謝罪は不要だ」
「恐れ入ります」
締まっていた全身がやっと緩んだ。
ヒメナは深呼吸をしてから、姿勢を戻す。はじめて、しっかりとイメルダを見据える。
「明日より、王下騎士団レルマ支部でお世話になります。至らない点は多々あると思いますが、ガルメンディア家の人間として、精一杯努めていく所存です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
ヒメナの改まった挨拶を聞いたイメルダは、しばし沈黙した。そして、その沈黙が不安になるぐらいの長さになったところで口を開く。
「──手紙は読んだ」
ヒメナの耳がぴくりと動いた。
「騎士学校を首席で卒業したそうだな、ヒメナ」
イメルダが語ったことは事実だった。ヒメナが王都で通っていたのは、騎士学校だ。ヒメナは卒業試験の筆記、実技を合わせた成績で一位となり、首席に選出されていた。
「私も母親として鼻が高い、見事だ」
見事だ──その言葉が反響する。ヒメナは形容しがたい多幸感に包まれていった。
「レルマ支部の騎士としての働きにも期待している」
イメルダの激励によって、多幸感はさらに増す。身体をビリビリと痺れさせるようなものにまでなった。この痺れを噛み締め、深く味わう。
「はいっ!」
ヒメナは口元を綻ばせながら、大きな声で返事をした。
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