第2話 聡史①

「レポートは入口のトレイに。クリップで留めるか、クリアファイルに入れてください。1ページ目に学籍番号と名前を忘れずに。では、今日はここまで」

 マイクをスタンドに戻してブラインドを上げると、日差しがずいぶん眩しかった。もう6月か、とため息を吐きかけて、いや、まだ6月か、と思い直す。

 月並みな表現だけれど、新学期からそれこそ目が回りそうな忙しさだった。博論が通って少しは時間に余裕ができるかと思ったのに、とんでもない。担当コマ数が増えたせいで、逆に睡眠時間が激減してしまった。一昨日は結局家に帰ることができなかったし、昨日は昨日で家でずっと資料とにらめっこだった。そして、今日も今日とてレポートチェックに追われることになるだろう。

 がやがやと話し声で賑やかな階段教室内で、1か所しかない出入口前には行列ができている。トレイにレポートを入れて廊下へ出ていく学生の列は、なかなか動かない。

 期限をきっちり守る真面目な学生ばかりでありがたい反面、来週までに80人分を評価するのはなかなか骨だ。

 黒板を消してチョークを箱に戻してから、資料をまとめる。鞄に詰められるだけ押し込み、入り切らない分は腕に抱えることにする。ざっと教卓を拭いて、周辺機器の電源をオフにする。ようやく学生が捌けてきた出入口にゆっくり向かいながら、昼はどうしようかな、と考え始めていた。幸い3講目が空いているから、気分転換に外に出てもいい。4講目はゼミで、本日発表する学生のレジュメにはすでに目を通し終わっている。

 レポートのトレイは予想外にずっしり重い。研究室まで持参させればよかったか、と後悔しつつ手に持った資料を無造作に積み重ねてからまとめて両腕に抱えた。研究室が同じフロアなのは、本当に幸いだった。

 昼休みの喧騒に包まれる廊下を両手いっぱいの荷物を抱えて歩く僕に、学生たちは「またか」という視線を送ってくる。荷物が多いのは、いつものことだ。「本を装備してる先生」と噂されているのは知っている。

 装備? なんだその表現は、と不思議に思っていたら、『ほら、RPG的な表現ですって』とうちの研究室のとある院生が教えてくれた。以前から流行っているらしいけれど、テレビゲームのことはよくわからない。確か、美也子が学生時代に夢中になっていて、『お兄ちゃん、絶対ハマると思うよ。中世の騎士物語っぽい設定だし、音楽がすごくいいんだから』と熱心に勧めてきた。結局、研究が忙しくてゲームどころの騒ぎではなかった。逆にもし夢中になっていたら、今ごろ博論を通すどころか修論さえおぼつかなかったかもしれない。

 そんなとりとめのないことを考えながら、研究室のドアを肘で叩く。すぐに内側から開いた扉の内側に入って、ふう、と荷物を机に置いた。

「芹沢先生、言ってくれたら運びましたのに」

 恐縮した様子で、部屋に残っていた院生が言ってくる。

「いや、いいよ。いつものことだし。レポートの提出日だってこと、実はさっきまで失念していたんだ」

「内線で呼び出してくださってもよかったのに……」

 なおもどこか心配そうに見てくる彼は、すぐに「あ」と何か思い出したらしい。

「今さっき、お電話がありましたよ。美也子さんから」

「ああ、ありがとう」

 この研究室の主である日下部教授は来月まで出張で、僕が留守を預かっている形だ。この春大幅な人事異動があって専任講師の数が減ったため、担当講義は増えるわ、雑用を丸投げされるわ、さんざんな目に遭っている。

 専任とはいえ、講師は立場が弱い。自分の研究に充てる時間を確保するには、早く准教授になるしかない。とはいえ、そのためには研究で成果を出さねばならないわけで、結局はどうにか時間を捻出してまた新しい論文を書くしかない。

 そういえば、「院生の論文の進捗も見ておいてくれ」と言いつけられていた、と思い出す。

 彼の机の上を見やれば、2講目の前に僕がここを出た時とほとんど様子が変わらない。さながら砦のごとく積みあがった資料の顔ぶれはさっきのままだし、手元のメモも白いまま。相変わらず論文はさっぱり進んでいないらしい。不真面目というわけではないけれど、気分にむらがあるのが玉に瑕な院生なのだった。

「昼、行ってきたら? まだでしょう?」

 疲れている、というよりは空腹でげっそりしているのがまるわかりな彼に促すと、途端にその顔が明るくなった。

「すいません。じゃ、遠慮なく」

「ごゆっくり」

 財布だけ持っていそいそと出ていくのを見届けて、僕は受話器をとった。あの様子だとたぶん学食だろうから、20分ほどで戻ってくるだろう、とあたりを付ける。ほかの二人もそのうち戻ってくるだろう。手帳を開いて、美也子の会社の番号を確認する。この春大学を卒業した妹の美也子は、地元の新聞社に勤めている。

 すぐにつながってさっきの不在を詫びると、間髪入れずに美也子が訊ねてきた。

「お兄ちゃん、今日は何時くらいに帰ってくるの?」

「帰れるかどうかわからないな」

「またぁ?」

 非難というよりは心配も混じっているいつもの声だ。もう、博論通って暇になるんじゃなかったの、と小言なのか愚痴なのかよくわからない言葉を聞きながら、僕はこっそりため息を吐く。僕だってそう思ってたんだよ、と。

 しばらくぶつぶつ言っていたものの、美也子は気を取り直したように声を明るくした。

「じゃあ、夕飯いらないね?」

「ああ、悪いけど」

「オッケー。じゃあ、あたしも遅くなってもいいよね。会社の人とご飯食べてくる」

「わかった。帰り、気を付けるんだよ」

「もう。子どもじゃなんだから、そういうのいいって」

「はいはい」

 ちゃんとお昼食べるんだよ、とまるで母親みたいな言いぐさをして切れた電話に、やれやれとまたため息が漏れる。6つも下のくせに、いつの間にか偉そうになったものだ。まあ、ありがたいと言えば、ありがたいけれど。

 父親が田舎の診療所勤務になってから、かれこれ4年になる。群馬の山奥までついていった母は、初めはその不便さに困惑していたものの、今ではすっかり田舎暮らしが気に入ったらしい。決して帰ってこられない距離ではないのに、ほぼずっと父の住む診療所兼住居で一緒に暮らしている。夜に急患が入ることも多々で、勤務時間は不規則のようだ。

 そういうわけで、4年前から僕は実家で妹の美也子と二人暮らしだ。お互い別々の大学に通っていて、生活時間はあまり重ならない日々だったが、放っておくと忙しさに紛れて食事もろくにとらなくなる僕の世話を、文句を言いつつあれこれ焼いてくれる美也子がいてくれて、正直ありがたかった。博論の追い込みで連日徹夜の日々でも倒れずに済んだのは、美也子のおかげだった。

 電話を終えてすぐに、先に昼食に出ていた院生のひとりが戻ってきた。留守を頼んで入れ替わりに食事に出かけることにして、読みかけの本を鞄に入れ、僕は研究室を出た。


 大学を出てすぐのところにある行きつけの小さな店に入って、いつもの窓際に座った。木の香りが心地よい和風の喫茶店で、平日のこの時間は、おにぎりと2種類のおかずが選べるワンプレートランチを出している。料理は丁寧かつボリュームもあり、密かに気に入って通っている店だ。

 卵焼きと野菜の肉巻きをおかずに選んで注文して、さっそく本を開く。できたら週末いっぱいで読んでしまいたいが、まだあと半分以上ある。世界最古の教会『エチミアジン大聖堂』についての本だ。自分の専門からは少し外れているものの、だからこそ興味が惹かれた。講義の準備や論文執筆目的でない読書というのは、やはり楽しい。

 温かい緑茶をすすりながらページをめくっていると、ふと「久しぶりね」と声をかけられた。

 見れば、園田さんだった。彼女は、僕とは違う研究室で助手をしている。上品な光沢のある濃いブルーのシャツに真っ白のスカート。とても大学関係者には見えない洒落た身なりは、いつもどおりだ。そして、女子の院生の中でもこれほどしっかり化粧している人は、なかなかいない。といっても、派手というよりはどちらかというと華やか、といったほうがしっくりくるタイプだ。

 あたりまえのように向かいの椅子を引いて、園田さんはすとんと腰を下ろした。

「遅ればせながら、D論お疲れさま。すごいね、余裕で最短?」

「あまりそういうのを意識はしていないから、なんとも言えないかな。好きなことだけしてるわけだから、早く修了するならその方がいいとは思うけどね」

「相変わらずさらっと言うなぁ。実はけっこう性格悪いよね」

「そうかな?」

「私に訊かないでよ。袖にした女にさ」

 長い髪をかき上げて睨むようなしぐさをしてから「なーんてね」と片方の口端を上げる。冗談めかしてはいるものの、わざわざ口に出すということは、少なからず根に持っている証拠だ。袖にしただなんて心外だ、と言いたかったけれど、僕は黙っていた。

 しかも、僕のプレートを運んできた店員に「すみません、こっちの席移っていいですか?」なんて尋ねたりしている。やれやれ、とこっそりため息を吐いた。

 園田さんとは同じ高校出身だ。そのまま同じ大学に進学して、学部時代からわりと親しかった。専門は違うものの、会えば話をしたりお茶を飲んだり、軽く食事をしたりもする仲だった。美也子曰く、「美人じゃん、文句なしに」とのことだが、僕としては特に何も感じなかった。つまり、ただの友達だと思っていた。

 だから、院1年目の時に唐突に「私と付き合って」と言われて、正直困惑した。

 華やかな外見の印象どおり、彼女は活発で交友関係も広く、いつも周りに人がたくさんいるタイプだ。ペースを乱されるのが好きではないからひとりでいる方が心地よくて、やりたいときにやりたいことをやりたいだけするのが何よりの幸せ、と思っている地味な僕とは真逆と言っていい。

『どうして? 僕が好きってこと?』

 それしか訊きようがなかったとはいえ、思い返せば確かにひどい質問だった。すぐにぷっと吹き出した園田さんは、可笑しそうにしばらく笑った後、僕をじっと見てこう言った。

『好きじゃなかったら、言うわけないでしょ、こんなこと』

『そうかもしれないけど……一体どこがいいの、僕の』

『顔。あと、真面目なとこ』

 顔が好き、だなんて言われたのは後にも先にも初めてだった。そもそも、誰かにカッコいいと言われた記憶はないし、美也子曰く、僕は「見たまんまガリ勉」らしい。まあ、別にかまわない。そもそも、研究者がガリ勉で何が悪い?

 最低限度の身だしなみには気を遣っているつもりだけれど、おしゃれに興味はない。「侮られると損だから、身ぎれいにしときなよ。特に、髪と靴」という美也子の言にしぶしぶ従っているだけだ。

『園田さんなら、僕なんかよりいい人たくさんいるでしょう?』

『そうかもしれないけど、私は芹沢君がいいの』

『……そう言われても』

『ねぇ、ためしに付き合ってみようよ、そんな困った顔しないで。そのうち好きになってくれればいいから』

 そのうち好きになってくれればいい、というのがどうしても引っかかった。それは違うんじゃないのか、と。

『ごめん、それはできない。僕には、そういうのは無理だと思う』

 気づくときっぱり言ってしまっていた。唖然とした様子の園田さんに、申し訳ないけど、と軽く頭を下げて僕はその場を去ったのだった。

 そんな経緯で、園田さんとはしばらく距離を置いていた。どちらかというと、僕の方が気まずくてなるべく避けていた格好だった。むこうはあまり気にしていないようで、出くわせば「元気?」とか「暇ならお茶しない?」とかそれまでどおり声をかけてきた。同じ研究室だった友達からは「なんで振ったんだよ、あんな美人を。もったいない」としつこく言われて少しうんざりした。

 そんなことを思い出しながら卵焼きを食べていると、向かいで園田さんがほおづえをついてこちらを見ていた。

「もう慣れっこなんだけどさ、そういう顔」

「どういう顔?」

「困った顔。私の前ではだいたいそういう顔してるよね」

 お待たせしました、と彼女のプレートが運ばれてきた。唐揚げとサラダがついたおにぎりセット。

 いただきます、と手を合わせて箸を割った園田さんは、さっそく唐揚げを頬張った。おいしい、と嬉しそうに。

「……ごめん。そういうつもりじゃないよ」

「だからいいって。芹沢君の顔、好きだもん、私」

「まだ言うんだ、それ……」

「しつこい?」

「まあ、多少は」

「はっきり言うね。表裏ないもんね、芹沢君」

 ごめん、と謝ろうかと思ってやめた。おにぎりを食べて誤魔化しておく。

「それに頑固だし。でも、誠実だよね、ある意味」

「……誠実では、ないかもしれない」

 頑固、ではあるかもしれない。でもそれは、誠実、とは違うような気がする。

「そうだ。妹さん、元気?」

「うん。大学卒業して、就職したよ。新聞社に」

 唐突に話題が飛んで、びっくりしたのとほっとしたのとが半々だった。

 なのに——

「ああ、それは上の妹さんでしょ? 下は何歳だっけ? ほら、あのすごくかわいい……」

「妹は一人しかいないよ」

「え、だって」

 言いかけた園田さんを僕は遮った。

「ごめん、園田さん。4講目の準備もあるし、もう行くから」

 伝票と鞄を手に僕は席を立った。軽く頭だけ下げて、彼女の顔は見ずに背を向ける。

 あの子は、僕の妹ではない。もしそうなら、どんなによかっただろう。

 美也子にそうするように軽口を叩いて、美也子からそう呼ばれるように「お兄ちゃん」と呼ばれていたなら。

 もしそうなら、あんなふうに突然消えてしまうこともなかっただろう。

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