第3話 探偵小説

「耽美主義」

 というものは、探偵小説の歴史よりも古い。

 実際に、古代文明の時代からあったもので、それは、文学作品に限ったことではなく、絵画や彫刻と言ったものにも表れている。

 つまり、

「芸術全般」

 というものに、耽美主義的な発想が現れているというわけである。

「耽美主義」

 というのは、

「倫理やモラルなどを度返しして、美というものをひたすら追求するもの」

 というように定義されているものである。

 つまりは、

「犯罪であったり、人間的なモラルがなくても、そこに美というものさえ存在すれば、美というものが、何よりも最優先される」

 というもので、実に恐ろしい発想だといえるだろう。

 古代ローマ皇帝であった、

「ネロ」

 が、

「自分独自の芸術のために、街を焼き払う」

 という話を聞いたことがあるが、それこそ、

「耽美主義の典型的な例」

 といってもいいのではないだろうか?

 つまりは、

「美という芸術のためには、いかなる犯罪も正当化される」

 というもので、探偵小説というものの考え方に一番、似合っているというものではないだろうか?

 それを考えると、実に恐ろしいというもので、

「探偵小説であれば許されるが、実際に行われると、大変なことになる」

 ということだったのだ。

 戦前の日本というと、大正時代くらいから、混沌とした世の中になっていた。

「大正デモクラシー」

 などの運動から、政府は、どんどん新しいのができて、すぐに崩壊していく。

 特に、

「大陸問題」

 というのが深刻化してくると、

「軍と政府のわだかまり」

 というのも、水面下では続いているのであった。

 それに追い打ちをかけたのが、

「関東大震災」

 というものではなかったか。

「都市直下型の大地震が、帝都を見舞う」

 廃墟となった帝都には、焦土の臭いと、煙が充満していて、

「マスクをしていないと、病気になる」

 というほどで、

「帝都復興」

 というものが、最優先であった。

 それでも、さすがの日本。相当なスピードでの復興がなされたが、さらに追い打ちをかけたのが、

「世界的な大恐慌」

 というものと、さらには、

「社会主義やファシズムの台頭」

 というもので、日本は大陸への進出に意欲を燃やしていたのだ。

 さらに、農村部の不作が重なると、

「人口の増加に食料が賄えない」

 という問題が起こり、その解決策として、

「満州事変」

 というものが勃発したのであった。

 時代は、軍による、

「派閥争い問題」

 から、

「226事件」

 という軍事クーデターに発展し、いよいよ、軍主導による、

「大陸進出」

 というものが、行われた。

 それが、

「欧米列強を刺激する」

 ということで、結果的には、

「破滅への道」

 と言われた、

「大東亜戦争」

 というものに入っていくことになったのだ。

 大東亜戦争は、陸軍の、

「マレー上陸作戦」

 あるいは、海軍の、

「真珠湾攻撃」

 と言われる同時軍事行動から始まったと思っている人が多いかも知れないが、

「閣議決定」

 ということで、

「大東亜戦争」

 と命名された時には、

「中国と全面戦争に突入したシナ事変からを言う」

 ということになっているのだ。

 そもそも、この

「大東亜戦争」

 というのは、

「東アジアの諸国が、欧米から植民地化されていることを懸念した日本が、東アジア諸国を、某米の支配から解放し、東アジアつまり、東亜に、新秩序を建設することを戦争目的とする」

 ということから始まっているのである。

 だから、どうしても、

「シナ事変からの戦闘」

 というものを。日本における戦争と位置付ける必要があるのだ。

 シナ事変勃発から、欧米が圧力をかけてきて、

「経済封鎖」

 というものに踏み切ったことで起こった戦争だということにする必要があるかであった。

 実際に、国内では、米英蘭に宣戦布告する前から、

「挙国一致」

 ということで、戦時体制に突入していたのだ。

 そんな時代に突入し、

「欲しがりません勝つまでは」

 などという標語が生まれたりしたのは、その頃からであった。

 実際にその頃から、

「食料は配給制」

 であったり、

 空襲を想定した避難訓練や、消火訓練というものも行われていた。

 灯火管制や、防空壕の建設も行われていて、すでに、

「空襲を想定していた」

 というのは、

「建物疎開」

 に近いものがあったことからも分かることである。

 そんな時代を、今となっては、想像もできないが、今でも、戦時中の映画をテレビで再放送することもあるので、よく見たりしていた。

 特に、須藤は探偵小説が好きだったということもあり、戦前戦後という時代に、大いなる興味を持っていたのだ。

「舞台が、戦前戦後」

 という想像もつかない時代ということで、そもそも、

「小説はフィクションが好きだ」

 と思っていたので、余計にそう感じるのだった。

 とはいえ、須藤は、歴史も好きだった、

 特に、戦国時代などが好きだったのだが、それを、

「ミーハーだと思われたくはない」

 と感じていたのは、

「戦国時代が好きだ」

 といえば、皆が思うことであり、

「そもそも、自分は、皆と同じという感覚が嫌いなんだ」

 と思っていた。

 ただ、

「教養として勉強しようと思ったことで嵌ってしまった」

 と自分では思っている。

 しかし、最近では、

「歴史に興味を持つ」

 という人が増えてきた。

 そのほとんどは、

「ゲームやアニメで興味を持った」

 という人が多く、特にここ数年で、

「歴女」

 と呼ばれる女性の歴史ファンが多くなってきたということであった。

 まわりの歴史好きの人で、ゲームやアニメから入ったわけではない人にとっては、本来であれば、

「ゲームやアニメで興味を持つのは邪道だ」

 と思ってしかるべきだと思うのに、

「どんな形であれ、歴史に興味を持ってくれるというのは嬉しいことだ」

 という人が増えてきたことに、須藤は感心できなかった。

 だから、そんな、

「歴史ヲタク的」

 な連中が出てきたことで、戦国時代ではなく、他の時代に興味を示そうとして考えたのが、

「戦前戦後」

 だったのだ。

 こちらは、

「探偵小説」

 というものから興味を持ったので、最初に気になったのが、この戦前戦後という時代で、ただ、この時代を理解しようと思うと、

「さらに時代をさかのぼる必要がある」

 ということになったのだ。

 それが、

「歴史の探求」

 というものであり、結局は、

「マシュー・ペリーによる黒船来航」

 にまでさかのぼるということになるのだった。

 実際に時代をさかのぼっていくと、

「幕末に興味を持つ人の気持ちも分かる気がする」

 と思ったのだが、須藤自身は、

「幕末よりも、明治の対外戦争に向けての時代背景の方に、興味を持った」

 というのは、

「実に俺らしい」

 と感じたのだ。

「やはり、俺って天邪鬼なんだろうか?」

 と考えていた。

 そして、その頃から、

「歴史の文献を見るのは、ノンフィクションに限る」

 と思うようになっていた。

 小説の世界には、

「歴史小説」

 というものと、

「時代小説」

 というものの二つがあると言われている。

「歴史小説」

 というものは、ノンフィクションであり、

「歴史においての、事件」

 であったり、

「一人の人物にスポットを当てて、その生涯を描く」

 というものを、きちっとした時代考証で描くというのが、歴史書うせつぃと言われるものであった。

 それに比べて、時代小説というのは、まったく違ったものであった。

 というのは、

「時代小説というのは、歴史小説と違って、フィクションである」

 ということだ。

 もちろん、時代背景としての事件であったり、人物は、基本は、

「架空ではない」

 ということであるが、すべてをフィクションということにしてしまうと、それはもはや、

「時代小説ではなく、ファンタジー小説」

 ということになるというものであった。

 つまり、時代小説というものは、

「史実に基づいた事件や戦などで、史実とは違う結末であったり、結末は同じだが、そこに史実にはない、あるいは、奇想天外な架空の話をぶち込むことで、エンターテイメント性を最優先とした物語」

 というものを描くというものである。

 ある意味、

「二次創作」

 にも近いが、二次創作のように、

「リスペクトする元々の話」

 というものがあるわけではない。

 そもそも、二次創作というものは、その原点となる話すら、

「フィクション」

 ということであるので、

「時代小説」

 というものと、根本的なところでその発想が違っているといっても過言ではないだろう。

 そんなことを考えていると、

「歴史というものを見る時、真摯に向き合いたい」

 という考えから、

「基本的には、史実に基づいた歴史得本」

 というものであるが、せめて、

「歴史小説」

 というところくらいになるであろうか。

 あくまでも、

「勉学のための参考資料」

 ということで読むものなので、

「フィクションであってはならない」

 と思うのだった。

 小説を読むのは、その反動からか、

「フィクションだけ」

 であった。

 あくまでも、

「小説というのは、想像力、さらには、妄想」

 ということで、

「自分が知らない、興味を持ったものの想像力を掻き立ててくれるもの」

 というエンターテイメント性を小説に求めるということであった。

 そういう意味で、最初から、

「現代小説」

 というものに興味を示さなかった。

 かといって、

「ファンタジー小説:

 というものにも興味を示さないどころか、嫌悪感すら感じていた。

 というのも、特に、

「異世界ファンタジー」

 と呼ばれるものは、ある時期を起点として、爆発的に人気になり。

「猫も杓子も。異世界ファンタジー」

 と言われるようになった。

 それ以外に、

「ライトノベル」

 と呼ばれるものも出てきたのだが、こちらは、

「マンガの原案になる」

 ということで描かれるものであった。

 実際に、映像作品などで、最近は、そのほとんどが、

「元々はマンガ」

 というのが多かった。

 今から半世紀ほど前、つまり、

「テレビ創成期」

 と呼ばれる頃は、

「マンガが原作の作品もアニメとしてではなく、実写版で製作される」

 というのがあったが、それはあくまでも、

「予算の問題」

 というのか、

「まだまだアニメ制作に従事する人が少なかった」

 ということからなのか、これがカラーテレビが出てきた頃に、やっとアニメ制作が行われるようになったのだった。

 昔の特撮というと、

「糸が見えていたり、映像化の欠点」

 というものが多かったりして、陳腐なものだという時代があったが、今見ると、

「却って新鮮だ」

 と言われるようになったりした。

 ライトノベルの場合は、そんなテレビ創成期とは違う意味で、

「時代が一周したのかも知れない」

 と言われるが、その理由として、

「今のマンガが、SFなどのような架空というよりも、日常生活に近い形の架空の話」

 というのが多いというのがその理由だろう。

「ヒューマンたちなフィクション」

 というべきか。

「昭和の時代であれば、ハードビルドのようなサスペンスであったり、スポーツ根性ものと呼ばれるものなどが多く、それが小説の世界やマンガの世界から、映像化作品として生まれていたが、それは、現実社会とはかけ離れたところで、その面白さが醸し出されいた」

 という時代だった。

 しかし、今の時代は、

「フィクションであっても、なるべく、実生活に近い形で、描く」

 というのが、その根底にあった。

 というのは、

「俺の場合は」

 あるいは、

「私だったら」

 ということで、

「自分の身に置き換えてみる」

 ということで描かれた作品に、同調する気持ちになるということであろう。

 特に、

「学園ものであり、クラスメイトの女の子に恋をするという恋愛小説が、読者の心をうつ」

 ということで、

「実写化されても、却って、その面白味が、立体感覚で分かる」

 ということなのであろう。

 これは、

「イメージとして、パラレルワールドの感覚なのかも知れない」

 と感じさせる。

 つまりは、

「実写化とマンガとでは、明らかに違う」

 というのは、

「マンガというのは、どうしても、原作者の個性が入るということで、登場人物の顔が似てくる」

 ということになる。

 気にならないという人は結構いるだろうが、須藤という男は気になってしまうのであった。

 だから、

「俺はマンガが嫌いだ」

 と普段からうそぶいていた。

 特に、

「大人になってまで、マンガを見るなんて」

 という思いがあるのは、

「小説というものが、一番だ」

 という自負があり、その理由に、

「想像力は、小説に敵うものはない」

 と感じたからだ。

 営巣作品しかり、マンガも同じだった。

 だから、最近の、

「ライトノベル」

 というのも嫌だった。

 その前身といってもいいような、

「ケイタイ小説」

 の時代から嫌いであり、その理由は、

「無駄な行替えであったり、挿絵などをかまさないと、字数が足りない」

 ということに嫌悪感があったのだ。

 それは、まるで、勝手な思い込みに過ぎず、それこそ、

「昭和の頑固おやじ」

 の様相を呈しているといってもいいだろう。

 だから、

「最終的にたどり着いたのが、探偵小説だ」

 と思っていたが、そもそも探偵小説に興味を持ったのは、小説を読み始めて少し下頃の中学時代だったのだ。

 それでも、

「最終的にたどり着いたもの」

 と感じるのは、

「中学時代から、一通り他の小説も読んでみたが、結局。また読み直したい」

 と思ったのが、探偵小説だったのだ。

 他の小説であれば、どうしても後味が悪い。それを直してくれるのが、

「探偵小説だった」

 ということである。

「口直し」

 というと表現が悪いが、それも無理もないことであり、

「マンガよりも小説。そして。最終的には探偵小説」

 と感じたのは、当然といえば当然のことであろう。

 そして、探偵小説でいきついたのが、

「同じ小説を何度も読み直してみたい」

 と感じた、

「耽美主義」

 の話であった。

「何度読んでも理解できない」

 というところからの発想であり、普通なら辞めてしまうのだろうが、理解できるまで読みたいと感じるというのは、

「本当の好奇心」

 といえるだろう。

 そんな探偵小説でしかありえないような話としての、

「耽美主義」

 というような話が、この11月という、これから世知辛くなるというこの時期に、

「一つの事件」

 としてクローズアップされるというのは、一体どういうことなのであろうか?

 それを、奇々怪々とでもいえばいいのか、しかも、その第一発見者として挙がってきたのが、須藤というのは、これこそm

「事実は小説よりも奇なり」

 というが、

「まさにそのことだ」

 と、感じたのは、本人である須藤だけだったことであろう。


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