山野エル

 大学のテストが終わって、久々に実家でゆっくりしようと帰省した。


 両親は出かけてるみたいで、鍵はいつものところに隠してあるからと言われた。

 鉢植えの下の鍵を取って、玄関のドアを開けようとしたら近所のおじさんに声をかけられた。


 子供の頃はお世話になっていて、久しぶりに見たけど、少し老けたようだけど元気そうだった。


「釣ってきたんだよ」


 そう言って発泡スチロールの箱を差し出してきた。

 そういえば、子供の頃にもちょくちょくこうして釣ってきた魚をお裾分けしてくれてたっけ。


 見ると、お腹の膨れた鮎みたいな、だけど、妙に目のギョロついた魚が3尾、氷を詰めた中に横になっていた。見たことのない魚だ。


「それ食って頑張れよ」


 去っていくおじさんに礼を言って家に入った。久々の実家だ、という感慨はすぐに消えた。

 地元の友達と予定を入れていた俺はもらった魚を冷蔵庫にぶち込んで、すぐに家を飛び出したのだ。


 久々に会う友人たちとラウンドワンでひとしきり遊んだ。高校の頃にできたラウンドワンは俺たちにとって青春の象徴みたいなものだった。




 7時ごろに実家に戻ると、ちょうど夕食が食卓に並ぶところだった。おじさんにもらった魚も焼いて出してくれた。


「お魚、ありがとうね」


 母が言ったので、「いや、全然」と返す。俺はただ冷蔵庫に突っ込んでおいただけだから。


 おじさんからもらった魚は腹の中に白い卵がパンパンに詰まっていた。

 だからなのか、噛むとグニっとして生臭さが少し舌に残った。喉に引っかかる感じがしたけど、焼き具合のせいかと思っていた。


 食後にお互いの近況を話していると、さっきの魚の話になった。


「あんた学生なのにあんな魚買って大丈夫だったの?」


「俺が買ったんじゃないよ。近所のおじさんにもらったの。ほら、昔から釣った魚をお裾分けしてくれたおじさんいるでしょ?」


 両親が青ざめて顔を見合わせる。父が虚ろな目で俺を見つめる。


「あのおじさん、ずいぶん前に近くの川で死んだぞ」




 実家から自宅に戻ってから、ずっとおじさんのことが気になっていた。


 みんなで人違いだったという結論に至ったけど、俺が見間違えるはずない。あれはあのおじさんだった。


 実家から帰って何日も頭のモヤモヤが晴れずにいた。


 なにかずっと腹の奥が気持ち悪い感じがした。俺はあの魚を食べたんだ……そう思うと、不安になる。


 夜中、腹の中がざわめいて、吐き気が込み上げてきた。慌ててトイレに駆け込んで、便器に胃の中のものをぶちまけた。


 ボロボロボロ……と小さな細かい粒が喉の奥から溢れ出てきた。水音を立てて、便器の中に浮かぶ。


 あの魚の卵だ。


 全身から血の気が引いて、その場で倒れてしまった。




 次の朝トイレで目覚めた時には、便器の中に魚の卵なんかなくて、あれは悪夢だったんだ……とホッとした。


 それでも体調は優れないままだ。


 心配になって母に電話した。両親ともなんともないらしいけど、声に張りがないのが気になった。


『疲れてるんでしょ』


 そう答える母の声が虚ろで……電話越しに、あの魚の卵が水になだれ込む音が聞こえた気がして怖くなってしまった。


 俺の腹の中には、あの魚の卵がまだ残っているかもしれない……。


 今日は日曜だ。


 明日も続くなら病院に行こう。そう思って、一日横になることにした。




 腹の中がざわざわと蠢いているような感覚がして目が覚める。


 部屋の中はすっかり暗くなっていて、時計は丑三つ時を指していた。


 こんなに寝たのは久しぶりだった。


 相変わらず腹の調子が良くない。昨日、吐いたことを思い出して、またあの魚の卵が便器の水にこぼれ落ちていく水音が聞こえた気がした。


 途端に腹の中がざわざわ、ざわざわと蠢き出す。


 抗えないくらいの吐き気がやって来た。


 便器を掴んで目をつぶり、全部を吐き出すつもりで力んだ。


 舌の上をざらざらとした細かい粒が転がっていく感覚。だけど、その中に何か忙しなく動くものを感じた。


 見ると、無数の卵の方が浮く便器の水の中で小さな魚が何匹もぴしゃぴしゃと飛び跳ねている。


 おじさんにもらったあの魚にそっくりだった。


 あの魚を食べたからだ──。


 俺の腹の中であいつがどんどん大きくなっていく……そんな想像で頭がおかしくなりそうだ。


 腹の中から水の音が聞こえる。


 ふと見ると、俺の腹がまるで妊婦みたいに膨らんでいた。中であの魚たちが飛び跳ねているのが分かる。


 このままじゃ、俺の腹が魚のせいで裂けてしまう……。


 必死に立ち上がって、重い体を引きずりながらキッチンに向かう。


 きっと、きっと……、腹の中のものを出してしまえば、治るはず。


 シンクの下の扉を開けて、そこに挿さっている包丁を抜き取る。


 耳の奥で水の音が激しくなる。頭が割れそうに痛い。


 これで、きっと大丈夫だ……。


 震える手で包丁の切っ先をパンパンに膨れた腹に向けた。

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山野エル @shunt13

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