第5話 月夜に還る
朝の光が窓から差し込んだとき、詩織はすでに目を覚ましていた。一晩中、ルナのそばで過ごしたのだ。ルナの体調は一向に良くならず、時折苦しそうな呼吸をする。詩織は何度も頭を撫で、小さな体を優しく抱きしめた。
「ルナ、朝だよ」
詩織が優しく声をかけると、ルナはかすかに目を開けた。琥珀色の瞳は、相変わらず深い輝きを持っていたが、体の衰弱は隠せない。昨夜から水もほとんど飲まず、エサにも口をつけていなかった。
電話で会社に休暇を取ることを伝えた。上司は少し驚いた様子だったが、詩織がこれまで休みを取ったことがほとんどなかったため、快く了承してくれた。
「今日はずっと一緒だからね」
詩織はルナの小さな体を抱き上げ、リビングのソファに移動した。窓からは朝の陽光が差し込み、部屋を明るく照らしている。ルナは詩織の膝の上で丸くなり、弱々しくも安心したように目を閉じた。
キッチンで自分のコーヒーを淹れながら、詩織は昨夜獣医から言われたことを思い出していた。「猫の年齢は外見だけでは判断しにくいですが、臓器の状態から見て、かなりの高齢猫です」——その言葉が頭から離れなかった。
コーヒーを飲みながら、詩織はルナとの出会いから今日までを振り返った。あの不思議な「月夜のペットショップ」。満月の夜にだけ現れるという店。そしてあの老人の言葉、「ルナが教えてくれることに、心を開いてほしい」。
そして、ルナが詩織に教えてくれたこと——過去の記憶、父との絆、そして閉ざしていた自分の心。この一ヶ月余り、ルナの存在が、詩織の人生をゆっくりと変えていった。
「ルナのおかげで、私は変われた」
詩織はつぶやいた。ルナは詩織の言葉を聞いたようで、小さく「にゃあ」と鳴いた。その声は弱々しかったが、詩織の心に染み入った。
午前中、詩織は再び動物病院に電話をした。ルナの状態を伝え、訪問診療が可能か尋ねた。幸い、午後に獣医が来てくれることになった。
「ルナを動かすのは辛そうだから、ここで診てもらおうね」
詩織がルナに語りかけると、ルナは穏やかな目で見つめ返した。
時間をつぶすために、詩織はリビングを片付け始めた。ルナを視界に入れながら、静かに掃除機をかけ、埃を拭き取る。そんな中、スマートフォンが鳴った。
画面を見ると、佐々木からのメッセージだった。「明日の約束、楽しみにしています」という短い文。詩織は胸がきゅっと締め付けられる思いがした。昨日、佐々木と週末のお茶の約束をしたことを思い出す。ルナの容体を考えると、その約束を守れるかどうか、わからなくなっていた。
返信を迷っていると、ルナが小さく鳴いた。詩織がルナを見ると、ルナはじっと詩織を見つめ、何かを訴えかけるような目をしていた。
「ルナ…」
詩織が近づくと、ルナは前足を伸ばし、詩織のスマートフォンに触れた。「返事をしなさい」と言っているかのように。
「わかったよ」
詩織は微笑み、佐々木に短い返信をした。「私も楽しみにしています」。送信ボタンを押した後、詩織はルナを優しく撫でた。
「心配しないで。私はもう、以前の私じゃないから」
ルナの目には、安心したような光が宿った。
午後、獣医が訪問してくれた。詳しい診察の結果、ルナの容体は思ったより深刻だった。内臓の機能が低下し、老衰の症状が強く出ているという。
「正直に申し上げますと、あまり長くはないかもしれません」
獣医の言葉に、詩織の目に涙が浮かんだ。
「どれくらい…?」
「数日から数週間…場合によっては、今夜か明日…」
詩織は震える手でルナを抱きしめた。あまりにも突然のことだった。一ヶ月前に出会ったばかりなのに、もうお別れなんて。
「何か、できることは…?」
「痛みを和らげる薬はありますが、これは自然な過程です。最期まで、愛情を持って見守ってあげてください」
獣医は痛み止めの注射をし、いくつかの薬を置いていった。詩織は玄関先で彼に礼を言い、再びルナのもとに戻った。
ルナは静かに呼吸をし、詩織が戻ってくるのを待っていたかのように目を開けた。
「ルナ、私はここにいるよ」
詩織はルナを優しく抱き上げ、ソファに座った。窓の外では、夕方の空が徐々に色を変え始めていた。今夜は満月だ。詩織はふと思いついた。
「ルナ、もしかしてあのペットショップ、また見つけられるかな」
あの月夜のペットショップ。もしあの店が今夜も現れるなら、老人に会って話を聞きたかった。ルナについて、そしてこの突然の病の理由について。
午後から夕方にかけて、ルナの容体は更に悪化した。呼吸は浅く、時折痙攣するような動きを見せる。詩織はずっとそばにいて、優しく声をかけ続けた。
「ルナ、お願い、頑張って」
詩織の声は震えていた。大切なものを失う恐怖が、再び彼女の心を締め付ける。しかし今回は、十三歳の時とは違う。今の詩織は、悲しみから逃げるのではなく、真正面から向き合おうとしていた。
「あなたがくれた時間、本当に大切だった」
詩織はルナの小さな体を抱きしめながら語りかけた。
「あなたのおかげで、私は父さんの死と向き合えた。閉ざしていた心を開くことができた。佐々木さんともう一度会う勇気も持てた」
ルナはかすかに目を開け、詩織を見上げた。その瞳には、深い愛情と何か特別なメッセージが込められているようだった。
夕暮れ時、詩織は決意した。ルナを優しく毛布に包み、クッションの上に寝かせて、「ちょっと待っていてね」と言い残して、家を出た。あの「月夜のペットショップ」を探しに行くのだ。
夜の街を、詩織は急ぎ足で歩いた。心の中で祈りながら、あの不思議な店を探す。一ヶ月前に見つけた場所に行くと、そこにはただの古い建物があるだけだった。ペットショップの姿はない。
「どこ…?」
詩織は周囲を見回した。満月の光が街を照らし、影を濃くしている。一ヶ月前のあの晩と同じように。
商店街を端から端まで歩き回ったが、「月夜のペットショップ」の姿は見当たらなかった。詩織は諦めかけた時、ふと路地裏に目をやった。そこに、かすかな明かりが見えた。
「あった…!」
詩織は足早にその灯りに向かって歩いた。確かにそこには、古びた木造の建物があり、「月夜のペットショップ」という看板が風にゆれていた。一ヶ月前とは場所が少し違うが、間違いなくあの店だ。
鈴の音とともに、詩織は店内に入った。薄暗い店内は前と同じ雰囲気で、甘い香りが漂っている。
「いらっしゃい」
奥から、あの白髪の老人が現れた。穏やかな笑顔は前と変わらない。
「あなたに会いたかったんです」
詩織は少し息を切らしながら言った。
「ルナが…ルナが病気なんです。獣医さんは老衰だと言います。でも、私が引き取ったのはたった一ヶ月前で…」
老人は静かに詩織の言葉を聞いていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「ルナは特別な猫だ。君のために、遠い所からやってきた」
「どういう意味ですか?」
「彼女の役目はもうすぐ終わる。でも、彼女が教えてくれたことは、君の中にずっと残るだろう」
老人の言葉は謎めいていたが、詩織には何となく理解できた。
「ルナは…ミオなんですか?」
詩織は長い間考えていた疑問を口にした。老人は微笑んだ。
「それは、君自身が答えを知っているはずだよ」
詩織は黙って考えた。ルナとミオの類似点、そして父の死とミオの失踪が満月の夜だったこと。全てがつながっているような気がした。
「彼女のそばに行きなさい」
老人は優しく言った。「もう時間がないよ」
詩織は急いで店を出た。老人の言葉に、一刻も早くルナのもとに戻らねばという焦りを感じた。
帰り道、詩織は満月を見上げた。大きくて明るい月が、彼女の帰路を照らしている。
「ルナ、待っていて」
詩織は小さく呟きながら、足早に自宅へと向かった。
家に着くと、詩織は慌ててドアを開けた。リビングに駆け込むと、ルナは詩織が置いたクッションの上で、かすかに呼吸をしていた。
「ルナ、ただいま」
詩織はルナを優しく抱き上げた。ルナの体は冷たく、呼吸は一層浅くなっていた。
「ごめんね、ちょっと出かけてしまって」
詩織の声は震えていた。ルナはかすかに目を開け、詩織を見上げた。その瞳には、いつもの深い愛情が宿っていた。
窓から満月の光が差し込み、部屋を銀色に染めていた。詩織はルナを抱きしめ、窓辺に座った。月の光がルナの黒い毛並みを神秘的に照らしている。
ルナの容体は時間とともに悪化していった。詩織は不安に駆られながらも、ルナを優しく抱きかかえた。
「ルナ、頑張って。お願い…」
窓の外では、満月が空高く輝いていた。その光が部屋の中に差し込み、ルナの黒い毛並みを銀色に輝かせた。
夜が更けるにつれ、ルナの状態はさらに悪化した。呼吸は断続的になり、時折痙攣するようになった。詩織は涙を堪えながら、ルナを抱きしめ続けた。
「ルナ、ありがとう。あなたが来てくれて、私は本当に幸せだった」
そう言いながら、詩織の中で様々な記憶がよみがえる。ミオとの日々、父親との思い出、そして、佐々木との再会。すべてがルナによって結びつけられていたかのように。
「ルナ…お願い、苦しまないで…」
詩織がつぶやくと、ルナは最後の力を振り絞るように、詩織の顔を見上げた。そして、それまで聞いたことのない、はっきりとした声で言った。
「ずっと、そばにいたよ」
詩織は息を呑んだ。確かに聞こえた、人の言葉が。信じられない思いで、詩織はルナを見つめた。ルナの瞳は、人間のように深い理解を湛えていた。
その瞬間、ルナの体が光り始めた。まるで月の光を吸収したかのように、ルナの体は光の粒子となり、ゆっくりと空中に浮かび上がっていく。
「ルナ!」
詩織が叫ぶと、光の中から、幼い頃のミオの姿が浮かび上がった。そして、その背後には父親の姿も。
「お父さん…ミオ…」
詩織は涙で視界がぼやけながらも、はっきりと見た。父親が優しく微笑み、手を振っている。ミオも、鳴くように口を開いている。
「ありがとう、もう大丈夫」
そんな言葉が聞こえたような気がした。光は徐々に強くなり、そして窓から漏れる月の光の中へと溶けていった。
部屋に残されたのは、詩織だけ。ルナの姿はもうどこにもなかった。しかし、不思議と詩織の心は穏やかだった。悲しみはあるものの、それ以上に満ち足りた気持ち。
「ミオ…ルナ…そしてお父さん…ずっとそばにいてくれたのね」
詩織はつぶやいた。思い返せば、ルナの仕草や習慣は、ミオとそっくりだった。そして、ミオが行方不明になったのも、父親が亡くなったのも、満月の夜だった。
すべてがつながった。ルナは、ミオの生まれ変わりだったのか、それとも、ずっとそばで見守っていた存在だったのか。詩織にはわからなかった。ただ、確かなのは、ルナが詩織の人生を変えてくれたということ。
「ありがとう…」
詩織はもう一度つぶやいた。涙は流れていたが、心は温かくなっていた。
窓際に座ったまま、詩織は夜空を見上げた。満月が美しく輝いている。その光が、詩織の涙を銀色に染めた。
朝を迎えると、詩織はソファで目を覚ました。窓からは朝日が差し込み、新しい一日の始まりを告げている。昨夜の出来事は夢だったのだろうか。しかし、部屋の中にはルナの姿はなく、クッションには柔らかな窪みだけが残されていた。
詩織は立ち上がり、窓を開けた。朝の空気が部屋に流れ込む。新鮮で、どこか希望に満ちた空気。
テーブルの上には、昨日のスマートフォンがあった。画面には佐々木からのメッセージが表示されている。詩織は小さく微笑んだ。
「今日からは、新しい一歩を踏み出すとき」
詩織は決意した。スマートフォンを手に取り、佐々木に連絡する。彼女は今日の約束を守るつもりだった。
「佐々木さん、今日の約束、場所を変更してもいいですか?」
送信ボタンを押した後、詩織は深呼吸をした。彼女は佐々木を、あの「月夜のペットショップ」があった場所の近くのカフェに誘うつもりだった。そこで彼に、この一ヶ月の出来事を話してみようと思った。すべてを。
返信を待つ間、詩織は窓辺に立ち、朝の街を見渡した。昨夜の満月は沈み、新しい一日が始まっている。ルナはもういないが、彼女が残してくれたものは、詩織の心の中に生き続けていた。
「ルナ、見ていてね。私、これからもっと心を開いて生きていくから」
詩織はつぶやいた。窓から差し込む朝日が、彼女の顔を優しく照らしていた。そして不思議なことに、風が吹いた瞬間、どこからともなく小さな「にゃあ」という声が聞こえたような気がした。
詩織は微笑んだ。ルナは今でも、どこかで彼女を見守っているのだろう。父親も、そしてミオも。
スマートフォンが振動し、佐々木からの返信が届いた。「もちろん大丈夫です。提案の場所で会いましょう」
詩織は返信に微笑み、準備を始めた。彼女の人生は、ここからまた新しい一歩を踏み出そうとしていた。
ルナとの別れは悲しかったが、その出会いがもたらした変化は、詩織の人生を豊かに彩っていくだろう。月夜に現れ、月夜に還ったルナ。その短い時間は、詩織にとって、かけがえのない宝物になった。
窓の外では、新しい一日が輝いていた。詩織は深呼吸をし、前を向いて歩き始める準備をした。心の中には、温かな光が灯っていた。ルナが残してくれた、大切な贈り物。
「さようなら、ルナ。そして、ありがとう」
詩織の部屋に、朝の光が満ちていった。新しい始まりの光が。
月夜に還る猫 ソコニ @mi33x
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