第4話 隠された思い


朝の光が窓から差し込み、詩織は目を覚ました。隣でルナが丸くなって眠っている。その寝顔を見つめながら、詩織は微笑んだ。ルナと暮らし始めてから一ヶ月が経とうとしていた。この一ヶ月で、詩織の生活は少しずつ変わり始めていた。


朝はもう少し早く起き、夜はなるべく早く帰宅するようになった。休日は以前のように仕事をすることはなく、家で過ごしたり、たまには外出したりするようになった。何より、長い間忘れていた感情が、少しずつ戻ってきたように感じていた。


詩織は起き上がり、カーテンを開けた。五月の爽やかな朝の光が部屋を満たす。


「今日も一日、頑張ろう」


詩織は自分に言い聞かせるように呟いた。今日から新しいプロジェクトが始まるのだ。重要なクライアントとの仕事で、詩織のキャリアにとっても大きな意味を持つプロジェクト。少し緊張するが、同時にやりがいも感じていた。


朝の準備を整え、詩織はルナにエサをやり、愛おしそうに頭を撫でた。


「行ってくるね、ルナ」


ルナは「にゃあ」と鳴き、見送るように玄関まで付いてきた。その仕草に、詩織は小さく笑った。


オフィスに到着すると、すでに多くの同僚が席についていた。詩織も自分のデスクに向かい、今日の予定を確認する。午前中はチームミーティング、午後からは新プロジェクトの打ち合わせ。忙しい一日になりそうだ。


「おはようございます、高梨さん」


若い後輩の女性が元気よく挨拶してきた。


「おはよう」


詩織は微笑み返した。以前の詩織なら、もっとぶっきらぼうに応じていたかもしれない。しかし今は、この小さな日常のやりとりにも、温かさを感じるようになっていた。


午前中のミーティングを終え、詩織は社員食堂で昼食を取ることにした。いつもなら自分のデスクで簡単に済ませることが多かったが、今日は気分を変えてみようと思ったのだ。


食堂に入ると、テーブルに一人で座っている男性が目に入った。背中を向けていたが、その姿に見覚えがあった。詩織は足を止めた。


「佐々木さん…?」


男性が振り返った。詩織の予感は当たっていた。佐々木俊介——かつて同じ部署で働いていた同僚だった。二年前に別の部署に異動していったため、最近はほとんど会うことがなかった。


「あ、高梨さん」


佐々木は詩織に気づくと、にっこりと微笑んだ。彼は詩織より二つ年上で、仕事ができる上に、温厚な性格で周囲からの信頼も厚かった。そして、詩織の初恋の相手だった。


「久しぶりですね」


佐々木が言った。詩織は少し緊張しながらも、テーブルに近づいた。


「佐々木さん、お元気でしたか?」


詩織は動揺を隠しながら答えた。二人は一時期、付き合いかけたことがあった。以前の部署で一緒に働いていた時、残業続きの日々の中で、二人は自然と距離を縮めていった。佐々木からの誘いで食事に行くようになり、やがてそれは「デート」と呼べるものになっていった。


しかし、詩織が仕事を優先し、次第に距離を置くようになり、関係は自然消滅してしまった。佐々木は何度か誘ってくれたが、詩織は常に「仕事が忙しい」と断り続けた。そして、彼が別の部署に異動するころには、すっかり疎遠になっていた。


「元気だよ。こっちこそ、高梨さんは相変わらず忙しそうだね」


佐々木は優しく微笑んだ。彼のその笑顔に、詩織は胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。ルナと暮らし始めてから、こうした感情の揺れを敏感に感じるようになっていた。


「まあ、そこそこ」


詩織は少し照れながら答えた。


「よかったら、一緒に食べる?」


佐々木が隣の席を指さした。詩織は一瞬躊躇したが、ルナとの生活で少しずつ変わってきた自分を信じて、頷いた。


「ありがとう」


二人は食事をしながら、近況を語り合った。佐々木は相変わらず仕事熱心だったが、今はテニスを趣味にしているという。休日は友人とコートで汗を流すのが楽しみだと、生き生きと話す。


「高梨さんは?何か趣味とか」


佐々木が尋ねると、詩織は少し考えた。以前なら「特にない」と答えていただろう。しかし今は違う。


「最近、猫を飼い始めたの」


「へえ、高梨さんが猫?意外だな」


佐々木は少し驚いた表情をした。詩織も自分でも意外だと思っていた。


「そうなの。ルナっていう黒猫なんだけど、とても賢くて…何というか、特別な子なの」


詩織がルナのことを話し始めると、自然と表情が柔らかくなった。佐々木はそんな詩織の変化に気づいたのか、優しい目で見つめていた。


「高梨さん、表情が変わったね。猫を飼って、良かったみたいだ」


佐々木の言葉に、詩織は少し恥ずかしくなった。自分がそんなに変わったように見えるのだろうか。


「そうかな…」


「うん、前より柔らかい感じがする。いい変化だよ」


佐々木のその言葉に、詩織は内心で動揺した。以前の自分は、そんなに硬い印象だったのだろうか。ルナと出会う前の自分は、もしかしたら、心を閉ざしすぎていたのかもしれない。


「ところで、高梨さん」


佐々木の声が、詩織の思考を中断させた。


「高梨さんにお願いがあるんだ」


「お願い、ですか?」


「実は次のプロジェクトで、高梨さんの部署と一緒に仕事をすることになったんだ。よろしく頼むよ」


佐々木がそう言うと、詩織の胸はどきりとした。一緒に仕事をするということは、また定期的に会うことになる。内心動揺しながらも、詩織は冷静に応じた。


「はい、こちらこそよろしくお願いします」


会話を続けるうちに、詩織は少しずつリラックスしていった。佐々木はいつでも話しやすく、彼の近くにいると心が落ち着く。かつて恋心を抱いていた理由が、今更ながらに思い出された。


「そろそろ戻らなきゃ」


佐々木が時計を見て言った。詩織も席を立った。


「また会おう」


佐々木が笑顔で言うと、詩織も自然に微笑んだ。


「ええ、また」


二人は別れ、詩織は自分のデスクに戻った。しかし、なかなか集中できない。佐々木との再会が、思いがけず詩織の心を揺さぶったのだ。かつて自分から距離を置いた男性。その選択は正しかったのだろうか。


午後の会議で、詩織は新プロジェクトの詳細を知った。そして案の定、佐々木のチームとの協働プロジェクトだと知らされた。向こう数ヶ月間、定期的に会議を重ねることになる。


仕事を終えて帰宅する途中、詩織は考え事をしていた。佐々木との再会は偶然だろうか。それともこれも何かの導きなのだろうか。ルナが詩織の人生に現れてから、こうした「偶然」が増えているような気がした。


その日の帰り道、詩織は心ここにあらずという様子でアパートに戻った。ドアを開けると、ルナが出迎えてくれた。


「ただいま、ルナ」


詩織はルナを抱き上げ、ソファに腰かけた。ルナの体温が、詩織の緊張した心を少しずつ和らげてくれる。


「今日ね、昔好きだった人に会ったの」


詩織は思わず口にした。ルナはじっと詩織の話を聞いているようだった。


「佐々木さんっていう人。優しくて、仕事もできて…でも、私が距離を置いたせいで、何もなくなっちゃった」


詩織はため息をついた。今考えれば、自分から遠ざけてしまったのは、傷つくことを恐れていたからかもしれない。父の死、ミオの失踪。大切なものを失う痛みを知っていたからこそ、新しい絆を結ぶことを恐れていたのだ。


「私、恋愛とか結婚とか、自分には向いてないんじゃないかって思ってた。仕事が忙しいって言い訳して、本当は怖かったのかも。誰かを失うのが」


ルナは詩織の膝の上で、ゴロゴロと喉を鳴らした。その温かさに、詩織は少しだけ心が和らぐのを感じた。


「でも、今日佐々木さんに会って、心がざわついたの。こんな感覚、久しぶり…」


詩織が顔を上げると、ルナが真剣な表情で彼女を見つめていた。そして突然、ルナは立ち上がり、部屋の隅に置かれたバッグへと歩いていった。


「ルナ?」


詩織が不思議に思っていると、ルナはバッグの中から何かをくわえて戻ってきた。それは、二年前に佐々木からもらった小さなお守りだった。詩織は驚いた。そんなものが、まだバッグの中にあったなんて。完全に忘れていた。


「どうして…これ…」


お守りは、佐々木が地方出張の際に、有名な神社で買ってきてくれたものだった。「仕事運が上がりますように」と、詩織に渡してくれたのを覚えている。詩織はそれを大事にバッグに入れていたが、いつしか忘れていた。


ルナはお守りを詩織の前に置いた。まるで「まだ諦めるには早い」と言っているかのように。


「ルナ…あなた、わかってるの?私の気持ち」


詩織はルナの瞳を覗き込んだ。ルナはただ静かに見つめ返すだけだったが、その目には人間のような理解が宿っているように思えた。


その夜、詩織は再び夢を見た。


夢の中で、詩織は子供の頃の公園にいた。ブランコに座っている小さな女の子——幼い頃の自分だ。隣のベンチには父親が座っていた。


「詩織、人を好きになるのは素晴らしいことだよ」


父が言う。小さな詩織はブランコから降り、父親の隣に座った。


「でも、お父さんはいなくなっちゃった」


幼い詩織がつぶやく。その言葉には、大人の詩織の感情が込められていた。


「でもね、愛した記憶はいつまでも残る。それが人生の宝物なんだよ」


父親が優しく微笑む。その表情には、深い愛情と少しの悲しみが混じっていた。


「怖いの…また誰かを失うのが」


詩織は本音を吐露した。父親は詩織の頭を優しく撫でた。


「怖いのは当然だよ。でも、怖いからって心を閉ざしてしまったら、幸せも遠ざかってしまう」


父親の言葉は、詩織の心の奥深くに染み入った。


「もう一度、心を開いてごらん」


その言葉と共に、夢は光の中に溶けていった。


目が覚めると、詩織の頬には涙が伝っていた。ルナが優しく頬を舐め、その涙を拭ってくれる。


「ルナ、ありがとう」


詩織はルナを抱きしめた。夢の中の父の言葉が、まだ耳に残っている。「もう一度、心を開いてごらん」——その言葉が、詩織の心に新しい決意を芽生えさせた。


朝、詩織はいつもより少し念入りに身支度をした。髪型を少し変え、久しぶりにアクセサリーも身につけた。鏡の中の自分を見て、詩織は小さく微笑んだ。


「行ってくるね、ルナ」


詩織が玄関で言うと、ルナは尻尾を立てて見送った。


オフィスに着くと、詩織は心を決めた。新プロジェクトの打ち合わせで、佐々木に声をかけよう。二年前とは違う自分になろう。


会議室で佐々木を見つけた詩織は、終了後に声をかけた。


「佐々木さん、今度のプロジェクト、頑張りましょうね」


佐々木は驚いたような表情をした。詩織からこんな風に声をかけられるのは久しぶりだった。


「あ、ああ。もちろん」


「あの、よかったら今度お茶でも…」


詩織の言葉に、佐々木の顔がパッと明るくなった。


「うん、是非」


二人は連絡先を交換し、週末に会う約束をした。詩織の胸は高鳴っていたが、それは不安ではなく、久しぶりの期待感だった。


仕事を終えて帰宅すると、詩織は何か違和感を覚えた。いつもならドアを開けると同時に出迎えてくれるルナが、姿を見せないのだ。


「ルナ?」


詩織が部屋を見回すと、ルナは窓際の影で丸くなっていた。その姿は、どこか力なく見えた。


「ルナ、どうしたの?」


詩織が近づくと、ルナはかすかに顔を上げた。いつもの元気がなく、部屋の隅で丸くなっていた。


「ルナ…」


詩織が手を伸ばすと、ルナはか細く鳴いた。触れてみると、体が熱い。


「熱があるみたい…」


詩織は心配になり、すぐにスマートフォンを取り出して、近くの動物病院を検索した。幸い、まだ診療時間内の病院が見つかった。


「大丈夫だからね、ルナ。今から病院に行こう」


詩織は慌ててキャリーバッグを用意し、ルナを優しく中に入れた。ルナは抵抗することなく、おとなしくバッグに収まった。いつもならもっと元気に抵抗するはずなのに、その様子にも詩織の不安は募った。


タクシーを拾い、詩織は近くの動物病院に向かった。車内で、詩織はキャリーバッグの中のルナに語りかけた。


「大丈夫だからね、ルナ。すぐに良くなるから」


詩織の声は、自分自身を安心させるためのものでもあった。


動物病院に着くと、詩織は受付で状況を説明し、すぐに診察室に通された。ルナをキャリーから出し、診察台に載せる。獣医師が丁寧に診察を始めた。


「いつからこの状態ですか?」


「今朝は元気だったんです。でも、帰宅したら元気がなくて…」


詩織は不安そうに答えた。獣医師はルナの体温を測り、身体をくまなく診察していく。


診察の結果は厳しいものだった。


「かなり衰弱しています。年齢的にも高齢ですし…」


獣医の言葉に、詩織は驚いた。


「高齢?でも、一ヶ月前に引き取ったばかりで…」


詩織は困惑した。ルナを迎え入れたのは一ヶ月前。「月夜のペットショップ」の老人は、ルナの年齢については何も言っていなかった。確かに、初めて会った時から、ルナはどこか落ち着いた大人の雰囲気を持っていたが、高齢だとは思わなかった。


「猫の年齢は外見だけでは判断しにくいですが、臓器の状態から見て、かなりの高齢猫です。少なくとも十五歳以上ではないかと思われます」


獣医師の言葉に、詩織は息を飲んだ。十五歳以上というと、猫としてはかなりの高齢だ。そんな年齢の猫を、あの老人は詩織に託したのだろうか。


「今日は点滴と投薬で様子を見ましょう。ただ、明日にはまた来ていただきたいです」


獣医師は処置を終え、詩織に薬と注意事項を説明した。詩織はルナを抱きかかえ、不安な気持ちで帰路についた。


薬をもらって帰宅した詩織は、ルナを優しく抱きかかえてソファに座った。ルナは弱々しく、詩織の腕の中でじっとしていた。


「ルナ、頑張るんだよ。私たち、これからなのに…」


詩織の声は震えていた。ようやく心を開き始めた矢先に、またも大切なものを失うのではないかという恐怖が、詩織の胸を締め付けた。


ルナは弱々しく鳴いた。その瞳に、詩織は何か伝えようとしているメッセージを感じた。琥珀色の瞳は、いつもと変わらず深い理解を湛えていた。


「まさか…あなた、私に何かを教えるために来たの?そして、もう役目は終わり…?」


詩織の言葉に、ルナは小さく頷いたように見えた。詩織の目から涙がこぼれ落ちた。「月夜のペットショップ」の老人の言葉が蘇る。「ルナが教えてくれることに、心を開いてほしい」


ルナは詩織の手をぺろりと舐めた。その仕草に、詩織は胸が締め付けられる思いがした。


「ルナ、お願い。まだ行かないで…」


詩織はルナを優しく抱きしめた。これまでの一ヶ月を思い返す。ルナとの出会い、過去の記憶の回復、そして今日の佐々木との再会。全てがつながっているような気がした。


ルナは詩織の腕の中で、かすかにゴロゴロと喉を鳴らし始めた。その音は弱々しかったが、詩織の心を温かくした。


「大丈夫だよ、ルナ。あなたのおかげで、私は変われたから」


詩織は涙をぬぐいながら言った。ルナの体調が急に悪化した理由は分からない。しかし、詩織にはある予感があった。もしかしたら、ルナの存在には何か特別な意味があるのではないか。そしてその役目が終わりに近づいているのではないか。


窓の外を見ると、徐々に満月が昇りつつあった。明日の夜は満月だ。「月夜のペットショップ」を見つけたのも満月の夜。そして、母の話によれば、ミオが行方不明になったのも満月の夜だった。


詩織はルナを抱きながら、静かに決意した。明日、もう一度あの「月夜のペットショップ」を探してみよう。老人に会い、ルナについての真実を知りたかった。そして何より、ルナを救う方法があるなら、それを知りたかった。


ルナは詩織の膝の上で、少しずつ寝息を立て始めた。詩織は優しくルナの頭を撫でながら、静かに祈った。


「お願い、ルナ。まだ一緒にいて」


窓から見える月の光が、静かに部屋を銀色に染めていた。

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