第3話 月の導き


土曜の午後、陽光が窓から柔らかく差し込んでいた。詩織は休日の静けさの中で部屋の大掃除を始めていた。久しぶりに時間をかけて、普段手の届かない場所まできれいにしようと思ったのだ。


ルナは詩織の一挙手一投足を興味深そうに見つめながら、時折邪魔をしては、「ルナ、そこをどいて」と優しく叱られていた。


クローゼットの奥から、埃をかぶった段ボール箱を引っ張り出す。「実家から持ってきたものかな」と思いながら、詩織は箱を開けてみた。中には古い洋服や、学生時代の教科書、そして一番下に、茶色い革表紙のアルバムが入っていた。


「こんなの持ってきてたんだ…」


詩織は懐かしさに駆られて、アルバムを取り出した。埃を払い、ソファに座ってページをめくる。


最初のページには、詩織が赤ちゃんだった頃の写真が貼られていた。両親に抱かれた小さな自分。母の優しい笑顔と、父の誇らしげな表情。詩織は自然と微笑んだ。


「懐かしいな…」


ページをめくると、幼稚園に通っていた頃の写真、小学校の入学式の写真、家族で遊園地に行った時の写真。若かりし日の両親の姿に、詩織は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


特に父親の笑顔。優しくて、いつも家族を守ってくれた存在。詩織が十三歳の時、交通事故で突然この世を去ってしまった父。その死は、詩織と母親に大きな影を落とした。あまりの突然さに、詩織は悲しみをうまく処理できず、ただ呆然と日々を過ごしていた記憶がある。


そのページをめくっていると、一枚の写真に詩織は息を呑んだ。


「ミオ!」


アルバムに収められていたのは、黒猫を抱く幼い詩織の写真だった。小学校低学年くらいの自分が、琥珀色の瞳をした黒猫をしっかりと抱きかかえている。黒猫は、見れば見るほど、ルナにそっくりだった。


ミオという名の黒猫。母との電話で確認した通り、幼い頃に飼っていた猫だ。公園で迷子になっていたところを詩織が見つけ、家に連れて帰ったことを、詩織はようやく思い出していた。


「ルナ、見て。これ、ミオっていう猫なんだけど…」


詩織がルナを呼ぶと、どこからともなくすっと現れた。猫の足音は本当に静かだ。ルナはアルバムの写真をしげしげと見つめる。そしてミオの写真に前足を置いた。


「似てるでしょ?あなたとミオ」


詩織は言葉を続けた。ルナは静かに鳴いた。その瞳には何か深い感情が宿っていた。まるで写真のミオを認識しているかのような表情に、詩織は不思議な感覚を覚えた。


アルバムをめくっていくと、さらに懐かしい写真が出てきた。ミオと一緒に遊ぶ詩織、父親がミオを抱いている写真、家族全員でのクリスマスの写真。ミオも家族の一員だったのだ。


そして、父親との思い出の写真がたくさん出てきた。釣りに行った時の写真、肩車をしてもらっている写真、誕生日のケーキを前に笑っている写真。最後の誕生日だったことを、詩織は今になって思い出す。十三歳の誕生日の二か月後、父は事故で亡くなった。


「お父さん…」


詩織はその写真を見つめ、胸が締め付けられるような気持ちになった。十三歳の時、父は交通事故で亡くなった。いつもの通勤途中、突然の事故。詩織が学校から帰ると、母親が泣きながら悲報を告げた日のことを、詩織は鮮明に思い出した。


あの日以来、詩織と母親は二人で必死に生きてきた。母親は仕事を増やし、詩織も勉強に打ち込んだ。大学進学、就職、そして今。気がつけば、父の死を乗り越えるために、ただ前だけを見て走ってきたような気がした。悲しむ暇さえなかったのかもしれない。


「私、お父さんのこと、ちゃんと悲しむ時間も取れなかったかも」


詩織はつぶやいた。その言葉に、自分でも驚いた。今まで考えたこともなかった感情が、突然言葉になって出てきたのだ。


ルナは詩織の膝に飛び乗り、顔をすり寄せた。その優しさに、詩織の目から涙がこぼれた。長い間押し殺してきた感情が、ゆっくりと流れ出す。


「ごめんね、急に泣き出して」


詩織は涙を拭いながらルナを撫でた。ルナはただ黙って、詩織の膝の上で彼女を見つめていた。その瞳には、どこか「大丈夫だよ」というメッセージが込められているようだった。


アルバムの最後のページには、ミオが写った最後の写真があった。庭で日向ぼっこをするミオの姿。その後ろに写っているのは、父親の姿。父親がミオを優しく撫でている。その写真の日付を見ると、父親が亡くなる一週間前だった。


「そうか…ミオが行方不明になったのは、お父さんが亡くなる少し前だったんだ」


詩織はようやく時系列を思い出した。父親の死の少し前、ミオは突然いなくなった。必死に探したが見つからず、その直後に父親の事故が起きた。二つの喪失が重なり、詩織の心は深く傷ついたのだ。そしてその傷を癒すために、詩織は感情を閉ざし、ただ前だけを見て生きてきた。


アルバムを閉じ、詩織は深呼吸をした。長い間忘れていた記憶が、こんなにも鮮明に蘇るとは思わなかった。ルナの存在が、彼女の記憶の扉を開けたのだろうか。


「ルナ、ありがとう」


詩織は微笑んで言った。ルナは静かに鳴き、尻尾を揺らした。


その日の夕方、詩織は久しぶりに外食をしようと思い立った。ずっと家にこもっていると、気分も塞ぎがちになる。アルバムで呼び起こされた記憶は、決して楽しいものばかりではなかったが、それでも詩織の心は不思議と軽くなっていた。長い間忘れていた感情と向き合うことで、何か重荷から解放されたような感覚があった。


「ルナ、ちょっと出かけてくるね。すぐ戻るから」


詩織が玄関で靴を履こうとすると、ルナがじっと彼女を見つめていた。その瞳に「気をつけて」という言葉を読み取った気がして、詩織は微笑んだ。


外に出ると、夕暮れ時の街は柔らかな光に包まれていた。詩織は近所の小さなイタリアンレストランに入り、一人でディナーを楽しんだ。ワインを一杯だけ頼み、ゆっくりと食事をする。


「お一人様ですか?」


隣のテーブルから、年配の女性が声をかけてきた。


「はい」


詩織が答えると、女性は優しく微笑んだ。


「私も一人なの。たまには一人の時間も大切よね」


詩織は頷いた。そして少し勇気を出して、会話を続けてみた。


「実は今日、昔のアルバムを見ていたんです。懐かしい写真がたくさんあって…」


「まあ、それは素敵ね。過去を振り返ることは、時には必要なことよ」


女性の言葉に、詩織は共感した。確かに、長い間避けていた過去と向き合うことで、詩織の心は少し軽くなったのだから。


食事を終え、詩織は家路についた。夜空を見上げると、満月に近い大きな月が輝いていた。「月夜のペットショップ」を見つけたのも、満月の夜だった。詩織はふと、あの不思議な店のことを思い出した。もう一度行けるだろうか。あの白髪の老人に会って、ルナについて聞いてみたい気がした。


帰宅すると、ルナは窓辺で月を眺めていた。詩織が帰ってきたことに気づくと、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「ただいま、ルナ」


詩織はルナを抱き上げ、窓際に座った。二人で月を眺める。神秘的な月の光が、部屋の中を銀色に染めていた。


「きれいね」


詩織はつぶやいた。ルナはゴロゴロと喉を鳴らし、詩織の膝の上でくつろいでいた。


その夜、詩織は再び夢を見た。


月明かりの差し込む庭。父親が黒猫を抱いている。その黒猫は間違いなくミオだった。


「ミオ、詩織のことをよろしく頼むよ」


父はミオに語りかけ、優しく撫でている。その表情は穏やかで、どこか諦めのようなものも混じっていた。


「お父さん…」


詩織が声をかけると、父は振り返って笑った。しかし、なぜか父は今の詩織——三十五歳の詩織を見ているようだった。


「詩織、大きくなったね」


まるで今の詩織を見ているかのような父の言葉。それは夢なのに、あまりにも鮮明だった。


「お父さん、ごめんなさい。ちゃんとお別れできなくて…」


詩織は、長い間心の奥に押し込めていた言葉を口にした。父の死は突然すぎて、詩織は本当の意味でのお別れをできないまま、ただ毎日を生きることに必死だった。


「何を言ってるんだい?お父さんはずっと見守ってたよ」


父は優しく微笑んだ。腕の中の黒猫も、詩織を見つめていた。その瞳は、ルナと同じ琥珀色だった。


「さあ、もう行かなきゃ。でも安心して、お前はひとりじゃない」


父の姿が月明かりの中に溶けていく。


「お父さん!」


詩織が叫ぶと、目が覚めた。枕元には、いつものようにルナがいた。窓から差し込む月明かりが、ルナの瞳を神秘的に照らしていた。


「ルナ…あなた、本当は誰なの?」


詩織はルナの瞳を覗き込んだ。ルナは静かに鳴いた。その瞳には、人間のような理解と深い愛情が宿っているように見えた。


翌日、詩織は母親にもう一度電話をした。不思議な夢の意味を探りたかったのだ。


「お母さん、ミオのこと覚えてる?私が小さい頃に飼ってた黒猫」


「ええ、もちろんよ。あなたが小学生の時に行方不明になった子ね」


「ミオがいなくなったのっていつだっけ?」


「そうねえ…ちょうどお父さんが亡くなる少し前かしら。あの子、満月の晩にいなくなったのよ」


詩織は息を呑んだ。満月の晩。「月夜のペットショップ」を見つけたのも満月の晩だった。これは単なる偶然なのだろうか。


「詩織、どうしたの?急にミオの話なんて」


「いや…今、猫を飼い始めたんだ。ルナっていう黒猫」


「まあ、それは良かったわね。あなた、ミオがいなくなった時、すごく泣いたもの。それからは忙しさにかまけて、心を閉ざしてたところがあったもの」


母の言葉に、詩織は胸が痛んだ。確かに、父の死とミオの失踪から、詩織は自分の感情を抑え込むようになった。仕事だけに打ち込み、恋愛も深い関係も避けてきた。自分が傷つくことを恐れ、誰かを失うことを恐れ、いつの間にか心に高い壁を築いていたのだ。


「お母さん、今度ルナを連れて遊びに行ってもいい?」


「ええ、もちろんよ。楽しみにしてるわ」


電話を切った詩織は、窓辺で外を眺めるルナを見つめた。優雅に尻尾を揺らし、窓の外の鳥を見つめるその姿は、まるで絵画のような美しさがあった。


「ルナ、あなたが教えてくれることって…もしかして、私自身のこと?」


詩織はつぶやいた。「月夜のペットショップ」の老人が言った言葉が、再び蘇ってきた。「ルナが教えてくれることに、心を開いてほしい」


ルナは振り返り、詩織を見つめた。その瞳には、何か特別なメッセージが秘められているように思えた。


その日の夕方、詩織は気分転換に散歩をすることにした。ルナの存在で少しずつ変わり始めた自分の生活を振り返りながら、詩織はゆっくりと近所の公園に向かった。


公園では、子供たちが元気に遊んでいた。木々は新緑に包まれ、春の息吹を感じさせる。詩織はベンチに座り、その光景を眺めていた。


ふと、詩織の目に、一人の男性が映った。子供と一緒に遊んでいるその姿に、詩織は見覚えがあった。


「あれは…」


詩織が目を凝らすと、それは彼女の昔の恋人、河野誠だった。大学時代から付き合い、就職後も関係を続けていた男性。しかし、詩織が仕事に没頭するようになり、次第に疎遠になっていった。最終的には、彼の方から「もう会わない方がいいだろう」と言われ、関係は終わった。


河野は小さな女の子と遊んでいる。おそらく彼の娘だろう。彼は結婚し、父親になっていたのだ。詩織は少し切なくなった。あの時、もう少し心を開いていれば、彼女の人生も違っていたかもしれない。


詩織は静かに立ち上がり、そっと公園を後にした。河野に気づかれることはなかったが、彼の幸せそうな姿を見て、詩織は複雑な気持ちになった。嫉妬というよりは、自分の選択を振り返るような感覚。これでよかったのだろうか。


帰宅すると、ルナはいつも通り玄関で出迎えてくれた。詩織はルナを抱き上げ、強く抱きしめた。


「ルナ、私、間違った選択をしてきたのかな」


詩織は問いかけるように言った。ルナはただ静かに、詩織の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らした。その温かさが、詩織の心を少しだけ癒してくれた。


窓の外では、再び月が昇り始めていた。まだ満月ではないが、あと数日でそうなるだろう。詩織は月を見つめながら、ルナが自分に教えてくれようとしていることについて考えた。


過去の記憶、父親との関係、そして心を閉ざしてきた自分自身。ルナの存在は、詩織の心の奥深くに眠っていた感情を、少しずつ目覚めさせているようだった。


月の光に照らされたルナの瞳を見つめながら、詩織は静かに決意した。これからは、もう少し自分の心に正直に生きてみよう。過去の記憶と向き合い、失われた感情を取り戻す。そして、また誰かを愛する勇気を持つ。


「ルナ、ありがとう」


詩織はつぶやいた。月の光が、彼女とルナを静かに包み込んでいた。

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