第2話 響く記憶
週末の朝、詩織は温かな感触で目を覚ました。枕元で丸くなっていたルナが、彼女の顔をそっと前足で触れていたのだ。黒猫の琥珀色の瞳が、詩織をじっと見つめていた。
「おはよう、ルナ」
詩織は微笑みながら、ルナの頭を優しく撫でた。黒い毛並みは想像以上に柔らかく、絹のようだった。ルナはゴロゴロと喉を鳴らし、その音色が朝の静けさの中で心地よく響いた。
起き上がって窓のカーテンを開けると、春の陽光が部屋に溢れ込んできた。一週間前、あの不思議なペットショップでルナと出会ってから、詩織の生活は少しずつ変わり始めていた。朝起きる時間が自然と早くなり、帰宅するのも少し早めになった。何より、帰る場所に誰かが待っているという感覚が、彼女の心に小さな安らぎをもたらしていた。
詩織はキッチンに立ち、コーヒーを淹れながら振り返った。ルナは既にキッチンのドアの前で、おとなしく座っていた。
「お腹すいた?」
詩織が声をかけると、ルナは小さく「にゃあ」と鳴いた。まるで「そうだよ」と答えているかのように。
ルナの餌をボウルに入れ、新鮮な水も用意する。ルナは丁寧に、しかし確かな食欲でエサを食べ始めた。その姿を見つめながら、詩織は自分の朝食の準備をした。トーストと目玉焼き、それにサラダ。最近は簡単な朝食も、ちゃんと食べるようになっていた。
「ねえルナ、今日は何しようか」
詩織がテーブルに座りながら言うと、ルナは食事を中断して彼女を見上げた。まるで会話に参加しているように。詩織は微笑んだ。
「そうね、まずは部屋の掃除をして、それから少し買い物に行こうか」
週末の予定を口にしながら、詩織は自分が猫と会話している状況に、少し可笑しくなった。以前の自分だったら、こんな休日の過ごし方はしなかっただろう。仕事の資料をチェックしたり、疲れて一日中寝ていたり。しかし今は、この小さな存在と過ごす時間が妙に心地よかった。
朝食後、詩織が掃除を始めると、ルナは興味深そうに彼女の後をついて回った。掃除機の音を怖がることもなく、むしろ新しいおもちゃを見つけたかのように、その動きを目で追っていた。
「怖くないの?」
詩織が不思議に思って尋ねると、ルナはただ尻尾を揺らした。どこか余裕のある表情に、詩織は再び微笑んだ。
掃除が一段落した時、スマートフォンが鳴った。画面を見ると、小野寺美香からだった。詩織は少し考えてから電話に出た。
「もしもし、美香?」
「詩織ちゃん!久しぶり。元気にしてる?」
電話の向こうから、明るい声が響いてきた。美香は大学時代からの友人で、いつも前向きで行動的な女性だった。小さなカフェで働きながら、趣味の写真展に出品するほどの腕前の持ち主。そんな彼女が最近、写真教室を始めたという話を聞いていた。
「ええ、元気よ。美香こそ、写真教室はどう?」
「うん、順調だよ!それでね、今週末に生徒たちと小さな撮影会をするんだけど、詩織ちゃんも来ない?」
美香の誘いに、詩織は一瞬躊躇した。休日は家でゆっくりしたいという気持ちと、久しぶりに友人と過ごすことへの期待が入り混じる。
「そんなの無理よ、忙しいんだから」
つい口から出た言葉は、いつもの拒否のパターンだった。しかし、その言葉を口にした瞬間、詩織は自分が再び殻に閉じこもろうとしていることに気づいた。
「詩織ちゃん、いつも仕事ばっかりじゃん。たまには息抜きも必要だよ」
美香の言葉に、詩織は軽くため息をついた。
「わかってるけど…」
「それに、シングル会もあるんだから。いい人紹介するよ」
美香の言葉に、詩織は苦笑した。三十五歳。同世代の友人たちはほとんどが結婚し、中には子どもが小学生になっている人もいる。自分だけが取り残されているような気がして、婚活パーティーなどに顔を出すのもなんだか虚しくなってきていた。
「ごめん、今は仕事が忙しくて…それに、家に猫がいるから」
詩織は言い訳をし、電話を切った。そして、改めて部屋を見回した。いつもなら、休日も仕事の資料に埋もれていた空間が、今日は少し違って見える。窓から差し込む陽の光、整理された部屋、そして、窓辺で日向ぼっこをするルナの姿。
ルナのいる風景は、どこか懐かしさを感じさせた。
詩織はソファに座り、隣にルナが跳び乗ってきた。彼女はルナの頭を優しく撫でながら、考え事をしていた。
「ルナ、ただいま」
詩織はつぶやいた。何故か「おかえり」ではなく「ただいま」と言ってしまった。まるで、ルナがずっとそこにいたかのように。ルナはゴロゴロと喉を鳴らし、詩織の足元にすり寄ってきた。
「あのね、美香から誘われたんだけど断っちゃった。私、変かな?」
詩織はソファに深く腰掛け、ため息をついた。猫に話しかけるなんて、少し前までの自分では考えられなかった。でも、何かルナには通じている気がした。ルナの琥珀色の瞳は、どこか人間のようにも思える。理解しているかのように見つめ返してくる。
「最近ね、男の人と付き合うとか、結婚するとか、そういうの諦めかけてるのかも」
詩織はぽつりとつぶやいた。同い年の友人たちはほとんどが家庭を持ち、親になっている。詩織も若い頃は結婚への憧れがあった。しかし、仕事に没頭するうちに、そんな夢も薄れていった。三十五歳。この歳で新しい出会いがあるとも思えないし、そもそも心を開く余裕もない。
ルナは詩織の膝に飛び乗り、じっと彼女の顔を見つめた。
「あなたには関係ないわよね、ごめんね」
詩織が苦笑いをすると、ルナは頭を傾げ、何かを言いたげな表情をした。その瞳には深い何かが宿っているように見える。まるで「大丈夫だよ、私が居るから」と言っているかのように。
午後、詩織は買い物に出かけた。いつもはコンビニで済ませてしまう買い物も、今日はスーパーまで足を延ばしてみた。ルナのためのおやつも購入し、少し贅沢に自分の夕食の材料も選んでみる。
帰り道、詩織は小さな公園の前で足を止めた。ベンチに座って休みたくなったのだ。春の陽射しが優しく頬を撫で、周りでは子供たちが元気に遊んでいる。詩織はぼんやりとその光景を眺めていた。
ふと、視界の隅に黒い影が映った。
「あれ…?」
公園の端、木陰で佇んでいたのは一匹の黒猫だった。詩織は身を乗り出した。ルナにそっくりな黒猫。しかし、その猫が詩織の方を向くと、目の色は違った。琥珀色ではなく、緑色の瞳。詩織はため息をついた。何を期待していたのだろう。
帰宅すると、ルナは玄関でお出迎え。詩織の足元にすり寄り、愛らしく鳴いた。
「ただいま、ルナ」
詩織は微笑みながら、ルナを抱き上げた。あたたかな感触に、詩織の心は少し和らいだ。
その夜、詩織は奇妙な夢を見た。
幼い頃の自宅。白い壁と木の床が印象的な家。庭で黒猫を抱きしめる小さな女の子。それは間違いなく幼い頃の自分だった。七歳か八歳くらいだろうか。夏の陽光が強く降り注ぐ中、女の子は黒猫をしっかりと抱きしめていた。
「ミオ、ずっと一緒だよ」
女の子は黒猫に語りかけている。黒猫——ミオと呼ばれた猫は、女の子の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「詩織!もうすぐ引っ越しだからね、準備して!」
母親の声がする。女の子はしっかりと黒猫を抱きしめる。少し不安そうな表情で家の方を見やった。
「大丈夫、新しい家でも一緒だよ、約束する」
女の子の言葉に、黒猫は「にゃあ」と小さく鳴いた。その瞳は、どこか物悲しげだった。
目を覚ますと、詩織の枕元にルナが座り、じっと彼女を見つめていた。月明かりが窓から差し込み、ルナの黒い毛並みを神秘的に照らしている。
「ルナ…?」
詩織は体を起こした。今見た夢の意味を考える。そういえば、子供の頃、黒猫を飼っていたような…。太陽の下で輝く黒い毛並み、優しげな瞳。そんな猫がいたような気がする。
「ミオ」
詩織はその名前を口にした。ミオ。幼い頃に飼っていた猫の名前。引っ越し先でしばらく一緒に暮らしたが、いなくなってしまった。詩織はその後、父親を事故で亡くし、母親と二人で暮らしてきた。忙しい日々の中で、ミオの記憶はどこかに押しやられていた。
「ミオにそっくり…」
詩織はルナを見つめた。確かに似ている。あの琥珀色の瞳、しぐさ、鳴き声。今まで気づかなかったのが不思議なほどだった。
ルナは詩織の手をぺろりと舐めた。その感触に、詩織の中で何かが切なく震えた。目の奥が熱くなるのを感じる。
「ねえ、ルナ。あなた、何か知ってるの?」
ルナは黙ったまま、詩織を見つめていた。まるで「そのうちわかるよ」と言っているかのように。
翌朝、詩織は夢の内容を思い出していた。子供の頃の家、そしてミオという名の黒猫。本当にいたのか、それとも単なる夢なのか。確かめたくなった詩織は、実家の母親に電話をかけてみることにした。しかし、その前に仕事の準備をしなければならない。
急いで支度を整え、詩織が家を出ようとした時、ルナは玄関でじっと彼女を見つめていた。その眼差しに、詩織は足を止めた。
「ルナ、行ってくるね」
詩織が言うと、ルナは小さく「にゃあ」と鳴いた。その声が、「気をつけて」と聞こえたのは、単なる詩織の思い込みだろうか。
出勤途中、詩織は夢のことを考えていた。ミオという猫。本当にいたなら、二十五年以上前のことになる。そんな昔の記憶が、なぜ今になって鮮明に蘇ってきたのだろうか。
「月夜のペットショップ」の老人の言葉が思い出された。「ルナが教えてくれることに、心を開いてほしい」と言っていた。詩織はその意味を考えた。ルナは彼女に過去を思い出させようとしているのだろうか。
オフィスに着くと、すでに多くの同僚が忙しそうに働いていた。詩織も仕事モードに切り替え、集中して業務に取り組んだ。しかし、ふとした瞬間に、ルナの瞳や、夢で見た幼い頃の自分の姿が脳裏に浮かぶ。
昼休み、詩織は母親に電話をかけた。
「もしもし、お母さん?」
「詩織、珍しいわね。どうしたの?」
母の声は相変わらず明るく、元気だった。
「ちょっと聞きたいことがあって…私が小さい頃、猫を飼ってなかった?」
電話の向こうで、母は少し考えるような間を置いた。
「ええ、飼ってたわよ。ミオっていう黒猫。あなたが七歳の時に、近所の公園で拾ってきたのよ」
その言葉に、詩織の胸は高鳴った。夢で見たのは、実際の記憶だったのだ。
「そのミオは…どうなったの?」
「引っ越した後、しばらくは一緒に暮らしてたんだけど、ある日突然いなくなってしまったの。あなた、随分と探し回ったけど見つからなくて…」
母の言葉に、かすかな記憶が蘇ってきた。必死に近所を探し回った自分。泣きながら「ミオ」と呼び続けた日々。そして、諦めきれずに作った手作りのポスター。
「そうだったんだ…」
「どうしたの?急にミオの話なんて」
「実は…私、猫を飼い始めたんだ」
「まあ、それは素敵ね!どんな子?」
「黒猫で、ルナっていう名前なの」
「それは良かったわね。あなた、ミオがいなくなった時、すごく泣いたもの」
母の言葉に、詩織は「ありがとう」と言って電話を切った。そして、自分のデスクで深く考え込んだ。なぜルナを見た時、あんなにも懐かしさを感じたのか。なぜあの「月夜のペットショップ」に引き寄せられたのか。そして、なぜ忘れていた幼い頃の記憶が、今になって蘇ってきたのか。
仕事を終えて家に帰る途中、詩織は何か大切なことに気づき始めていた。自分はいつの間にか、感情を押し殺して生きてきたのではないか。父の死、ミオの失踪。それらの悲しみから逃れるために、ただ前だけを見て走ってきた。仕事に没頭し、新しい関係を築くことを恐れ、自分の心に蓋をしてきた。
家に着くと、ルナは玄関でじっと待っていた。その姿を見て、詩織は胸が熱くなった。
「ただいま、ルナ」
詩織は微笑みながら言った。そして、思わずルナを抱き上げ、強く抱きしめた。ルナは詩織の胸の中で、安心したように目を閉じた。
「あなたは、私に何か伝えたいんだね」
詩織はつぶやいた。ルナの瞳を覗き込むと、そこには深い理解と愛情が宿っているように見えた。
まるで、ずっと昔から詩織を知っているかのように。
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