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@tsukiareci


 何者かに壊されたのか、はたまた奪われたのか、とにかくその誰かのせいでこうして便座のないトイレに座るはめになった。夏にもかかわらず尻が冷えてしかたない。とはいえ水洗機能はなんとか保たれているので、俺の糞尿は綺麗さっぱり洗い流される。まったくもって水道局には頭が上がらない。この便器を作った〈株式会社POPO〉にしてもそうである。なにより荒野という魅力的な土地に、月二万円という格安価格で部屋を貸してくれた〈オアシスホーム〉にはいくら感謝しても足りないくらいである。そこまで考えて十秒としないうちに何を考えていたか忘れてしまい、〈二万円〉という数字だけが頭に残った。急に不安になる。来てほしくないけど、早く来てくれ、もう一週間も家賃を滞納してしまっているんだから。しかし呼び鈴はいっこうに鳴らず、居間に戻って割れた硝子窓から平野を見渡してみる。砂のほかには何も見当たらない。ここは荒野なのだから。

 

 その翌日の昼のことだった。お湯を注いだカップ焼きそばのふちを持って窓際の机に運び、ソースを入れてかき混ぜる俺の手元に、あるはずのない影が伸びて目を上げる。骸骨が立っていた。首には金のネックレスをしており、頭蓋骨の上には宝石の埋め込まれた金色の冠をかぶっている。革ジャンに革パンツと、刺繍されている通りまさに〈パンク〉といった風情である。突然の来訪者のために思わず手が止まる。骸骨は窓から頭を乗り出して物欲しそうに焼きそばを覗き込んだので、盗られるのではないかと焦った俺は思わずカップを持ち上げて身体の後ろに隠すようにしてしまったが、冷静に考えればこんなことをすれば相手に不信感を与える可能性だってある。軽率だった、と今は反省している。

 「盗りませんよ、さっき牛丼を食べたばかりですし。それより冷めますよ。ほら、湯気が消えてる。麺ももうカピカピだ」

 落ち着いた骸骨なんていてたまるか。そもそも何のためにここに来た。なんにせよ理由はあるはずだ、まずはそれを聞き出したい。そんなふうに考えている最中も腹はぐぅぐぅ鳴る。なにしろこれが今日の食料のすべてなのだ。追い払うにせよ、金策の道具に使うにせよ、腹が減っていては話にならない。しかし焼きそばを掻き込もうと下げた頭に銃口が向けられる可能性はゼロではない。麺は刻一刻と冷めていく。

 「信用いただけないようですね。仕方がありません」

 骸骨は呆れた様子で両手の骨を外し、窓際の机にごとりと落とした。

 「斎藤くんについて聞きにきました。私は何もしません。だから早く食べてくださいよ」

 斎藤が誰なのか憶い出せなかったが、適当な嘘をつけば厄介払いできるだろう。もしかすると金だってもらえるかもしれないと考えた俺は、人質がわりの両手の骨を机のなかに隠すと、薬品のにおいをほんのり纏った茶色い麺をようやく口に運んだ。不味い、やっぱりいつ食べても不味い。あと五十円高い〈有限会社凹凸〉の商品であればこうはならないが、俺にはそんな余裕はないし、こうして一日一食とはいえ味のついた飯を食えるだけ幸運と言っていい。そう思っていると口の中で鈍い音がして咄嗟に床に吐き出す。吐瀉物にまみれた蝗が飛び跳ねようと粘つく足をジタバタさせている。いつものことである。〈蝗産業〉の商品の蝗混入事件などもはや日常茶飯事で、地方紙でさえ取り上げない。

 

 「骸骨である利点は、まさに食事をしないで済むという点にある。私はそう思うわけです」

 骸骨はこの部屋でただひとつの椅子に座り、窓から吹き込む風にマントを翻させながらそう言うと、差し出された水道水をごくごくと飲んだが、水はただ骨を濡らすのみで、最悪なことに俺のお気に入りの椅子はびしょびしょになった。

 「いや、食欲だけではない。あらゆる欲望が消え去った。喉は渇かない、皮膚もないから暑さも寒さもない。陰茎がなければ、性欲も存在しない。しかし誤算でした。ほら」

 骸骨は人差し指で私を指差した。骨の先端には肌色の、皮膚のようななにかがくっついていて、それは路上に捨てられたガムのように唐突さでそこにあった。

 「斎藤くんの手柄ですよ。これのおかげでたいていの欲望は満たされるんです」

 

 あらゆる欲望を捨て去り自由になりたいという願望を叶えた骸骨は、しばらくするとその落ち着き払った、ある種漂白された人格のために風俗嬢から告白され、付き合うことになった。ナオミというその風俗嬢は、骸骨の優しさに惚れ込み、〈ボンちゃん〉と彼を慕い、欲望の欠如のために引きこもりがちな彼を外に引っ張り出した。たこ焼き屋巡りのために大阪に行くこともあれば、熊野古道巡礼に付き合わされることもあった。陰茎不在のために性交渉はなかったふたりだったが世間に楽しみは十分にあったし、ナオミは職務上のストレスから逃れるためにもプライベートではむしろプラトニックな関係を望んでいたのかもしれない。

 しかし平和はそう長く続かない。発端は骸骨の嫉妬だった。ある夜、彼はナオミのいないベッドの上で寝そべり、読書に集中できず本を床に放り、ゲームをやってみてものめり込めず、終いには腕立て伏せや腹筋をしてみたが骨だけの彼には何をやっても手応えがなかった。そうした足掻きの合間合間にナオミの姿が脳裏をよぎり、たとえフリにしても誰かに抱かれ、喘ぎ、悶えているのだと想像すると、自分が決して与えられていないその時間をもしかすると彼女は喜んで引き受けているのではないかと思え、何をしていても一体と感じられていた彼女が次第に遠のいていくような感覚に陥った。同時に憎しみが、ナオミの裏切りに対する怒りが滲みだして、理性ではなんの非もないとわかっていても抑えられなかった。しかしそんなことをナオミに打ち明ける勇気はなかった。彼はたかが骨である。ナオミはその骨の非個人的で非個性的な優しさに惹かれたのであるから、もし彼が肉体を持つ人間のように振る舞えばすぐさま離れていくだろうということは簡単に想像できた。

 とはいえ、いてもたってもいられなくなった彼は都内の整形外科を片っ端から巡り、皮膚移植が可能な医院を探した。数十件の医院を巡り、門前払いを食らい、法外な料金を提示されたりして途方に暮れた彼はそれでも家に帰る気になれず、足は自然とナオミの勤める〈バカンス〉に傾いた。歩くことすら苦痛になり始め、コンビニを見つけるごとに酒を買っては千鳥足で歩く彼の姿は人の目を引いた。なにしろ骨だけなのだから。思わず目をやる通行人に罪はない。血管がないくせに酩酊状態に陥った骸骨はついに路上に倒れ、悲しみのために止まらない涙が側溝に向かって流れていくのを眺めながら、関節がカクカクと音を立てて外れ、いつしか彼自身も下水に向かって落ちていった。ドブネズミに眺められながら、廃棄されたラーメンや油、動物の骨やらと一緒に汚水に流されながら、ここが自分の本来の居場所なのだと悲惨な環境を受け入れようとしたが、ぬっと伸びてきた手に助け出され、下水道脇に設けられた事務室に虫籠に入れたまま連れてこられた。斎藤はそこにいた。白衣を着た、三十過ぎの男。顔は想い出せない。それほど平凡な顔だったという。

 「君の彼女は下半身付随だ、残念ながら」

 骸骨はなんのことかわからずに、ピンセットで骨を一本一本あるべき位置に並べてもらう。

 「マスク・ド・アスカ。知ってる?」

 「いや」

 「プロレスラーだよ。バックドロップ、伝統的で美的な殺し方だ。そういえば自己紹介がまただったね、斎藤といいます」

 「そいつがナオミを?」

 「君の彼女は君とおなじ不安を抱えている」

 「生きてるのか?」

 「言っただろう、下半身付随だと。生きてるよ」

 骸骨は骨になってはじめて怒りを感じた。すべて諦めていたつもりだった。なのに腹が立って仕方なかった。そんな彼の激昂は骨の震えとなってあらわれ、診察台の金属板と触れ合ってカタカタと前衛音楽のような不規則な音楽を奏でた。

 「勘違いしないように、彼女の望んだことなんだ」

 骸骨は理解が追いつかず、鬱屈した怒りのために震度を強め、その揺れは部屋だけでなく地下から地上までを震わせた。

 「彼女は望んで骨になった。未練を断つためだったんだ」

 「未練?」

 「君の考えている通りさ。彼女は先に帰ったよ。家で待ってるはずだ」

 「骨になったのか、ナオミは」

 「手術の奇跡的な成功……いや、彼女の稀有な精神力のためか、君と同じ歩く骨というわけさ。問題はこれからのことだよ。これは君が望んだ結果だ」

 「俺が」

 「ああそうだ、忘れたかい。君は肉体を憎んでいた。空っぽになりたい。そう言ったのは君だ」

 「それは俺の話だ」

 「人は人を自分と同じかそれ以下の場所まで引きおろそうとするらしい。君は憎んでいたんだよ、彼女を」

 思えばすでにその憎しみは過去のものとなっているのだから、頑なに拒む必要などないことに気づいた骸骨は、なるほど何よりも必要としていたナオミそれ自体が彼の目的を阻害する障壁となっていたことに気づいた。

 「問題はこれからのことだ。君たちは幸か不幸か肉体を失った。性行為もキスも、互いの体温を感じながら手を繋ぐことだってできない。まさに欠如そのものだ。それでは欠如でない。だから、これはささやかながら私からのプレゼントだ」

 斎藤は骸骨の右手の骨を掲げ、人差し指の先端を指し示した。そこには懐かしいものがあった。十円玉ほどの皮膚である。

 「彼女の左手の人差し指にも同じように皮膚を残しておいた。感じてよ、欠如を」

 

 骸骨が家に戻ると、自分と瓜二つの裸の骨が部屋の隅で膝を抱えていた。もはやそれはナオミとはいえなかった。しかし彼の姿を認めるなり彼女は慣れ親しんだ声音で、

 「ボンちゃん」

 と言って、涙もなく泣いた。

 ふたりは骨を寄せ合って抱き合った。そこには以前のような体温の交換はなく、ただ空虚と空虚の衝突があるばかりで、ナオミの啜り泣きの合間には骨同士が当たるコツコツという悲しげな音が響いた。

 しかし悲劇はこの夜きりで終わった。次の日ふたりはディーラーから車を盗み、強盗を働き金をつくり、邪魔な人間がいれば問答無用で殴り殺した。犯罪が成功した際には指先の皮膚をくっつけあって、互いの身体に迸る電流を送り合い、もはや死んだ身軽さを大いに楽しんだ。

 

 「ちょっと休憩」

 突然話を止めて、ボンは俺のオーディオプレーヤーをいじり、元々入っていたノイズミュージックのCDを流し始める。雑音を超えた雑音は、荒野の果てまで響くかに思われた。

 「ああ、最高」

 「鼓膜がないのにどうやって音を聞き取るの?」

 「感じるんだ、フィールだよフィール」

 骸骨は煙草を取り出すと、許可も取らずに火をつけて満足そうに吸った。骨の隙間隙間から煙が漏れた。俺も喫煙者なので、別にいいのだけれど……。

 「一本もらっていい?」

 「ああ、うん」

 メンソールなのが気に食わなかったけど、久しぶりに吸ったせいか非常に美味かった。

 「じゃあさ、あんたは幸せじゃん。どうして今さら斎藤って人に会う必要があるのよ?」

 「根が真面目なんだよ」

 「自分で言うかね、そういうこと」

 「一言お礼を言っておきたくてね。あの人がいなければ俺たちは死ねなかったわけだから」

 「でも、俺知らないよ、斎藤って人」

 「え」

 「だから知らないんだって、ほんとうに」

 「じゃあ、旅費はどうすんのよ? 無駄金? 十万はかかったよ、ここに来るまで」

 「そもそもどうして俺が知ってるって思ったの」

 「長くなるぞ」

 「省略してよ」

 「無理だ」

 要するに、ボンちゃんは殺し屋に出会ったのだった。ボンちゃんが愛しのボン子ちゃんと喫茶店でモーニングセットに舌鼓を打っていると、大口径の長距離用ライフルの銃口が彼のこめかみに触れた。殺し屋は全身黒ずくめのスーツを着ており、被ったハットはアフロヘアーのために浮いて妙な感じだった。しかし眼光は鋭い。長たらしい、芝居がかった会話の末に、その男は裏社会のヒットマンだということがわかった。ボンちゃんは肋骨を一本渡し、それでなんとか殺されないで済んだという。結局三人は仲良くなって、音楽や映画の話に興じ、なんとランチセットまで平らげ、コーヒーは五杯もおかわりした。店を出るころには日が暮れていた。

 「その男が言ったんだ。Aのところへ行けと。どこにいるって聞いたら、ここの住所を教えてくれて、それで……」

 目の前で頭蓋骨が弾け飛び、それと同時に窓から飛び込んできたもうひとりの骸骨が俺に飛び蹴りを喰らわせた。その瞬間、次の銃弾が撃ち込まれ首を失ったボンちゃんの上半身を吹き飛ばした。ボン子に引きずられてトイレまで逃げ込む。銃声は止まない。赤いドレスを着たボン子はヒクヒクと泣きながらも腰から拳銃を取り出し弾倉を装填した。俺は賃貸のことを考えていた。今頃はこの家も穴だらけである。保険には入っていない。敷金で賄えるような傷でもない。終わった。完全に終わった。

 「食べる?」

 ボン子はやさしい女の子だった。俺はうなずいて板チョコの欠片を食べた。味なんて全然しなかった。

 「あれ、誰なの?」

 夜が更けてから、眠れないので尋ねた。

 「斎藤」

 「それって」

 「ボンがあんなに楽しそうに話してたの、久しぶりに見た。ありがとう」

 「ねえ、斎藤って誰なの?」

 ボン子は寝てしまったらしく、ぐぅぐうといびきをかいていた。

 

 


 狙いはボンちゃんだったらしく、それからは銃弾が撃ち込まれなくなった。しかし家は穴だらけだ。とてもじゃないけれど住むことはできない。それで今日の午後二時に退去手続きのために不動産屋が来るはずだったが、日が暮れ始めてもあらわれず、秋らしくなった涼しさに思わずボン子とふたりしてまどろんでしまった。ボン子が俺の肩に頭を乗せてきたので焦った。まあ、気にすることはない。ボンちゃんはもう死んだし、亡骸だって今朝早くボン子が外に運んでくれた。みんないつか死ぬんだから。

 ボン子と初めて寝たあと、疲れて眠りかけていた俺の耳元で色気のある声と一緒にコツコツという骨の音がした。

 「私が雇ったの」

 なるほど、と思わず言ってしまった。あの日以来、殺し屋はあらわれていないし、ボン子はいつも床に寝そべってテレビを観たりしているので、どうしてそんなに呑気にしていられるのか疑問に思っていたところだった。それにしてもピロートークには過激じゃないか、そんな無粋なことを聞けないまま、ただ自分の関心にしたがうことにした。

 「骨も死ぬの?」

 「死なないわ。でも骨界隈では『動けなくなったら終わり』って……まあ、これは不文律みたいなものね」

 「でも、君たち骸骨には心臓はないよね。まさか、魂?」

 「ちがう、そんな、人間なんて身体だけよ。痩せたら動きやすくなるでしょう。骨になる理由なんてそれだけ」

 「後悔してない?」

 「飽きたから、仕方ない」

 そのあっけらかんとした物言いが格好良くて、ボンちゃんが俺に語ったナオミの型にハマった女性像は、はなからボンちゃんの色眼鏡を通して語られていたのだと思った。きっとこの女は最初からこうだった。ただただ退屈していただけにちがいない。

 「君のキックは効いたよ」

 「でしょ?」

 「すごく痛かった。吹き飛んだよ。道徳も愛も、何もかも」

 

 想定外だったのは、ボン子にも金がなかったことである。ボンちゃんとの惜別に備え、全国ありとあらゆる温泉地を巡り、毎晩食べて飲んでいたので強盗で手に入れた金は底を尽きた。何気なく金に困っていることを話しても、もはや金銭も犯罪も堪能しきったボン子には響かない。ボン子の金を当てにしていた俺は、いつ不動産屋がやってくるかわからない恐怖と戦わねばならなかった。この近辺にはアルバイトをできるような店もなければ、会社もない。なるほど二万という家賃はそのことを鑑みてのことだったらしい、と変に納得して、結局何もせずに音楽を聴きながら一日中寝そべって時間を潰すことになった。骸骨女との同居生活なんてなかなかできるもんじゃない。実態はあまりに退屈で、しかし平凡に何事もなく過ぎていった。

 

 「バックドロップってどんな感じだった? 痛かった?」

 「へ」

 「マスク・ド・アスカだったっけ」

 「ああ、あれ嘘だよ」

 「そんな嘘ある?」

 「あいつはただのファン、ストーカー。骸骨になるのに手術もプロレスもいらないわ。私は自分の力でこうなったの」

 ちょっと意味がわからなかった。

 「過去を殺したの」

 「過去」

 「一緒に未来も吹き飛んだわ」

 「なるほど、だから死んだんだ、ボン子は」

 「そうよ、だから当てにしないで、今の私は今しかいない。一秒後には綺麗さっぱり消え去って、新しい私が常に生まれ続ける」

 「にしても斎藤ってのは何者なんかね」

 「神。そう呼ばれてたけど。なんでもできるから。どこにでもいるし、どこを探してもいない」

 「会ったことないの」

 「あるわ。人だと思ったら、ニワトリだった」

 「ボンちゃんは白衣の男だったと言ってたけど」

 「たしかに男だったよ。でも頭はニワトリだった。鶏冠が赤々として、セクシーだった」

 「やったの?」

 「うん」

 

 ボン子がまだナオミだったころ、当時多感な女子高生だった彼女は、家にはほとんど帰らず使用済み下着を売って生計を立てていた。稼ぎを増やすために客の要求に応え、なるべく汗ばんだ下着を拵えようと運送会社や建設現場で働いたこともあったが、疲れるからやめて、臆病な人間ばかりやってくるゲームショップ〈ムーンショット〉で働くことにした。そこの店員や客にも下着を売り、店長でさえその魅力には抗えなかった。しかしニワトリ頭の斎藤だけは買わなかった。なんだかいつも退屈そうな斎藤は、むしろそのあっけらかんとした、無私の態度のためにナオミを惹きつけた。ナオミは告白した。だが、敢えなく失敗に終わる。

 「ニワトリ以外とは付き合わないことにしてる」

 ナオミは斎藤とやりたくてしょうがなかった。金ヅルとしか考えていなかった男にこんな感情を抱いたことはかつてなかった。その時なんとなく、この人なら自分を殺してくれる、と思った。しかし斎藤の頭には雄のニワトリである自分がどうやって卵を産むか、その点にしか頭になかった。

 「目玉焼きが食べたいんだ、自分の産んだ卵で」

 実際、斎藤の話によると交際相手は何人もいたらしい。相手は雄のこともあれば、雌のこともある。通常の生殖方法に頼っていては雄が身籠ることなどないため、風変わりな性自認をもつニワトリとも交際した。しかしどの相手にも個人的な感情を抱くことはなく、そのために彼にとって性行為はむしろ実験の場であり、相手はそうした変質的趣味を満たせればそれで満足する変わった連中ばかりだった。

 ナオミには彼らの思いが手にとるようにわかるのであった。斎藤には一切の情念がなく、したがって相手に対する思い遣りや配慮もなかった。何かを期待されているわけでも、こちらの期待を満たそうとするわけでもない。ただ矢継ぎ早に斎藤の身体に去来する電流に従い道具にされる。斎藤は素面でも過酷な行為に走ることもあり、ナオミは生命の危険を感じて逃げようとするが、斎藤は問答無用で組み伏せる。戦いだった。一刻一刻が命を賭けた果し合いであり、そのために相手を愛おしむことができた。

 副作用もあった。かねてから漂白されうすらぼんやりとしていたナオミの日常は、斎藤との闘争の時間を除いてはすべて無意味な、味気のないものになってしまった。いつのまにか殺されてしまったのだと、使用済み下着を買う客に嫌悪感を抱かなくなった自分を俯瞰する思いだった。そしてその分だけ、斎藤との夜の時間はより濃密に、激しくなった。彼女は殴られながら、相手の幸福を心から願い、いつしかニワトリ頭の彼の腹がぽっこりと膨らむことを夢見ていた。

 そして実際にそうなった。きっかけはわからなかった。筋肉質だった斎藤の身体は丸みを帯びて、腰は太くなり両乳房は急速に肥大化した。伸ばしていた髪にはパーマをかけ、虎柄の上着にスパッツを履き、典型的な〈大阪のおばちゃん〉になってしまった。まさに変身だった。しかし、中身は斎藤のままだった。複数人との性行為こそぱったりやめたが、身重にもかかわらずカップラーメンばかりを食べ、ゲームショップではたらき、毎晩飲み歩いた。しかし腹はどんどん膨れて、つわりらしいものもこないまま日々は過ぎた。

 半年が経ったころ、卵は産まれた。ナオミと抱き合って寝ていた斎藤は、昼過ぎに目覚めると足元に水気を感じて布団を蹴飛ばした。そこにはボウリングの玉ほどの卵が表面に赤黒い胎盤を残したまま横になっていた。斎藤はナオミを起こし、あらかじめ購入しておいた巨大なフライパンを用意するように言いつけ、自分は両手で卵を抱き上げた。

 

 「どうなったと思う?」

 今や骨だけになったボン子は、まるで前世の物語を語るように軽く、楽しげに回想した。

 「空だったの。卵の、殻だけだった」

 「愉快だ」

 「そう、それで私も斎藤も大爆笑」

 俺も笑った。しかしその笑いは長続きせず、こんなとんでもない女とこれから生活することがイメージできず、気づくと彼女を殺す方法を考えていた。不動産には解約キャンセルの電話をしよう。

 

 その晩、寝静まったボン子の頭蓋骨を胴体から切り離した。朝になっても彼女は起きなかった。せめてもの弔いにとフードミキサーで骨を粉砕し、ボンちゃんの墓のとなりに埋めてあげた。ふたりとも金の十字架のネックレスをしていたので、廃材と釘を使って簡易的な十字架を立てた。

 翌日にはふたりのことをすっかり忘れた。待望のビデオゲーム〈エレクトリック・エジュケーション〉がAmazonから届いたのだった。夜っぴてプレイしたけれど、正直クソゲーだった。すかさずレビュー投稿。★ひとつ!

 

 


 それからしばらくして購入した憶えのないビデオゲームがAmazonから届いた。サイトで購入履歴を見てみてもやっぱり注文していない。何かの勘違いか、とカスタマーサポートセンターに電話しようかと思ったが、どうせこちらには落ち度がないのだからと開封してみると、パッケージには〈マサユキ・スイサイド〉と英字で書かれていて、背面の説明文を見る限りどうやらオープンワールドスタイルのゲームらしいことはわかった。何もすることがないのでプレイしてみると、これがとんでもなく素晴らしいゲームだった。ゲーム内容はアクション。ストーリーは、多重人格の女子高生が悪の権化〈斎藤首相〉を殺すために祖父母のもとから旅立つというもの。具体的にはもっとややこしく、キラリという名のその女子高生は、見た目の若さとは対照的に齢百歳を超えた宇宙人という設定で、世界のあらゆる人間を自身の人格のうちに再現し、操ることができる。彼女が斎藤に復讐する理由は、行きつけのパン屋〈パンパパン〉において、最後のメロンパンを買われてしまったからである。キラリの言い分によれば、その日を境に彼女の地球生活は大敗の一途を辿ったという。メロンパン未摂取による糖分不足に陥った頭のため、その日の模試は過去最低点を記録し、それに比例して受験意欲の下がった彼女は薬物に手を出すようになり、学校も行かずにヒッピーまがいの格好で街を練り歩くようになった。成績は下がり、学校にも行かず、日がな一日遊び回っても心は満たされず、東大入学を夢見ていた彼女はいつしかすべての元凶が斎藤にあると結論づけた。因果関係が完全に破綻した彼女の怒りは、もはや誰も止めることはできない。というのが大筋である。

 発売日はちょうど一月前。ネット上ではすでに多くのレビューが出回っており、大手メディアの平均点は四十五点という微妙なもので、ユーザースコアにしても好意的なレビューはほとんどない。比例して売上も悲惨で、国内販売本数が二百本、全世界累計で9000本。パブリッシャーの〈株式会社ピータン〉の株価は暴落。すでに破産手続きに入っているという噂も出回っている。こうした最悪の状況の原因はバグの多さと不親切なUI、そして破綻したストーリーと価格の高さが主な原因で、それらゲームにおける欠点を詰め込んだ〈マサユキ・スイサイド〉のディベロッパーの〈有限会社サンクチュアリ〉は、一部のユーザーからそのパンクなモノづくり姿勢を称賛され、過去の作品の売り上げが一時的に伸びたりした。

 ディレクターを務めたのは半沢伊吹。過去には〈ペンタロット・ジンジャー〉や〈サムライどんぶり〉などインデペンデンス寄りの小規模な作品を手がけ、その破綻したゲーム性と反比例したカオスで濃密な物語が一部のコアゲーマーから称賛された。氏は語る。

 「〈マサユキ・スイサイド〉は私にとって私小説なんです。あれは私の人生そのもの」

 半沢氏はもちろんその名の通り、性も性自認も男である。半沢氏は過去のインタビューで前職は男娼だったが今は童貞であると言ったり、ガガーリンの末裔だと発言しており、業界内では謎の虚言癖男として知られていた。だから今回の発言についてもその虚言と考えて然るべきだった。

 俺はそこまでの情報を集めると、画面疲れした目を揉んだ。ゲーム自体をプレイする気が起こらず、YOUTUBEを検索するとすでに実況なしのプレイ動画が上がっており再生してみる。めちゃくちゃなゲームだった。でも、嫌いじゃない。もう飽きたけど。それより腹が減った。もう三日、何も食べてない。食べる気も起きない。

 

 そして俺は死んだらしい。死因は飢餓。いや、本当はそれだけじゃないはず。まあ、働きたくなかったのだから仕方ない。せめて土の養分にでもなれればと薄らぐ意識のなかで考えていたような気がするが、結局は誰にも気づかれず、看取られず、必要とされないまま、液化した俺の身体はコンクリートに溶け出し、やがて揮発し、後には黒い滑稽なM字開脚の染みが残った。

 

 不動産屋は俺の染みを見下ろし、首を傾げてから咳き込んで、俺の遺した湿気た煙草を憎らしそうに眺め、そして捨てた。こらえられず微笑む。身元引受人のいない、誰とも知れないこの死体をいかにして処理したものか。簡単なことである。告知義務を免れるために新しいAを住ませればいいのである。こんな男、誰かと入れ替わったところで誰にも気づかれない。

 「やってくれ」

 不動産屋の声を合図に外にいた防護服姿の三人がやってきて手に持った掃除機のような機械で血の跡を吸い取り、背に背負った巨大なタンクに赤黒い液体が溜まっていく。一時間ほどの作業が終わると、防護服たちはのそのそと不動産屋のほうにやってきた。

 「お金」

 不動産屋はスーツの内ポケットから封筒を取り出すと、彼らの目の前に放り投げた。彼らのうちのひとりがかがんで封筒を取ろうとするが、勝手の効かない防護服のためにあと少しのところで手が届かない。もうひとりも試みたが、同様だった。三人は顔を見合わせてなにやらごにょごにょ話したあと、最後のひとりが掃除機で金を吸い取り、血溜まりのタンクから別のひとりが封筒を取り出した。

 「うへ、うへへ」

 三人はなにが面白いのかそんなふうに互いに声をかけ合いながら部屋を出ていき、不動産屋は窓枠からその姿を眺め、絵になるな、とつぶやいた。それで落ちていたノートを取り出すと鉛筆を使ってその情景を描いた。緻密に描こうとした結果、なぜか象の親子になった。

 

 あの日描いた絵が天啓となって、まずは象の多く住む界隈にビラを配って、表向きは普通の賃貸として居住者を募ることにした不動産屋だったが、どの象も低収入世帯でありながら部屋の間取りに文句を言い、駅からのアクセスの悪さを愚痴り、なかなか借り手は見つからなかった。心機一転、比較的温和とされる鳩界隈にもアプローチしたものの、今度はあの荒野の家屋の白さに対する不満を聞く結果になった。

 「あれは私たちの存在を証明するためのものなのです」

 鳩たちは一様に首を傾げた。糞のことを言っている。

 「なのに家が白いなんて……糞で立派に家を白く染め上げる。それが若手の鳩にとっては通過儀礼であり、必要不可欠なのです。それに立地がね……こんな場所じゃあ人もいない。中年男性はいますか? そうですよね。彼らは私たちにとっては食料を提供してくれる有難い存在なんです。こんな場所、誰も住みませんよ、ありえないですよ。わかりますか、こうです、首をクックと前後させる、羽毛を擦り付ける。そうして中年男性を癒す。こんな場所じゃあそれもできない」

 不満ばかりを並べる鳩に腹が立った不動産屋は、表向きは頭を下げて、お詫びにと殺害用パスタを茹でて彼らに与えた。みんな死んだ。カラス界隈の連中に連絡すると、無料で鳩を持ち帰ってくれた。

 虎には食われそうになり、キリンには狭いと文句を言われ、カバには渇いた土地に対する不満と既成政党のカバに対する無関心について講説を聞かされ、すっかりノイローゼ気味になった不動産屋は、たまには気分転換をと近所の風俗に行くことにした。そこで出会った蛇の娼婦が、不動産屋のあまりの落胆ぶりを憐れに思い、いつも以上のサービスで彼の身体を喜ばせたあと、良い客が見つかると思う、と一枚の紙片を渡した。

 翌日、不動産屋が紙片に書かれていた土地に赴くと、そこは公園で如何わしい格好をした占い師ばかりが卓の前に座っている。占い師の数は百を優に超え、まばらな客を取り合っている。だから、不動産屋が姿を見せると、どの占い師も椅子から立ち上がって駆け寄り、守護霊だとか、電磁波だとか、呪いだとかと鼓膜が破れるのではないかと思うほどの大声で彼の耳に向かって叫んだ。彼は蛇の娼婦が紙片に書き残してくれたアドバイス、剛に入りては剛に従え、に則って持ってきた作務衣に着替えた。すると占い師たちは、同業者が増えた苛立ちをあらわにして、自分たちの卓へと戻っていった。

 午後六時になると、通りの端から疲れ切ってうなだれた人びとがあらわれ、縋るように死んだ眼を占い師たちに向けた。占い師たちは深く悟ったような顔つきをして彼らを出迎えたが、不動産屋には彼らの内側で燃える闘争心が見えるようだった。客たちは卓の上の顔を見比べながら、彼らなりに自分の行く末を占わせるに値する人物か否かを判断している。どの客も一時間ほど卓から卓へと移動した。不動産屋の顔を見て占ってもらおうとなる人間はほとんどいなかった。だから彼は、紙に〈空き家あります。お貸しします。〉とわざわざ書いて卓の上に置き、あえて静かに、卓の上を眺めて落ち着いた風を装って、実際には蛇の娼婦との一夜を丹念に思い返していた。楽しい夜だった。

 「あなたの首、巻きついてもいいかしら」

 そのどこかおどけた物言いに、不動産屋ははっとして自分の心がいつのまにか荒野のあの家屋に傾いていたことに気づき、

 「いや、なんでもない……どうぞ」

 と白い蛇の赤々とした眼をまともに見つめた。蛇はちろちろと舌を動かしながら畳を這い、その最中に器用に蛇用の着物を脱ぎ、太腿から腹、そして背中から首へと円を描きながら不動産屋の身体をのぼっていき、やがてまるでネックレスみたいに首にぶら下がった。

 「お客さん初めて?」

 「ああ、うん。昔来たことはあるけど、十年も前の話だから」

 「そっか。じゃあ私はいなかった。あの時は北海道にいたから、ススキノに」

 「ススキノかあ……寒かったろう」

 「うん、とっても」

 巻き付く力が若干強まって、わずかに呼吸がしづらくなる。瞬間、殺されるのではないかと思ったが、そうすることの得などないことに気づき、彼女が単に自分を癒そうとしているのだと思うことにして、だんだんと行き詰まっていく呼吸を苦しいとも感じないでいた。

 「寒くて息ができなくなるの。想像できる?」

 「いや」

 「お客さん、凝ってる。辛いんじゃない?」

 「なにが?」

 「私わかるの、あなた、誰」

 「不動産屋だけど」

 「ちがう。あなたの後ろ、ほら感じない? あなたを見下ろして、観察してる」

 「どんな格好だ」

 「マネキンみたい。空っぽ」

 「じゃああの客だ」

 蛇と不動産屋は部屋の片隅に浮かぶ俺をしっしっと追い払い、俺は泣く泣くその場を後にした。どうやら出番は終わったらしい。

 どこへ行けばいい。身体はすでに失って、魂ともいえぬこんな身分になって、誰にも触れられず、何の手応えもないまま今や消えかけている。まるで寒天のように透過した身体、アイスクリームの先端のようにくるりと尖った下半身。亡霊以外のなんでもない。しかし俺にも、少なからず知り合いはいる。あいつももしかしたら、まだあそこにいるかもしれない。

 身軽になった身体で空を飛び荒野に向かうと、弾痕で穿たれた家屋があの時のまま残っていた。冷蔵庫に残っていた缶ビール二本とチーズで腹拵えを済ませ、瞼の重みをこらえてふらふらと荒野を彷徨う。けっこう酔ってしまったらしい。思わず両手に持った缶ビールを落としそうになるが、差し入れを砂で汚すわけにはいかない。

 やがて緑色の台のようなものが、何もないはずの荒野の上にあるのを発見し、それを挟むようにして動いているふたつの骸骨の動きもわずかながら捉えることができた。彼らの動きに合わせてピンポンピンポンと球の跳ねる音が荒野に響いた。大人気なく全力のサーブを返すボンちゃんへの不満を口にしたボン子はラケットを投げだした。ボンちゃんは彼女を宥めようとするがそう簡単にはいかない。よく眺めてみると、卓球台のそばには彼らの死体が、前と同じく十字架の下で眠っていた。俺はふたりに会えることが嬉しかった。

 「え、あんたも死んだの」

 「なんでなんで」

 何も食わなかったから死んだのだと言うと、ボン子は神妙な顔をして顔色を窺った。

 「なんか嫌なことあったの?」

 ボン子はうつ病か双極性障害かを疑っているらしい。

 「そんなんじゃないよ。食う気がしなかった。だから食べなかった。そしたら死んでた」

 「墓はどこだ?」

 「ないよ」

 「ほんとうか? それは良くない。ボン子、今すぐ作ろうや」

 「は、無理でしょ? 身体がないのに。それに死体は?」

 「死体は片付けられちゃった」

 ああ、と揃って言う二人の顔には〈打つ手なし〉と書いてあった。しかし差し入れのビールを渡し、申し訳なさそうに二、三口飲んだあとは、暗い雰囲気も吹き飛んだ。

 「ボンちゃんの頭が吹っ飛んだ時、すごかった」

 「私も見てたけど、泣きそうだった」

 「ボン子、お前……」

 「いや、感動とかじゃなくって、美しいってやつ?」

 「なにそれ」

 話がそのあたりで行き詰まって、ふたりは黙ってテレビを眺めた。思えば俺もボンちゃんも、ボン子の元彼である。しかも俺はボン子を殺した。ボンちゃんは知っているのだろうか。ボン子は話したのだろうか。どちらにせよ慎重にならねばならない。

 

 翌日、俺たち三人は虫取りに出かけた。黄金のカナブンを求めて。

 

 


 厄介な亡霊が消えた今、俺を縛るものは何もない。しかしそれは同時にとても不安なものである。これまでは当然のように生業としていた不動産屋という職業すら当てにできないのである。そもそも今、俺は占い師なのだが、それすら結局は演技なのだろう。自分は人間のような気がするけれど、時に狸か猪であってもおかしくない気がしてくる。実際、客には猿に見えたらしいのだから。

 「あ、お猿さん!」

 子供は残酷である。

 占い師の連中も面白がって〈占猿術〉などという墨書きの木板をこしらえて馬鹿にした。作務衣に茶人や俳諧師の被るような帽子を被らされ、これでは完全に見せ物である。しかし客もそうバカではないことがようようわかってきた。いつしか俺の卓のまえには天王寺区から紀州まで長い列ができていた。

 もちろん俺はウキウキと唸ることしかできない。しかしそこにすこしの抑揚を加え、さらには典型的な愛想を表情に含めてやるだけで、彼らの冷めきった心の片隅に火花が弾け、みるみる間に炎が広がる。長い間触れられずにいた心は一度に溶け出すと、彼らの憂鬱をほんの一時かもしれないが掻き消すのだった。

 占いを終えて並んだ客を残したまま片付けを済ますと、作務衣と帽子を鞄に詰める。悲しそうな顔をつくって公園の花壇に座る。案の定、残っていた客たちが俺に近寄ってくる。あまり近づくと襲われるのではないかと内心恐れながら……。そのなかには男と女もいたが、男などはなから願い下げなので、なるたけ自分の好みの女が近寄ってくるまでは威嚇するか逃げるかして様子を見る。これと決めた女が来ると、俺はすぐさま準備しておいた憂い顔をまるでその人間だけに用意していたかのように差し出す。彼女の心はその瞬間に決壊する。

 俺が猿なためか、どの女も猿になりたがった。しかしそんな夢のような技術があるわけもなく、人間同士でない以上〈恋人〉だとか〈彼氏彼女〉といった定義にもおさまらないので、一夜が過ぎると女との間にはそれまで感じられなかった壁が生じ、どちらともなく互いを忘れようとする。

 猿と寝た女は救われる。そんな馬鹿げた噂を信じる者があらわれだすと、占いどころではなくもはや逃亡生活に入らざるを得なかった。恥ずかしい話だが、俺の赤い尻には痣があって、しかもその模様が英字の〈J〉に見えるため、どこに逃げようとも女に見つかった。女たちはあなどれない。こうと決めたら理由など必要ない。俺が欲しいから欲しいのだ。俺がどんな猿かなんてまったく気にしていない。どんな猿でもいいのである。尻に〈J〉の刻印さえあれば。

 そんなわけで、猿になってしまった俺は不動産屋の仕事のことなどすっかり忘れて、毎晩毎晩違う女の部屋に泊まっては公園で昼寝をする生活を繰り返し、女たちからあてがわれたお小遣いを元手に生活していた。

 カクという新入りの猿があらわれたのはそのころである。名前の由来は尻の痣である。なるほどよく見てみると〈角〉のような黒い染みが赤い尻には刻まれている。公園でただ一匹の猿だった頃、俺には名前など必要なかった。〈モンちゃん〉とか〈もんきち〉などと、客ごとに手前勝手な名前で呼び、特にそれで問題はなかった。しかし〈角〉があらわれた以上そうはいかない。しかしやはり女は賢い。俺がそのことに気づいて落胆していたところ、その日俺を連れ帰った女の家で緊急会議が開かれたのだ。集合した女の数は総勢百名。マンションの一室に集った彼女らは互いの顔も見えないまま、もみくちゃになりながら激しい討論を繰り広げた。

 「今夜は足元の悪いなかお集まりいただきありがとうございます。お猿ちゃん、今は仮にそう呼ばせていたたきますが、私たちの愛する猿の権威は今やあの〈角〉のために地の底に向かってまっしぐらに落下中でございます。嘆かわしいことであります。これはひとえに彼に名前がないからであると、今更皆様に宣うほど私も愚かではありません。だから今宵、皆様と一緒に彼の名付け親となっていただきたいのです。そして、必要があれば戦争も避けて通れないでしょう。今日私は見てしまいました。彼らはすでに武器を手に入れています。私がそばを通っただけでハンマーや包丁、果てには拳銃などを持った女があきらかな敵意を向けてきたのであります。あちらに闘争意思ががある以上、逃げ腰でいることは死を意味します。それはつまり私たちの〈神〉の死であります。神が死んでしまえば私たちはどうして生きられるでしょうか。私たちはそんなに強いでしょうか。たとえ生きられても、そこにどんな充足があるでしょうか。私たちは徹底的に戦わねばなりません!」

 私は隣室に住んでいるという女を連れこんで一発済ませると、壁越しでも十分に聞こえる女たちの声に耳を傾けながら煙草を吸っていた。事後に寝てしまったと思っていた隣の女は、

 「ねえ、知ってる? このマンションの住人、みんな貴方のファンなの」

 と耳元で囁いたが、隣の部屋の討論の声のほうが遥かに大きくほとんど聞こえなかった。

 「〈飛〉でどうかな。だって〈角〉は将棋の〈角〉でしょう?」

 「いや、〈虎〉にすべき。強そうだもん、それに美しくない?」

 「〈桂馬〉でしょう、そこは。彼は縦横にしか動けない堅物じゃないわ。いつだって柔軟に、虎視眈々と敵を狙っている。こうと決めたら喰らいつく。やられたほうはそうとも知らぬまま死ぬの」

 「〈神〉でよくない?」

 「トイレどこ?」

 「〈滅〉がいいと思う。すごくいい」

 議論は夜通し続き、いつのまにか俺は眠ってしまった。目を覚ますと隣の女は、スーツに着替えており、鏡台を向いて口紅を塗っているところだった。俺の視線に気づくと、そこには昨晩までの関心はなく、これ以上ない作り笑いが広がった。

 「まだやってるよ、あの人たち」

 「そう」

 「みんな貴方のこと好きみたい」

 「あんたは」

 「そりゃ、猿になりたい夜だってあるよ、私だって」

 よく見ると女の顔は毛むくじゃらである。スーツの袖からは毛束が飛び出していたし、足にはまるでズボンを履いてるみたいに毛が生えていたので全然色気がなかった。しかし赤い尻を確認できなかった以上、猿と断定することは無意味であり、俺の見間違いということも十分にありえる。

 

 「いったい蒸し鶏の何がいけないっていう言うのよ!」

 何の話かと耳壁にそばだててみると、

 「どうして猫はよくて、犬を飼うのはダメなの?」

 「犬猿だから」

 とか、

 「お湯に浸かるのが良いってのは科学的に証明されてるんだから!」

 「かわいそう。感覚不全ね」

 だとか、無数の会話が聴き取れて、討論と呼べるような状態ではなかった。さらに、よくよく聴いてみると、対峙しあっているそれぞれの意見は合理的でないにせよ論理的ではあったので、それはもはや〈あれかこれか〉の問題ではなく〈あれとあれ〉でしかなく、真理など存在し得ない事柄を問題として捏造し、意味もなく戦っているのだった。その様がひどく滑稽で、俺ははじめて女を愛おしいと思った。女はみんなコメディアンになればいい。

 それでサーカス団をつくることにしたのだった。もはや猿で食う時代ではない。檻のなかに女をふたり放り込めば、そこには男には決してつくれない創造的な磁場が生成されるのである。中心を欠いた、無目的な、同語反復と時折弾ける思いもよらぬ言葉。二者の言葉は高尚な螺旋を描くかと思えば、滑稽な堂々巡りのようにもなる。俺のような猿にはできない芸当である。読み通り、女の肢体を眺めに来るのは俺と同種の下層男性だけでなく、学者や研究職に就く連中のほうがむしろ多い。昼夜問わずにやってきて檻に掴みかかっては俺などでは読んでも理解できない難解な言葉でレポートを書いていくのだが、万人に適応可能な、実証性、客観性、再現性を数値化しようとする彼らにとってはそれはカオスにほかならなかった。しかし明らかにここでの彼らの経験は活かされたらしい。女性をターゲットとした化粧品会社等の企業のCMは、これまでなら誰が見ても美しく、それでいて隙を感じさせる女優などを起用していたが、ほとんどのCMがユニット制で評価の分かれる容姿をした無名の女二人を使うようになったのである。

 

 闘争による調和の時代。

 

 評論家の秋田源三氏のこの言葉は言い得て妙である。どのCMでも二人の女が美、知性、あるいは育児や保険、さらには生理用品などについて真っ向から対峙して相容れない意見をぶつけ合う。しかし両者は基盤において、そのCMの宣伝したい商品を使っているのである。つまりこれまではCMのなかで大々的に映し出された商品はただ最後のほうで映されるだけで、商品への言及もなく、客のほうでも無意識に感じている永遠の闘争という現代の実相を接続点として私ごととしてその映像を記憶に残すのである。そしてなんとなく化粧品売り場に寄った際、その記憶がじわりと起動し、自然とその会社の製品を手に取る。我々〈ポリフォニーサーカス団〉はそうした企業と可能な限り提携し、株式会社化した際には教授や実業家や社長などに株を配当し、今や大衆制御のための特務機関となった。

 サーカス団結成から二年が経ったころのことである。興行の成功と株式会社化による資金の安定に伴って組織の整備が進み、社長の俺を筆頭とした役員のほか、部長や課長といった役職を設け、今や千人体制の大企業の統制を図った。福利厚生を充実させ昇給制度、昇進制度も整備し、かつ超実力主義を内包した強力な企業作りを推し進めたのだが、ここではじめて問題らしい問題が起こることになる。

 女たちの体毛が異様に伸びはじめたのである。産毛だけでなく、髭は硬く放っておけば顔の下半分を覆うようになり、すね毛は硬く捩れ、頭髪も艶を失いごわごわとしはじめた。提携している企業に商品開発を大義名分に現況調査をお願いしてみても原因は不明で、どのような脱毛技術をもってしても女たちの〈剛毛化〉には歯止めが効かず、やがて女たちはすっかり猿になってしまった。

 実験材料としての価値がなくなったと判断した企業と大学はいつのまにか株を売却。それに伴って株価は暴落し、早期退職を募る羽目になってしまった。俺のファンを辞めようとしない連中はそれでも残り、闘争時代には想像もできないような仲睦まじさで互いに毛繕いをするために観客は日に日に減っていった。

 俺は会長の地位に就き、女猿たちに役職を与えて、ほとんど投げやりな態度で企業の没落を眺めていた。今や集団化による結束と排斥の旨み知った女猿たちは、役職とその報酬を守るために空疎な議論をするようになり、やがてある種の思想に与しない者たちは会社を去り、屈強で狡猾な雄猿のような女猿ばかりが残る結果となった。刺激的な見せ物小屋だった〈ポリフォニーサーカス団〉も、いつしかただの猿山に変わっていった。客足は減り、山へ帰っていくものも多くいた。そんなある日、社長から役員に緊急会議の勅令が発せられた。

 「我々も山へ帰る時が来たのであります。」

 会議開始早々、女社長は声高に言った。

 「猿を崇め、猿を支え、猿の奴隷となって働き、そしてやっとの思いで猿となれたことを皆さんは覚えていますか。私たちの理念は〈猿〉をおいて他にないのです。そこには助詞も副詞も動詞すら本来は必要ないのです。私たちは〈猿〉という単語にひたすら思いを馳せ、行動して、そうして念願叶って〈猿〉になったのであります。私は社長に就任する以前から今に至るまで〈猿〉とはなにか、そのことばかり考えてきました。もちろん会長を慕う気持ちは今も変わりません。すぐにでも会長の子を孕みたいとさえ思います。あんなにだらしなくて優しい人はどこにもいませんから。ですが、会長を慕えばこそ〈猿〉という問題から逃げるわけにはいかないのであります。そこで皆さんの意見を募りたく思い、この会を催したたわけでございます。一言で構いません、忌憚なき思いをお聞かせ願いたい」

 しばしの沈黙。やがて一匹の猿が手をあげた。

 「猿は四足歩行です」

 すぐに別の役員がつぶやく。

 「木の実がたべたい。うずらの卵が食べたい。山に行きたい」

 「猿とは調和ではないでしょうか。毛繕い……あれほどしあわせな時間はありません。配下の従業員もよく口にしておりますので、私どもの部門では業務時間中二時間に一度は互いに毛繕いさせるようにしております。ところが最近は職務のほうがおざなりになってしまって……」

 「働きたくない」

 「合理的に考えますと、調和を勝ち得た私たちに営利は必要ありません。今すぐ山に帰るべきと考えます」

 「人間なんて死ね」

 「人間反対」

 「失ったものは大きいと考えます。私たちは元人間として、人間であろうとするがゆえに猿になったわけであります。つまり今の人間は人であらずというわけです。猿には猿の道理があります。知らしめる必要があります。戦争をしかけましょう」

 この最後の意見に感銘を受けたらしい会長は俺を一瞥し、人間のころの女らしい情愛のこもった眼を濡らしたあと俯いた。やがて戦争という案を採用した。


 翌日早朝、俺は会長室でソファに寝転びながらモニター越しに馬に跨る猿の群れを眺めていた。対陣には戦車が並び、小銃をもつ自衛隊が銃口を猿に向けている。やがて猿の鬨の声が上がり、地が空気が揺れて、五分もしないうちに猿は皆殺しにされた。

 「勝ったな」

 思わず口にしていた。

 「おめでとう、女の勝ちだ」

 

 国家転覆罪に加担したとして逮捕され、極刑に処せられるのだとぼんやり考えながらソファに寝そべっていると、戦争に参加せずその場を逃れた人間の女がやってきた。

 「逃げましょう」

 寝たことのない女だ、とぼんやり眺めていると勢いよく手を引かれ部屋を飛び出した。ビルを出て、街を駆け、やがて女の住まいにやってきた。寂しげな、廃れた通りのアパートだった。

 「ここで暮らしてください」

 「ありがとう」

 「お金はこちらでなんとかしますので」

 「ありがとう」

 女はどこからともなく金を運んできて猿の俺を養ってくれた。過労が祟ったのか精神を病んだ女は、それでも薬をガブガブ呑みながら生活費を賄った。しかしやがて朝起きれなくなり、部屋にいても身動きひとつなく妄語をつぶやくようになった。生活保護を申請しようと提案した。

 「いい家があるんだ」

 

 


 猿が産まれる。そんな妄語を口にするようになった女は、片手を上下させながら部屋中を移動していたかと思うと椅子に座り荒野を眺めだし、それにも飽きるとうなだれて、涎を垂らしながら床を蛇のように這う。

 ルームロンダリングをさせるために荒野の弾痕だらけの廃墟に住まわせることにした。俺は猿なので食事は木の実で済んだし、Amazonで格安のものを買えば食費はそうかからないので、女の生活保護でなんとかなった。女は無洗米を炊かずにぽりぽりと食い、しかも食べる量が少ないのでどんどん痩せていった。分裂した精神は記憶まで曖昧にするらしく、毎日誕生日ケーキを買ってきてやり、糖分と脂質を摂取させることでなんとか死なせずに済んだ。

 安穏とした日々が続き、季節の変化の乏しい荒野にいても女との会話があれば退屈することもなく、女の生活保護費の余剰分を使ってふたりでボウリングに出かけたり、ゲームをして楽しんだ。女のお気に入りは映画だった。Amazonプライムに加入し、朝と夜に一本ずつ鑑賞した。その時間だけは女も孕んだ猿のことは忘れるらしく、いつも腹に添えていた手もゆるむ。体調も次第に良くなっていったが、猿を孕んだという妄想だけは消えることなく、いつまで経っても膨らまない腹を守るように両手で庇いながら家事をこなしていた。

 問題はケースワーカーの訪問日だった。年に二回、奴らはやってくる。市役所に雇われた強面の、どう見てもヤクザにしか見えないサングラスの男たちが、黒いセダンに乗ってやってくるのだ。奴らの表向きの目的は生活状況の調査とその報告だが、実態は生活保護費の一部をみかじめ料として取り立てて行くのだ。それができれば乱暴なことをされずに済み、役所に不利な情報を渡すことはされない。しかし一部の受給者は根が金にだらしないために蟻に改造されて地下労働を強いられる結果になったりもした。金を渡せば済むことだった。だが問題は、女がそれを良しとしないことだった。だから俺は何度も説得し、脚本まで用意して何時間も練習に付き合ってやったが、毎度毎度癇癪を起こしてヤクザに殴りかかる結果になった。最初の訪問こそ殴り返されるだけで済んだが、次はない旨の通告を受けたため、俺は頭を抱えた。もちろん俺が出張るわけにはいかない。ペットがいると知られればそれこそ認定解除になり、ふたりして飢え死にすることになる。俺は猿なのだ。働けるわけもない。藤原組長藤原崇とその部下が二度目に訪問してくるまでのあいだ、虎派遣型身辺警護会社や別の組のヤクザに頼み込んだりしてみたものの、金の都合で断られた。警察に頼み込んだが門前払いを食らった。

 「私がやっつけますから安心してくださいね」

 そう言って女は、痩せ細った腕で毛むくじゃらの俺を抱き上げて署を出ようとした時、私たちの行手に男がいて、こちらをまっすぐ見ていた。全身緑のジャケットを着込み、首元に巻いた白タオルの上には角刈りの巨大な頭が乗っていて、日の丸が描かれた鉢巻を巻いている。となりを行き過ぎようとした瞬間だった。男の回し蹴りが俺の目の前を掠めたかと思うと、女は飛び上がり踵落としを喰らわした。しかし男は踵を片手で受け止めて、

 「いい、とてもいい。その力を日本のために使わないか」

 と勇ましく近寄る。

 「日本なんて興味ない」

 「俺は本郷。あんたの事情は知ってる。藤原に狙われているんだろう」

 「だったらなに」

 「あんたの気骨に惚れたんだ。日本は守らなくていい、とりあえず話だけでもどうだ」

 「チョコレートパフェを奢ってくれるなら。この子が好きなの」

 「それくらいお安いご用だ。おいで、お猿さん」

 

 本郷は俺たちを寂れたアーケードの、古ぼけた喫茶店に案内した。カウンターの奥には明らかにオカマとわかる男が三人、ビキニ姿で立っていて、客が入ってきてもぶっきらぼうな態度を崩さなかった。

 「キョウコ」

 本郷は窓際の席に座るなり大声で言った。

 「キョウコ」

 二度目にも反応はなかった。

 「キョウコ!」

 三度目でやっとカウンターから出てきた黄色いビキニのオカマが、お盆で股間を隠しながら迷惑そうな顔で近寄ってきた。

 「やめてよ、もう終わったでしょ」

 「藤原のやつ、なんとかできんのか」

 「知らないわよ、あんな男。あらかわいい」

 キョウコは俺を抱き上げて肌を擦り付けてきたので、せっかくの毛並みは荒れ、ファンデーションがこびりついた。

 「なんなの、この子たち」

 「希望だ」

 「なになに、また右ごっこ?」

 「藤原に狙われてる」

 「生活保護なのね。うちで働く? 最低時給だけど」

 「やめろ。なあ、藤原に近づけるのはお前だけなんだ」

 「どうしてそこまでするのよ」

 「思い出したんだ、ぜんぶ」

 なにやらカチッという音がして振り返ると、カウンターにいた別のオカマがスイッチを押し、店内が暗転し、天井に張り付いたもうひとりのオカマの操作するスポットライトが本郷を照らした。薄暗くてよく見えなかったが、店内の隅に楽器を持った連中もいて、本郷の神妙な雰囲気を象徴するようにベースの重低音がぼんっぼんっと鳴る。

 「俺の父親はゴリラだった。動物園から逃げ出した情けないゴリラ。親父は生まれた頃から動物園育ちで食い扶持を自分で見つけることにも苦労して、仲間もいない土地で子孫を残す方法もないまま死を待っていた。そこにもう一つの死があった。俺だ。俺は、親に捨てられ、晩夏の山で一人死のうとしていた。」

 ゴリラは比喩なのだろうか、と本郷を眺めた。肩幅はやたら広く、ジャケット越しにも隆々として聳り立つ筋肉が見えるかのようで、これならゴリラに育てられたとしても納得がいく。それに、両手を前にしてウホウホと歩く姿はとても似合う気がしたし、優しそうな目はいつだってうるうると慣れていた。

 

 ゴリラは段ボールのなかを覗き込む。そこに本郷がいた。毛布に包まれた本郷は、舞い落ちる枯葉を嬉しそうに眺め、まったく泣く気配がない。こちらを覗き込むゴリラを見つけてもきゃっきゃっと笑い、怖がることはなかった。ゴリラは人里に逃げ出して以来はじめて誰かに笑ってもらえたような気がして、抱っこをせがむ本郷を抱き上げて、不器用にあやした。赤ん坊は広がった視界が嬉しくて、舞い落ちる葉を掴もうと手を伸ばし、たとえ失敗してもゴリラに満面の笑みを向けるのだった。

 「親父は優しい、だけど不器用な男だった。嬉しくても嬉しいと言えず、悲しくても堅苦しい表情を崩さない。俺は山で鍛えられ、木から木へと飛び移りながら、まるで猿のように生きていた。毎日が楽しかった。父親とは言葉などなくても以心伝心で互いの状態を感知できた。大きくなってくると友達が欲しくなる。だが、森の住人は誰も彼も俺を怖がった。正確には、親のゴリラを恐れていた。親父はなにも山にある食料を全て食べ尽くすような恐ろしい存在でもなければ、むしろ少食なほうで、図体のわりに木の実や果実ばかり食べて、日がな一日木の下でぼんやりと過ごしているようなゴリラだった。だが、動物たちの恐れは日が経つほど大きくなり、いつしか神話めいた迷信さえ生まれることになった。その迷信というのが、ゴリラを殺せば山の神が戻ってくるというもので、森林伐採と住宅の開発、道路整備という人間たちの進出にともなって生活がままならなくなった動物たちにとってそれは希望だった。だから、俺も親父はいつも奴らに恐れられながら、狙われていた。やがて親父は年もとる。毛並みはごわついてきて、走る速さも落ち、全身がどんどん痩せ細っていった。今思えば、なにかの病気だったんだろう。ある日、ふたりで滝のそばで水を飲んでいた時だった。親父は無言で滝の奥に進んでいき、裏にある洞窟からリュックサックを抱えて戻ってくると、無言でこちらを見ようともせず俺に手渡しその場を去ろうとした。俺がついて行こうとすると、低い唸り声を出して追い払おうとする。俺は泣いて縋りつくが、ついには手で突き飛ばされる始末。その時、チラと見えた親父の目つきはひどく冷たかった。親父は、突然の冷たい扱いに泣き出しそうになる小さな俺に背を向けて坂を登っていった。俺はさらに追い縋った。しかしついには崖から突き落とされた。岩肌を転がり落ちながら、ついに憎しみの芽生えてきた俺の目に、親父の悲しそうな顔が映る。わけがわからないまま麓近くまで落下した俺は、山菜取りに来ていた爺さんに拾われた。俺はそこの家で育てられ、高校まで卒業できた。夫婦は子供もなく、近隣との付き合いも断ち、一日中ポップミュージックを流しながら踊り過ごす変わった連中で、ゴリラに育てられ言葉も知らない俺にも気兼ねなく話しかけ、本や音楽、絵画などの芸術について教えてくれた。そしてある日、その夫婦が山に住むゴリラも定期的にここに来ていたことを話してくれたんだ。毎週土曜日の夜、ゴリラは夫婦の住む家にやってきて扉をノックする。家に上がるなり婆さんが用意しておいたドーナツとコーラを平らげ、自分のお気に入りのカセットテープをプレーヤーにセットし、両手を掲げて踊りはじめる。夫婦も彼のことが好きで、一緒に踊り明かした。だが、ある日を境に親父は姿をあらわさなくなり、その半年後に俺が落ちてきた。しきりに山に戻ろうとする俺を不審に思った爺さんは、何度も何度もついてきてくれた。ついに親父の遺骨を発見した時には、大事に拾って庭に墓まで作ってくれた」

 

 店の方方で啜り泣く音がした。感動しているらしい。キョウコさんのはからいで皆にホットミルクが提供され、悲しく冷えた心を温めることができた。皆が本郷が話し出すのを待っていたが、本郷は美味しそうにミルクを飲みながら、哀愁の目つきを窓の外に向けている。

 「で、なんの話?」

 立ちっぱなしで苦しそうにしていたキョウコさんがついに聞いた。

 「いや、ただの昔話だ」

 「この子たちと関係あるの?」

 「すべてはつながっている」

 「呆れた」

 照明係のオカマは天井から飛び降り、店内の電灯がつけられた。

 「また嘘ついたの」

 「嘘じゃないさ、この子ならわかってくれる」

 隣に座る女を見てみると、本郷の語りからどんな天啓を得たのか、いつになく目が輝いているように見えた。

 「師匠、私はこの猿を守りたい。お腹のなかの子供も」

 「死ぬことになるぞ」

 「かまいません」

 

 荒野の片隅に建てられた道場に移り住み、女の特訓の日々がはじまった。毎朝の走り込み、筋トレ、本郷との手合わせを繰り返す日々が続いた。合気道や柔術などありとあらゆる武術を叩き込まれた女は、半月が経ったころには左手を腹に添えたまま本郷と互角に戦えるまでに成長した。

 「俺を藤原だと思って殺しにこい! 奴は甘くない。殺されることを願ってるんだ。だから容赦なく殺せ」

 時折、キョウコさんは差し入れを携えて道場にやってきて、俺を抱いて女を見守っていた。彼女によると、藤原組長はかつてキョウコさんと交際していたが、因縁の敵である本郷との一騎打ちに敗北した。一匹狼のチンピラは、組長へと鞍替えをしたという。

 「あいつは寂しがり。だから本郷くんは藤原を殺そうとしているの。殺せば、みんな同じ。骨になって消える。本郷くんの父親もそばにいるの。だから彼は強い。負けても強い」

 

 約半年の短期特訓の末、女は本郷顔負けの身体を手に入れ、銃火器の扱い方まで習得した。強靭で迷いのない彼女の意思は師匠を遥かに凌ぎ、手合わせでも本郷が負けることが多くなってきた。

 そして二度目の訪問日、荒野の家の周辺には本郷の手筈で運びこんだ戦車十台、銃火器数十丁を持つ隊員が配置された。女は今やボディビルダーのようになった身体を荒野に差し向けて、地平線を見ていた。やがて地の果ての蜃気楼から黒い影が横並びにあらわれて、本郷の号令を合図に戦車の砲台が火を吹き、彼の部下は小銃片手に日本万歳と叫びながら突進していった。黒い影はひとり、またひとりと倒れその数はみるみるうちに減っていった。

 やがて黒髪をオールバックにした藤原がコートを翻しながらあらわれて、女も走りだす。拳と拳の応酬が続く。両者吹き飛ばし吹き飛ばされる。まるで漫画みたいに。

 「まだまだ」

 藤原は女の首を絞めながら言う。

 「もっと楽しませてくれ」

 女は藤原を投げ飛ばし、みぞおちにキツい一発をお見舞い。藤原は血を吐き出しながら、痛みの快楽に浸って笑みを浮かべている。女は手を挙げて合図を送り、上空を旋回していた航空機からナパーム弾が落とされる。強烈な爆風が戦車をも吹き飛ばす。爆炎のなかから藤原の拳が飛んできて女は咄嗟に受け止める。腕は指先から灰になっていき、ぽろぽろと地に落ちた。

 「受給決定だ」

 本郷は、灰になった藤原を骨壷に納め去っていった。俺と女は頭を下げて、彼が蜃気楼に姿を消すまで顔を上げることができなかった。

 

 二年後、女は病院で息を引き取った。死因は不明。知ったところでどうなるわけでもない。俺は会社を辞めて山に戻った。さらに四年後の現在、俺は親父や祖父母、女とともに墓の中にいる。揮発した俺たちの魂は拡散し、どことも知れない土地に赴く。やがて荒野に似た何もない土地に降り立つと、ポップミュージックに合わせて踊り出す。

 

 


 わけのわからない夢だった。女と猿の物語を思い出そうと夢日記を記そうとしたが、書こうとするペン先から記憶はぽろぽろと剥がれ落ちて、何も思い出せなくなった。ベッドに寝そべったまま部屋を見渡せば、並んだゲーム機が静かに埃をかぶっており、業者に組み立てさせたプラモデルが棚に並んでいる。昨日食べた弁当の空き箱のまわりを蠅が飛び回り、読みかけで開いたまま置いた本がいくつも重なって塔のように聳え立っている。それらの物と風景は、夢のようによそよそしく自立し、僕の記憶と結びつこうとしない。そこでやっとテレビが点きっぱなしで、〈Continue?〉と表示されていることに気づいた。コントローラーを操作し〈NO〉を選択。タイトル画面に戻ると、そこには夢で見た荒野の家が映し出された。窓を見やる。まだ夜は明けていない。明けるはずもない。

 永遠に思える数時間が過ぎ、アパート内の他の部屋から人びとが出勤する音が聞こえてくる。窓のそばに立ち、カーテン越しに通りを見下ろすと、急ぎ足で駅に向かう女が、皺の残るスーツを揺らしている。あの女は建設会社の事務員をしている。昨日、同じ通りで同僚の男と揉み合いなっているのを見た。

 「しつこいなあ。夏は男を家にあげない! そう決めてるの!」

 そんなことを叫び、蹴飛ばされた男はにやにやと嬉しそうにもう一度蹴ってくれと懇願する。女は味を占め、ヒールの先端で何度も男を突き刺す。どうやら絶命したらしい。警察が来て、自殺だと判断した。

 ヒール女のあとにスーツ姿の男がふらふらと駅に向かう。これほど典型的なサラリーマンは昨今なかなか拝めるものではない。木曜日特有のくたびれたスーツ、眠気をこらえる顔、うなだれながらも自動人形のように規則的に上下して進む背中。この男は僕とおなじ無職なのである。生まれてからこれまでアルバイトはおろか、ボランティアすらしたことがない。今は母親の年金を当てにして暮らしている。夜な夜な階下から聞こえてくる楽しげな会話が、架空の人物との会話であると知っているのはきっと僕だけだ。

 それからしばらくして、ランドセルを担いだ少年の、ゆっくりと階段を降りていく音がして思わず眼を瞠る。黄色い帽子の庇の奥で、ギロリと眼が光る。眼の周囲は鱗に覆われている。すくなくとも僕にはそう見えた。これは僕がニートだから可能な技術である。ヒール女は男漁りとサディスト趣味に忙しく、エアサラリーマンは演技をすることに必死なのだ。僕には何もすることがない。だから見えないはずのものが見える。見えてしまう。

 かといって僕に道徳心がないわけではない。鰐といえど子供を殺すのは心が痛む。しかし鰐なのである。人との共存などかなわない。実際、あの鰐は少年になりきり学校にまで登校し、そうと怪しまれない範囲で近隣の学校から子供を連れ込んで食べている。しかもその皮膚を剥製にして部屋に飾っているのだから、たとえ少年であっても鬼畜と言わざるを得ない。鰐少年を殺すのは僕にしかできない仕事である。

 しかし殺処分のあとのことを思うと尻込みせざるを得ないのもまた事実である。僕の社会的意義は鰐少年がいるからこそのものであり、彼が死ねばそれもなくなる。だからこそ綿密な調査と因果関係の整理が必要なのだが、元来〈1〉以上の成績を取ったことのない僕に複雑な検証などできるはずもなく、その足取りを追おうとしても体力不足のために五分もしないうちに根を上げる始末。だから結局待つほかないわけである。人通りの少なくなった夜中、鰐少年はいつものように今日の食料である少女を担いで四足歩行で帰ってきた。隣の部屋から少女の骨と肉が噛みちぎられるなんとも表現しようのない音が聞こえてくる。きっとほかの住民にはテレビの音としか聞こえていないのだろう。僕には鰐少年の顔が手にとるように思い浮かべられた。まるで人間がポテトチップスを食べるみたいにあっけらかんとして、その凄惨な現場の現場とは対極的にリラックスした鰐の顔が。

 今や物を食うということ自体、生命を維持するという原初的な目的を超えて、ある種の趣味嗜好の範囲内に属していると言える。僕たち人間も屠殺場での虐殺を経て肉を手に入れるし、野菜は刈り取られる際に痛みを感じているかも知れないし、魚も地上に上げられ呼吸困難になりながら息絶える。つまり何かを奪って生きながらえているのである。しかしそんな当然のことを今さら道義の観点から批判し、菜食を推し進めようだとか、逆に野生時代に帰り各々の人間が自分の食料となる動植物と一対一で対峙し、飽和した資本主義的な大量生産大量消費から抜け出そうなどと言うのはお門違いなのだろう。問題は鰐が少年少女を攫い、僕たちがポテトチップスやビーフジャーキーを食べるときのようにむしゃむしゃと安穏とした気分で食べることがどうしていけないかという疑問である。これは道徳的観点では検討できない問題である。なぜなら〈鰐が子供を攫い食う〉という事態は現実にほかならず、僕たちがリビングでテレビを観ながらポテトチップスを食べるのとなんら変わらない現象に過ぎないからである。だから別の視座が必要となるのだが、なによりまず最初に〈鰐が子供を攫い食う〉という絵を思い浮かべる際に僕たちの胸に自然と湧いてくる嫌悪感について、集合的無意識という観点を織り交ぜながら解読する必要がある。つまり、人喰い鰐はいかにして裁かれるべきかということである。しかし曖昧な裁判装置である道徳的観点を取り除いてみると、感覚的な嫌悪感に従い裁くべきといった安易な答えならまだしも、誰もが納得できるような答えを見出すのは容易ではない。

 僕がひとりでこの問題と対峙していることは、国際的な鰐学会や法学会の連中にも知れ渡ったらしく、週に一度は誰かが見識を求めてやってきた。だが誰も彼もが学会や組織で一旗上げようとする輩ばかりで、心を排した無機質な正論を事前に内側でこしらえており、僕の意見などはなから受け付けようとしないので、何度も奴らを玄関から蹴飛ばす羽目になった。こんな輩なら殺すのも躊躇う必要はない。

 斎藤という男が尋ねてきたのは雪の降る日だった。僕はいつも通り早朝に起き、窓のそばにビデオカメラを設置し、鰐少年が出てくるのを今か今かと待ち侘びていた。やがてジーンズを履き、〈POP〉と書かれた手編みセーターを着込み、首には可愛いマフラーを巻いた鰐が通りに出てきた。降る雪を掌に乗せたり、口で受け止めたりして楽しそうにしている。やはり人喰い鰐といえど、子供なのである。僕は愛着心すら芽生えはじめていた。本当の意味で彼を殺し、その責任を負うことができるのは僕をおいて他にいない、と。それは愛とすら言えた。斎藤ははじめ電柱のそばに立っていた。駅に急ぐ人の多い時間に立ち止まっているのは、誰が見ても違和感があったが、立派な大人はそんな違和にいちいち構っているわけにもいかず、なかったことにして通り過ぎる。斎藤はコートのポケットに両手を入れ厳しい目つきで鰐を眺め、やがてカメラに目を向けた。その表情と、腕を上げてお辞儀をする軽妙な態度に、只者じゃない何かが感じられた。

 「どうして殺さなかったんですか?」

 娘を殺され、そのショックで妻が自殺し、幻覚を見るようになった。部屋に上げるなり斎藤はなんでもないことのようにそう語った。いまだポケットに手を突っ込んだまま、関心があるのかないのかもわからない様子で僕の部屋を歩き回る姿は、妻子を失った悲しみも怒りも感じられず不気味で、それはまるで空になったペットボトルがいつまでも部屋の片隅にあるような違和感を与えた。やがて歩き回るのに疲れたのか、ばたりと人の部屋の床に寝そべると首からかけていた水筒に口をつけ、うぅと唸ってから一言。

 「必然性が足りない」

 「必然性ですか」

 「あの鰐小僧にはそれがある。娘にも、もちろん妻にも。私はそれを探している」

 「憎くないんですか」

 「憎いですよ、壊されたんですから。けど、生まれ変わらせてくれたのも彼なんです。あの鰐小僧は私の仇であり、同時に生みの親でもある。今はその親に食わせてもらっているわけです。だから、奴を殺す以上は私も死を覚悟せざるを得ない。だがまだ私は死にたくない。新しい論理が必要なんです。自然な論理が」

 「論理」

 「ええ、だからここに来た。あなたならなにかご存知だと思いまして」

 「とりあえず中華でも食いに行かない?」

 

 駅前の中華料理屋〈チャイナマフィアウォー〉は早朝から客でごった返していた。客の大半は中年の男性で、朝にもかかわらずジョッキでビールを飲んでいる。彼らの目当ては餃子とチャーハンにビールを合わせた五百円のモーニングセットで、これから働きに出る人間も、または無職の人間でさえも早朝からの酩酊は欠かせない。〈覚醒セット〉と常連のあいだで呼ばれるのもそういった理由からである。僕はビールが嫌いなので天津飯セットにした。斎藤は僕の勧めを断り、ピータンセットに。やはりこの男は尋常ではない。ピータン丼にピータンスープ、ピータン入り餃子にピータン酵母のビール。誰がこんなものを食べるのかと疑問に思っていたそれを、斎藤は平然と平らげた。

 腹が膨れた僕たちは公園でしばらく日光浴したあと、ボーリングで三ゲーム遊び、バッティングセンターで三十球ずつ打った。三時のおやつに一緒にチョコレートパフェを食べ終えたころには互いに気兼ねもなくなり、人喰い鰐のことなど忘れてしょうもないことを笑いながら話し合っていた。僕は、これが友達か、と思うと同時に、すでに彼を失う寂しさを予感していた。だから翌日も、またその次の日も彼を遊びに誘い、延々と散歩したり映画を観に行ったりして、意図的に鰐から意識を逸らそうとしたのだが完全に逆効果だった。斎藤は至福の瞬間を求めていたのだった。彼のこれまでの人生にはそんなものはなかった。大手企業への就職も、妻との結婚式も、娘の生誕も彼にとっては味気のないもので、ただ周囲が求める表情をつくり演じてみせることでやり過ごす仕事でしかなかった。あるのはただ倦怠と諦念、なにをやっても実感の伴わない生活だけ。そんな最中、娘が殺され、妻が首を吊った。さすがの彼も羨まずにはいられなかった。長い間忘れていたが、しかしいつかはかならず訪れる死を目の当たりにした彼は、自分も死にたいと考えるようになった、悲しみや憎しみからではない。今のぼんやりとした生が、途方もない死によってようやく肉付けされる。そんな妄想がやまなかった。

 斎藤は僕と遊んでいる時間、その何の目的もない無為の、しかしとてつもなく楽しく感じられるその時空に自分がいることを悟ったのである。鰐を殺したい。今すぐ殺したい。そうすることで娘と妻の死までが楽しい思い出に変わると感じた。それはちょうど徹夜でのボーリングの最中で、二十ゲームの最後、くたびれて椅子に寝そべる僕のそばで、彼はフルスコアを叩き出した。彼はおもむろにボーリングの玉を担ぎ、清算もしないままボーリング場を出て行き、鰐小僧の住むアパートに向かった。

 「しあわせだ、しあわせだ」

 僕がなにを尋ねようと、彼は張り詰めた表情でそうつぶやくだけだった。彼は鰐小僧の部屋に着くと躊躇なくボーリング玉で鍵を壊し部屋に上がった。鰐小僧はソファに座り、

 「待っていたよ」

 と、こちらを向いて足を組んでいる。

 「君は僕であり、僕は君だ。そんなこと、いまさらいう必要もないけど」

 斎藤の手は震えていた。武者震いである。喜びのあまり喉が渇き、声は掠れていた。

 「死にたいか?」

 「いずれ死ぬのだから、死にたいというのはおかしい。なぜ今なのか、それが問題だね。君は必然性とやらに躍起になっていて、その様子を見る限りどうやらそれを手に入れたらしい。けど、僕にも都合がある。考えて欲しいんだよ、一緒に。一度殺せば、君はこれまでのようにはいられない。だからこれは君の問題でもある」

 「お前は死ぬ、無意味に」

 「僕たちはあるベクトルにしたがって生きている。皆んながばらばらの方向に進んでいるようで、それは円を描いていて、循環する。もちろん僕の死は無意味だろう。排水溝にでも捨ててくれればいい。鰐の死体が見つかったところでマスコミが騒ぐはずもない。僕が知りたいのは、君のベクトルと僕のベクトルの重奏がなにを形作るかということだ。意味じゃない、運動だ」

 「なにも残らないさ」

 「わかってくれないか。夢を見たんだ。何もない土地、砂と小石、それに少しばかりの枯れ木のほかには何もないだだっ広い無為の空間。僕はそこでパソコンを触ってた。ネットサーフィンだ。僕と君のことを調べてた。けど、どこにも僕たちの記録はなかった。これはおかしなことだ、君はそう思わないか」

 「思わない」

 「承認欲求のためにこんなことを言ってるんじゃない。僕たちは掲示板に吐かれる小言同然の無為な存在にはちがいない。常に匿名であり、歴史に名を残すこともない。しかし軽い爪痕くらいはあって然るべきだろう。たとえば、このアパートに住んでいた履歴くらいは……」

 鰐小僧は立ち上がり、居間の狭い空間を円を描きながら歩きはじめた。

 「こうして空気の流れを阻害し、その空気を揺らすことで君に語りかけているわけだけれど、これはどうなんだ? 君のいう必然性はどこにある?」

 その時、斎藤は小声で僕に語りかけた。音楽を頼む。僕はすぐにスマホを取り出し、ふたりしてよく聴いたダンスミュージックを流した。斎藤は身体を小刻みに揺らし、楽しげな表情に冷や汗を流しながら旋回し、その遠心力をつかってボーリング玉を鰐小僧に投げつけた。人喰い鰐の身体は弾け飛び、鮮血は音楽に合わせて宙を舞い、やがて肉片とともに凄まじい音を立てて壁に付着した。

 僕と斎藤は夜通し踊り明かした。

 

 


 「いい天気だなあ」

 斎藤は勢いよくカーテンを開き、陽の光のために僕の眠りは破られた。ふとんを頭までかぶり再度寝ようとすると、今度は窓を開けられて冷たい風がどんどん僕を冷やしていく。

 「おい、ごろごろしてんなよ、今日から追われる身なんだ」

 そう言われてやっと昨日殺した鰐小僧のことを思い出し目が覚めた。殺したのだから、当然だ。殺されるのは嫌だ。だから逃げないといけない。思えばさっきから玄関のほうで扉を叩くどんどんという音がしている。

 「じゃあ行くか」

 僕がシャワーを浴び、着替えを済ませると斎藤は言った。

 「どこへ」

 「行ってのお楽しみだよ、そりゃ」

 僕たちはアパートの窓から飛び降りた。浜辺に着地。冬の海に海水浴客がいるわけもなく、足を濡らしただけで僕たちは街のほうへ向かった。ここだと身を隠しやすいし、楽しいから。そんな理由で斎藤は大型ショッピングモールへ向かった。併設された映画館で映画を観た。悲しい恋を題材とした退屈な映画だったが、音だけはなんとも心地よかったので思わず爆睡。目を覚ますと今度は戦争映画が上映されていた。また寝て、次に起きると定点カメラで映される砂漠の映像が延々と流れていたので思わず見入る。風に吹かれる砂と靡く群生植物、そして押し流されていく雲のほかになんの変化もないまま映像は半日ほど続いたが、僕は一度も目を離さなかった。さらに半日、一日と時間だけが過ぎて、砂漠を映すカメラが突然横倒しになる。さすがに次の展開があるかと思われたが、撮影スタッフらしき男がカメラを立て直してまた延々と砂漠。

 三日目に入り、その映像に懐かしさを覚えはじめた僕は席を立った。悲しくなったのだ。こういう時は忘れてしまうほかない。忘れて、また思い出して浸る。そうすると自分が消えて、気分が楽になる。映画にはそんな効用がある。しかしそのためには時間を置くほかない、かなりの長い時間を……そこでふと思った。僕はあとどれくらい生きられる。長い時をかけて郷愁を熟成させ、この映画を観直してその感慨に耽る日はくるのだろうか。いや、難しいだろう。気づかないふりをしていたが、さきほどからずっと黒い影があたりを彷徨いている。買い物客に混じり、奴らはあきらかにこちらに意識を向けているのだ。僕たちを見つけると、奴らの爽やかな愛想笑いは、歩みのリズムは、習慣化された行動は一瞬崩れる。崖を構成する小石の群れのようなものである。一欠片の小石が崩れようがなんでもないが、無数の小さな崩れはやがて全体の崩壊を促し、雪崩となって僕たちを押し流す。ここは危険だ、斎藤にそう告げてショッピングモールを去ることにした。チョコバナナクレープを買ってふたりして辺鄙な場所を目指した。

 

 「でも、やっぱり男二人は退屈だよなあ」

 斎藤はボンネットのうえに寝そべって呟く。

 「ああ抱きたいよ、女なら誰だっていい。若くて、痩せてて、綺麗な優しい女なら誰だって」

 夜になって繁華街に向かい、中華料理屋で精をつけて裏路地のほうへ向かうと、通りの両側に女たちが立っていて、しきりにこちらに話しかけてくる。特に斎藤の余裕に惹かれる女が多いらしく、甘えた声を出して寄ってくるのだけど、

 「俺たちは二人で一人だ。だから3P以外はお断り」

 と斎藤に一蹴されると、僕のほうを一瞥してあからさまに嫌な顔をする。

 斎藤の意思は固い。ひとりで抱いてこいと促しても聞き入れず、何時間も通りから通りへと物色して回る。やがて朝になって、女たちが消えても散策は続き、腹が減った僕たちは寂れた喫茶店に入った。

 「ご注文はいかがいたしましょう」

 フィリピン人らしき女がカタコトで注文を取りに来たが、こちらを見ようともせず態度が悪い。斎藤がハンバーグ定食を、僕がモーニングセットを頼むとそそくさと去っていった。すぐに商品は運ばれてきたが、なぜか生姜焼き定食と海鮮丼セットだったので、僕たちはそれぞれどちらを食べるか喧嘩する羽目になった。新鮮だった海鮮丼のネタが乾きはじめたころ、ちらと壁に目をやるとアルバイト募集の張り紙があり、そのあまりの時給の安さを目にしてぼくは海鮮丼を斎藤に譲ろうとした。斎藤もなんだか気分が下がったようで僕に譲ろうとする。そうして互いに頑固に譲り合ううちに生姜焼き定食も海鮮丼も腐りはじめ、結局ひと口も口にしないまま別の商品を注文することになった。すると今度は親子丼とカツ丼のところが、フィリピン人が女をひとり机の上に置いていった。さすがに文句を言おうと立ち上がった斎藤だったが、カツ丼と親子丼はすぐに運ばれてきて、僕たちは女に陣取られた狭い机の片隅でやっと朝飯を食べることができた。女はずっと体育座りをして眠っていた。

 「それで、これからどうする?」

 飯を食べて腹の膨れた僕たちは眠ってしまっていた。そう深くも眠らないうちに女の声で起こされた。斎藤は女を見てから自分の脇の匂いを確認し、

 「名前は?」

 と聞いた。桜という名を聞いて、それは源氏名なのか訊ねると、どうやら本名らしい。女の格好から推測するに、どう見ても夜職の人間である。濃い化粧に青いドレス、首から下の色気とは無関係に少女のようなあっけらかんとした笑みがそのうえに乗っかっている。

 「なにそれ」

 僕は女の頬についている赤い斑点を指差して訊ねる。女は、なんでもないよ、とハンカチでその斑点を拭き取った。手がすこし震えているのが見て取れた。僕も斎藤もなんとなく状況を察知し、黙ってしまう。すると女は、ふてくされたような態度で、

 「殺しましたよ、殺しましたよーだ」

 と、煙草を吸いはじめた。

 「男の人とかお客さんが嫌いなんじゃないけど、なんかね、腹が立ったの。あいつ、私のこと前の奥さんみたいに扱ってね、こうしたら嬉しいだろうとか、ああしたらこういう反応するだろうとか勝手に妄想してそれをこっちに強要してくるの。嫌だからやめてって言うと、包丁を取り出してきて私に握らせて、あとは一息にダイブ。喉からぷしゃーって血が出て……ベトベトになっちゃった。私悪くないでしょう?」

 じゃあどうして逃げんだよ、と斎藤はすでに女が気に入りはじめたらしく気安く話しかける。

 「だって死んでほしいって思ったのは事実だから……いなくなればいい、こんな奴って。でも、それってちょっと酷かったって後悔してるんだ。もっと優しくしてあげれば、こんなことにはならなかった。あの時、ちゃんと美倉堂のたまごサンドイッチを食べてればこんなことにはならなかった」

 「それ美味しいの?」

 「うん、最高」

 「じゃあ食べに行こう」

 「行こー」

 

 黒い影が増えたのは女を連れているせいか。軒先でたまごサンドイッチを食べながらあたりを見回すと通りの隅や家屋の屋根に奴らはいて、こちらの様子を窺っている。さっさと襲えばいいのに、と腹立ちまぎれにサンドイッチを投げてやると、黒い影は両手で受け取ってむしゃむしゃと食べはじめる。

 「あ、もったいない!」

 桜はそう言って僕を怒ったが、自分のサンドイッチを半分にして食べさせてくれた。たしかに美味しかったが、親子丼を食べたあとなので腹がぱんぱんだった。

 

 映画で観た砂漠について桜に話すと、どうやら彼女も行ったことあるらしかったが、その土地がどこにあって、どうやって行けばいいのかはわからないという。

 「たしか直行のバスがあったはず」

 そんなあいまいな記憶を頼りにバス停で待つことになった。しかしなかなかバスは来ない。退屈した僕たちは他愛もない話をして過ごした。やがて話題は、自転車愛好家に及んだ。

 「あいつら、全員轢き殺すべきじゃない?」

 「どうして?」

 「だって、車道を堂々と、あんな速さで走るなんて迷惑以外のなんでもないでしょう? 家族のためにご飯を買いに行く主婦とか、通勤の人は別として、趣味でダサいピチピチの服を着てダサいヘルメット被って、全力で自転車漕いでるのよ? バカよバカ。見るたびに思うもん、車さん、さっさとあいつら殺っちゃって」

 「違法じゃないからなあ」

 「だから制裁が必要なの。私たちは生きてるんだから。そうでもしないといつまでも解決しない。そうじゃない?」

 「じゃあ今から殺りに行くか」

 「え」

 「もう鰐を殺しちまったんだ。サイクリストを数人殺そうがなんだ」

 「それもそうね」

 その日の午後は、サイクリスト虐殺ツアーを決行。斎藤は六人、桜は五十人、僕は三人のサイクリストを轢き殺し、夕方には車の前半分は大破、白かった車体は真っ赤っか。僕たちはスカッとした気分で酒を飲んで、バス停の隣にあるアパートと賃貸契約を結び川の字になって寝た。久しぶりに熟睡できた気がする。

 翌朝、近所の喫茶店でモーニングセットを食べ、二時間ほど他愛もない話をして過ごし、やっとのことでバス停に向かおうと店を出ると雪が降っていた。雪合戦をしながらバスの到着を待ったがやはり来ない。そもそも車一台も通らない。それで完全に身体が冷えてしまったので、ショッピングセンターでこたつを買って三人して一日部屋で過ごすことに。その日の夜ご飯は出前のピザ。

 

 カップ麺、ピザ、たまごサンドイッチにすき焼き。僕たちは奔放な食生活を好み、怠惰な性格のために運動らしい運動もしないままぶくぶく太っていき、後期高齢者と呼ばれる年齢に突入するころには三人揃って糖尿病になり、人工透析が必要になった。それでも食生活を変えず、いつまでもバスが来ることを疑うことはなかった。透析中には専用のスクリーンを病室に持ち込んで、無声映画を観て爆笑するので他の患者から邪険にされた。誰も僕たちが怖がっているのを理解してくれない。見えないのか、黒い影が。死は怖い。だから楽しまないといけないのだ。しかし延命を拒否するほどの勇気を手に入れるまでは長い時間を要した。透析すれば一日また一日と僕たちはいつまで生きていくことができたのだから。僕たちは一日中笑ってばかりいた。そのためか表情筋が鍛えられ、瞬時にあらゆる表情をつくれるようになった。あまりの騒々しさのために患者や看護士は家族や友人に迷惑な患者について話す。その噂は蜘蛛の巣のように全世界へネットワークし、やがてマルボンロ・コスタッツァというヨーロッパの映画監督の耳に入り、引退した監督の安穏とした生活に火花を灯す結果となった。僕たちが砂漠を探していると耳にすると、居ても立っても居られな口なったマルボンロ監督は、全財産をはたいて同行するスタッフを招集し飛行機で日本を目指した。彼は旅客機の窓からこれまで何度も見下ろしてきた島国を眺めながら、老年の朦朧とした頭にそこで過ごした思い出が去来するのを止められなかった。鬱蒼とした山々とそのあいだを縫うようにして流れる川。平地のほとんどないこの土地に荒野があるとほとんどの日本人が知らないという事実が、彼を悲しませた。何度も訪れたあの荒野での記憶も、そうした知名度の低さのためにほんとうは存在しなかったのではないかという気すらしてくる。

 僕たちは、背後にたくさんのスタッフを控えたマルボンロ監督があらわれた際、いつものように無声映画で笑い転げていたのでしばらく彼に気づかなかった。

 「殺されてほしい」

 何度か言われて、僕たちは相談しあった。まあいいでしょう、と了承し、その夜はすき焼きとたらば蟹をご馳走してもらった。

 マルボンロ監督は用意周到な人物である。それもそのはずで、今回の撮影はこれまで日本で撮影してきた『鮫侍』という作品のワンカットであり、ラストの場面以外は完結していた。物語は簡潔である。

 侍である主人公の鮫が、ある仕事でミスをしでかして、宗家から狙われている。彼は敵を迎え撃ち、最終的に宗家の主人を殺め、ひとり砂漠に去り、荒野の家で静かな余生を過ごす。ところがしばらくして刺客がやってくる。それが僕たち糖尿病トリオで、最新兵器を取り付けた車椅子で家ごと鮫侍を葬ろうとするが返り討ちにあう。

 以上が物語の大筋である。

 「これ以上の死に方はないな」

 斎藤は嬉しそうである。

 「あの監督の映画観たことあるんだけど、クソつまんなかった。最悪」

 と言いながらも桜はわくわくしている。

 僕はといえばもうどうでもよくって、偶然にも冷たい性格の役どころだったので、退屈そうな有りがちなサイコパスを演じてやろうと決めてしまい、ケータリングのハンバーガーを何個も食べていた。もうお腹いっぱい。死のうが生きようがどうでもいい。

 撮影の準備が整うと、僕たちは荒野のなかを車椅子で、カメラとともに進んでいくうち、蜃気楼に霞む一軒の家があらわれる。僕たちの顔がアップになる。斎藤はガムを噛みながら微笑み、桜は白目を剥いて小言を呟く。僕は冷たい表情で車椅子のスイッチを押す。すると三台の車椅子は変形し、斎藤のはまるで戦車に、桜のは戦闘機に、僕のはミサイルそのものになった。一斉掃射がはじまった。しかし、ものの数秒で発砲音はしなくなり、僕の首は胴体を離れて転がっていき、斎藤の身体は真っ二つに。鮫侍は〈女には優しく、だってヤレるかもしれないから〉のモットーを貫き、戦闘機だけを大破させ桜の生命を奪うことはしなかった。しかしよく見ると顔が好みではなかったし、かなり太っている。なにより僻み根性いっぱいの表情に腹が立ち、ステーキにして食べることにした。

 

 残念なことに本年度のカンナ映画祭においてマルボンロ監督の『鮫侍』が受賞することは叶わなかった。しかし日本だけでなく海外でも一般鑑賞者からの評価は頗る高く、世界各国で異例のロングラン上映を果たした。引退を決意していたマルボンロ監督は、配給会社からの熱烈なプッシュを受けて、続編の制作を決定。タイトルは『鮫侍2 アンノウン・ライフ』だというが、こちらは大コケ。マルボンロ監督はショックのために公開三日後に自殺した。

 僕と斎藤と桜の名は、今も『鮫侍』のエンドロールにはクレジットされていない。

 

 


 不意に鉛筆の芯が折れて、くるくると回転しながら弧を描いて床に落ちる。店主はコーヒーカップを拭きながらその軌跡を追ったが、俺の顔を一瞥したあと無愛想に俯いた。俺以外の唯一の客である斎藤は、コートを羽織りハットを目深に被ったまま、目の前のコーヒーには一口も口をつけようとはしない。

 思わず目の前の原稿用紙の束を、コーヒーで濡らして捨ててしまいたくなるが、なんとかこらえた。文房具屋までは徒歩で五分。早く決断しなければならない。心なしか、斎藤はすでに透明になりつつある。あとに残るのはコーヒーカップと、そこから立ち昇る湯気。それだけは避けねばならない、と自然と立ち上がる。机にはカバンと財布を店主がすぐに見つけられるように置いておく。

 予想通り十分ほどで店に戻ると、斎藤は先ほどと同じ体勢で座っており、いつまでも冷めないコーヒーの湯気を眺めている。店主も同じコーヒーカップを吹き続けている。満を持して続きを書こうとすると、どうしてか一行も思い浮かばない。

 殺し屋の斎藤は、依頼人との面会のためにカフェ〈コブ〉にやってきた。俺はそこまで書いていた。依頼人がどんな服装をしていて、どのようなバックグラウンドをもっているのか、そのことについては一切わからなかった。斎藤についても同様である。店主については、もはや風景の一部と見做し、考える必要すらないと考えていた。鉛筆の芯が折れた時、物語はすでに止まってしまった。俺の空想はそこで途切れ、接続点を失ったまま宙に投げ出され、物語の断面だけがこうして目の前で時間を失ったまま存在している。問題は書き続けるか否かという点にある。

 俺には続きを書く必然性もなければ、自分に対して訴求できるような真っ当な理由も持ち合わせていない。俺はタクシーの運転手なのである。小説家ではない。だからここにいることすら不似合いなのである。ほんとうの俺は、仕事以外の時間はいつも部屋に引きこもっているし、まさか小説を書こうなんて思いもしない。ゲームとかパソコンで暇を潰し、たまにオナニーをして、それで疲れて寝てしまう。そんな人間がまともな外出用の洋服を持っているはずもなく、現に今俺が着ているスウェットは毛玉まみれでヨレヨレである。ちなみに色は緑。

 いますぐここを立ち去って、小説のことなど忘れて自分の家へ戻るべきなのだ。しかしここの店主同様、俺は俺の過去までも忘れてしまったらしい。過去がなければ未来を推測することもできず、これまでは自然とできていた焦点を合わせることすら覚束ない。今という瞬間だけを繰り返す、あわれな自動人形。

 こうした書きぶりから、読者はおそらく俺を〈神経質で妄想気質な馬鹿〉と決めつけるだろう。しかし断っておくが、俺はむしろ杜撰な現実主義者なのである。部屋は散らかっているし、仕事の納期も平気で破り、かといってそうした自身の社会不適合ぶりを非難するわけでもなく、七十億人という世界人口のうちに俺のような人間がひとりいたところでなんの問題もないと割り切っている。抵抗はしない、愚痴も吐かない。馬鹿なのは事実かもしれないが……。

 ではなぜ物語の続きを追おうと必死になっているのか。それは慣習の成せるわざだろう。人間はいつでも過去から未来を推測し、その中間点となる現在の意味づけによって世界を縮小し、それを現実と呼んでいる。手応えのある現実がその人物を特定の役割、あるいは劇中の人物に仕立て上げ、ありきたりな運動を促す。過去に男から擦り寄られ過ぎた美人は男を疎み、そのくせ理想の男を思い浮かべて、それを手に入れられない現在という地点を無意識に守る。小児性愛者はかつて恋した少女を理想とし、それを結局は手に入れられないという未来を空想し、現在という時間のなかでポルノで取り急ぎの満足を追い求める。そんな簡単な話ではないのかもしれないが、俺が言いたいのは、物語にはそうした性質があり、俺自身そんなものを書きたいと長年願ってきたが、過去も未来も失った今はこうして弁解めいた言葉を書くほかないということである。

 元来、過去から未来への伝承という性質が言語のもつ役割だということは周知の事実だが、ここにきてその前提は破綻し、俺が描けるものは空気人形の斎藤と店主のみである。しかし彼らは停止しているわけではない。今に動く、そんな確信が俺にはあって、こうして鉛筆を握りしめているのである。新たな時間を手に入れるためには、過去の遺物を忘れ去り、時間そのものに身体を浸す努力をせねばならない。待つしかない、今は。

  

 二時間以上、店主と斎藤、それにぼやけた窓の外を行き交う人びとの影を眺め続けた結果、彼らは美しいと言いたくなるほどの反復のなかにあって自足していることを知ることになった。人間だけではない。キッチンの上にぶら下げられているグラスたちは窓から差す陽光をちらちらと反射させ、外で車が一定の周期で過ぎていくのにあわせて微かに揺れる。店内の西側の電灯は切れかけているのか点滅していたが、あたかも誰かがモールス信号を送ろうとしているかのように一定のリズムで点いたり消えたりする。底のほうで微かに流れているラジオは、首相暗殺についての報知を延々と繰り返し、聴き続けるうちにそこで伝えられる言葉は次第に耳が受け付けなくなり、音楽同然になる。しかしまだ見逃しているものがある。そんな確信があり、俺はあたりを見回す。すると、もうひとりの客がいることに気づく。店の奥まった場所、点滅する電灯の下に、その女はいた。身体のラインのはっきり浮かぶワンピースを着て、剥き出しのうなじには汗粒が浮いている。こちらに背を向けているため顔を見ることはできず、手元で何をしているかも見て取れない。俺は関心を抑えられず立ち上がったのだが、今ではそれを後悔している。しかしその後悔にはどこか甘美なにおいも残っているのだった。故郷でしか咲かない花の、あるいはなんの気無しに泊まることになったホテルで過ごした無為の時間の記憶、そんな意味のない、忘れられない時間に似た。

 女の身体の前半分は、影になっていた。薄暗いという程度ではなく、完全な暗黒だった。そのため女の顔も、乳房のサイズも、ワンピースのデザインも視認することはできなかった。俺はあらためて時間が停止していることに気づき、反復さえ成し得ずにこんな寂れた喫茶店に置き去りにされた女を哀れに思った。誰がこの女を顧みるだろうか。過去も未来もなく、顔もなければ満足な身体ももたない女を。同時にこんな女を創り出したのは自分だと知って背筋が冷たくなる。せめて彼女自身の言葉を聴きたい、それが願いであれば叶えてやりたい、そんな罪悪感が芽生えて努めて耳を傾けるうち影のなかから一言。

 「ヘアピン、どこかしら」

 俺は店内を隅から隅まで探してみたが、それらしいものは見つからなかった。女の住む家がわかるわけもなく途方に暮れて女の前の対面に座り、コーヒーの滲んだ原稿用紙を睨んだ。本当は書きたくない。だけど書かねばならない。店内に鉛筆が削れるがりがりという音が響いたが、三人とも何も気づかず反復している。

 

 「ヘアピン、どこかしら」

 女は呟いて、自然と額のあたりに手をやるが、お目当てのものの手応えはなく、何度となく繰り返してきた台詞をもう一度繰り返そうとした。だが不意に目に入って来た張り紙が、彼女の習慣を堰き止めた。

 〈便利屋。死体処理からお部屋掃除まで何でもござれ。※レンタル彼氏を除く〉

 彼女はスマホを取り出して、すぐさま電話をかける。女性の受付員が電話に出て、要望を聞くこともなくすぐに作業員を派遣する旨を伝えると一方的に電話が切られた。

 「ヘアピン、どこかしら」

 そう言い終えるころには、目の前にアロハシャツを着たサングラスの男が座っており、机に置いたアタッシュケースを開けようとしていた。

 「探してみてよ」

 大きめのケースのなかはヘアピンで満たされており、開くなりパラパラと床に落ちたが男は気にもせずコーヒーを啜りタバコを吸った。女はヘアピンをひとつひとつ取り出しては机に並べて食い入るように見入っていたが、ついに煙に我慢ならなくて男の口からタバコを奪い取ると灰皿で消した。

 「いいねえ」

 男は笑って二本目に火をつけた。女はあきらめてヘアピンを並べ続ける。ひとつの卓では足りないために、女はそばに置かれていたふたつの卓も運ぼうとした。もたもたしているのに嫌気がさしたのか、男は女を押し除けて自分で運んでやった。

 「どうだ、あるか」

 かれこれ一時間近くヘアピンと睨めっこしていた女だったが、一向に見つかる様子はなく、それでも飽きることなく食い入るように机の上を眺めているのが男には興味深かった。

 「あった!」

 女はヘアピンのひとつを取り上げて掲げてみせた。

 「おお!」

 男も喜ぶ。

 「あれ、でも、ちょっと待って……ちがう、これじゃない」

 女はヘアピンを男に投げつける。男は手にとってそれを眺めてみる。緑の地に体躯の短い鰐のキャラクターがピースサインをして笑っていた。

 「ちがう、こうなの、私の持ってたのは」

 女は親指を立てて、下に向けた。

 「それに女の子なの。これは男の子でしょ? 赤いリボンをつけた少女鰐。友達だったの」

 

 男の車でリサイクルショップから玩具店、フリーマーケットまでくまなく探し回ったがお目当ての商品は見つからず、最終的にインターネットで〈ヘアピン 鰐 サムズダウン〉と調べた結果、似た商品がオークションで見つかったが女はこれじゃないと言って聞かない。

 女は男の運転するオープンカーに乗り風に吹かれながら、かつての友人である鰐子のことを思い出そうとしていた。それをくれた母親についても。しかし具体的な出来事を思い出すことがどうしても出来ず、ただ〈友達の鰐子の刺繍の入ったヘアピンをくれた母〉という言葉だけが浮かび、さらに考えていくうちにサムズダウンポーズをした鰐のヘアピンなどは見たこともないことに気づいた。いや、あの喫茶店にいる時点ですでに気づいていた。自分ははじめからあの席に座っていて、これからもずっと〈ヘアピン、どこかしら〉と呟くことになると。それが自分の使命であり、役割であった。あの張り紙のせいだ。便利屋なんて言葉が目に入ったせいで、ありもしない過去を捏造して、ヘアピンを探していると自分に思い込ませた。そうでないと身動きできなかかった。となると、私は動きたかった? 鰐はなんの象徴? そんな疑問が湧いてきたが、きっとどこかの本で読んだ物語を引用したに過ぎない、と忘れることにした。

 「で、どうする?」

 「走り続けて」

 「どこまで?」

 「行けるところまで」

 「いいねえ」

 女は乗り気な男をじっと見つめ、彼は今どのような気持ちなのだろうと考えた。私は一銭も払っていないし、不毛な冒険に付き合う義務は彼にはない。仮にヘアピンを見つけられてもただそれだけで、最悪の場合にはそれすら見つからずふたりして行き倒れるかもしれない。そんなこと、彼が望んでいるはずがない。

 「いいじゃねえか、走るだけで」

 臭い、舌足らずな台詞が女の心の琴線に触れかかる。

 「お前は何かを探してる。見つかるかどうかもわからない。でも、探している以上は走るほかない。それだけだ」

 「家族はいないの?」

 「昨日まではな」

 「離婚したの?」

 「いや、ちがう。妻と子供は今もあの家で平和に暮らしてる。もしかすると父親が帰ってこないのを不安がってるかもしれない」

 「じょあ帰らないと」

 「嫌だね、今のほうが楽しい」

 「責任は感じないの?」

 「それは俺が背負うもんじゃない」

 女は、ずいぶん身勝手な男だと感じつつも、こんな父親であればどれほど楽しかったか、と彼の子供たちを羨んだ。こんなに生き生きしている人間は見たことがなかった。まるで女みたいな男だ。

 

 まず高速道路が尽き、一般道の果てまでやってくると、砂地の続く平野があらわれた。砂埃を巻き上げながら延々と続く荒野を進んだが、いつまで経っても視界の果てには蜃気楼があるばかりで目標とすべきものは見えない。

 

 その夜、ふたりが後部座席で寄り添って寝ていると、暗夜に瞬く星々が、あまりに密集して光るので、ほとんど空全体が光っているのかのように見え、その明るさのためになかなか眠りにつけないでいた。彼らの頭の片隅にはなるほど現実的な事柄がないではなかった。残り少ないガソリン、すでに限界を迎えてぺしゃんこになったタイヤ、喉の渇きなど。しかし飢えを感じることはなく、その奇妙な身体の具合を自分たちでも理解できず、また理解しようともしなかった。なぜならふたりにはあの喫茶店にいた斎藤や店主とちがって、今や死を手に入れたからである。

 男は退屈な家庭生活と仕事について、これまで出会った誰よりも打ち解けて話した。女も自分の知る限りの過去を話した。話せば話すほどに他人事になっていくような気がして、自分が何者かわからなくなると同時に、誰でもなくて許されるような気がして、自然と相手の体温を気遣う。しかし体温など気にしてどうなる、とも思う。

 

 殺してあげたい。

 

 ふたりはほとんど同時にそう考えたが行動には移さず、ただ黙って、それきり言葉を交わすことはなかった。

 

 鈍い音がして車が減速しだす。車輪はすべて外れてコロコロと荒野を転がっていった。ふたりは地べたに這うようにして大破した車を降りた。車体はところどころが錆び、窓ガラスは割れて、まるで数世紀前のものの骨董品のような面持ちで寝静まっている。

 「どこだろう?」

 女は呟いてあたりを見回す。小石と砂のほかにはなにもない平坦な、渇ききった荒野を風が音を立てて流れていく。

 「あ」

 一軒の家屋を見つけた女の足は自然とそちらに傾いて、男もついて行く。

 巨大な弾痕の穿たれた家屋には人はおらず、砂と錆に侵食された家具類だけが沈黙のなかに閉じこもっている。その荒廃した景色のうちに一点、はっきりと赤と緑が見えた気がして床を見下ろすと、ヘアピンがあった。サムズダウンポーズの鰐のヘアピン。女が探していたものだった。

 その日から男はソファに、女はベットに腰を落として、動かなくなった。女はいつまでもヘアピンを眺め、男はなにをするでもなく延々とタバコを吸っている。腹も減らず、喉も渇かない。日は暮れもしなければ昇りもしない。暑くも寒くもない。そんなふたりは、ある瞬間に、自分たちが老いの境に入ったことに気づき、互いの白くなった髪と皺だらけになった皮膚を見やり、今や意思の有無に関わりなくここから動けないのだと知る。互いに対する殺してあげたいという気持ちはもはや実行に移すこともできない。

 「俺たちはもうなにもできない」

 男は珍しく悲観的な物言いをする。女はそれを可愛いと思ってくすりと笑う。

 「私たちが何もしなくも、あちらから干渉されることになるから心配ないわ」

 「あちら?」

 「外」

 「たとえばほら、あそこを見て」

 男が弾痕越しに荒野を眺めると、三体の骨が腕を組んで踊っていて、遠いながらずんずんとダンスミュージックが聞こえてくる。

 「楽しそうでしょう。そのうち私たちを誘いに来るはず」

 「骨と踊るなんて勘弁だ」

 「でもほら」

 女を見やると、掲げた腕はすでに骨になっていて、男は思わず自分の身体を見下ろと、陰茎の消え去った恥骨があった。そのほかの部分もすべて剥き出しの骨になっていた。呼吸もしていないことを知る。あれほどこだわっていた過去のことが思い出せず、それに伴って先ほどまでの不安が消えていく。女の頭蓋骨を見やり、ただひとつの後悔が湧き上がってくる。あの可愛い顔をちゃんと見ておけばよかった。しかしそんな淡い思いも長持ちせず、互いに同じ顔となった女に対して以前のような情欲を感じずにいる自分にむしろ安心し、はじめて深くソファにもたれかかる。すると、自分の身体が、ここから去った自分の肉体の肌に何かが触れる感じがして、どういうことかと目を瞑って神経を集中すると、どうやら母親に抱かれているらしい赤ん坊の体感であるらしいことがわかってきた。渋滞の高速道路で苛立つ男の吸うメンソールの煙草のにおい、はじめてのセックスに戸惑う女の恐れと喜びの入り混じった混濁した思い、引きこもりの子を持つ親の頭にちらちらと過ぎる殺意などの感覚が、他人とは思えぬ親しさをもって、かといって男の気分と溶け合うでもなく流入し、飛び込めと呟いても彼らが決死の一歩を踏み出すことはない。そうしてやっと自分が死んだことに気づくと、感覚はさらに拡散し、いつしか自分がここにいるという感覚も薄れて、骨となった身体はカラカラと音を立てて床に崩れ落ちる。

 

 俺はそこまで書き終えるとペンを置いた。椅子に座ったまま弾痕に穿たれた家屋を見やると、一塊りの小山となったふたりの骨が床にある。編集者に電話するとものの数分で駆け込んできた。彼は熱中するでもなく、かといって興味がないことは上手く隠して読み終わると、

 「おもしろいですね」

 と原稿を鞄にしまった。

 「作家生活五十年にふさわしい作品ですよ、これは」

 「気を遣わなくていい」

 「いやいや、そんなこと」

 「どう思った」

 「含蓄のある物語だと……しかしわからないのが、この小説にどんな意味があるかということです。僕の読解力がないのは明らかですが、出来ればその点を先生に教えていただきたい」

 「意味」

 「そう、意味です」

 「見えないのか、あの骨が」

 編集者は俺の指差す先を見て、しばらく黙り込んでいたが、やがて首を振って、

 「先生、大切なのは小説です」

 と俺のほうへ椅子ごとすり寄った。

 「たとえこの小説が先生の実体験に基づいたドキュメンタリーだったとしても、読み手には虚構に過ぎない」

 「君には見えないのか、あの骨が」

 「見えません。先生、病院にはちゃんと通われてますか?」

 「よく見てみるんだ」

 「いや……見えませんよ」

 「君はそんなものを出版するつもりなのか? ここに書いてあることが信じられないのに、何のために誰が読む必要がある?」

 「先生、僕はただの編集者です。それに先生には余りあるほどの権威があります。これまで受賞された文学賞の数を覚えていますか? 三十はくだらないですよ。僕には計画がありましてね、この作品の表紙にはその賞の名前をずらりと明朝体で書いてやろうと思っています。読者は怖気付き、先生の権威に嫌悪を感じながらも本を手に取らざるを得ない。ここにある物語を信じられるか、そのことは問題ではありません。先生の業績が、やがてここに書かれている文字を現実にしていくのです。果てには預言的だとか、先見性があるとか言われて、過去の本にも重版がかかる。そうすれば本は売れる」

 「君には俺が生きているように見えるのか」

 「ええ、まだまだ現役ですよ」

 俺は自分の身体を見回してみる。骨だけなった身体を。

 「だから先生、次はSFモノにしましょう! 流行ってるんですよ、百万部も夢じゃ……」

 発砲音がして、編集者の身体が床に倒れる。硝煙のむこうからかすかに斎藤の面影を残す骸骨が、拳銃を持って立っている。

 「十万貸してくれ」

 「十万?」

 「あとは、俺にもちゃんと結末を用意すること。都合よく使ったんだから、それがあんたの仕事やろ」

 「はあ……」

 「とりあえず、コンビニや」

 どうせ骨になってしまったのだから、と百万下ろして斎藤に手渡したが感謝の言葉ひとつ漏らさない。斎藤はハンバーグ弁当とピザまんを買って美味い美味いと呟きながら付着した砂埃がじゃりじゃりと音を立てるのも気にせず口に運んだ。食べ終えるとゴミをその辺に投げ捨てて、風に吹かれて荒野に散っていく空の容器やビニール袋を愉快そうに眺めている。それから買い忘れていた二リットルの烏龍茶を買いに戻り、ついでに煙草をワンカートン買ってくると、もらった残金をビニール袋に入れてじゃらじゃらさせている。

 「どうすんの、それで」

 不意に話しかけられて、ドキッとする。

 「お前が書かんと何も進まへんで」

 「ああ……」

 「ああ、やないやろ。なんでもええから書けや」

 「なんでもいいのか」

 「ハッピーエンドでもバッドエンドでもなんでもええ。とにかく終わらせてくれや。もう退屈なんや。それに俺は人形や、あんたを信じてる」

 「どうして信じられる?」

 「あんたは三流作家や、それは俺が一番わかってる。けどな、三流ってのは侮れへんもんやで。一流では高尚すぎて理解できへんし、二流はなんかいけすかへん。三流は意味もなければ思想もないやろ、それが楽しいんや。あんたのこれまでの名声も三流やから手に入れられたようなもんや。俺は好きや、そのままでかまわへんと思ってる」

 「じゃあ、たとえばここに突然馬車が来て……」

 「ええやないか」

 「俺たちを乗せて風俗街に連れて行く」

 「おもしろいわ」

 「そこで俺たちは戦争に巻き込まれて……」

 「その調子や」

 俺は忘れないようにと原稿用紙を砂の上に置き、書きはじめる。筆が乗る。そうこうするうちに荒野の果てからゴトゴトと音を立てて馬車がやってくる。青い林檎の形をした屋形のうえにニュートンの顔が乗っかっている。御者の鰐は人間の下半身らしいものを食いながらビールを飲んでいる。やがて減速すると、屋形の扉が自動的に開き、俺たちは飛び乗った。馬車が動き出し、バックミラーのなかで荒野が遠のいていく。ここにはまた還ってくることになる。そんな確信が芽生え、不安になりかけた。不意に目の前に煙草の箱が差し出される。

 「あんたも吸えば」

 勢いに任せて三本抜き取って火を点ける。めちゃくちゃ美味かった。吸い終わると窓から投げ捨てた。どうしようもなく気分が良く、

 「もう一本くれ」

 と言うと、斎藤ははじめて笑顔を見せた。

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