第三回 昔 オオカミ少年"Oh! Coming a quietter !"

 吸った息がうまく吐けなかった。怪我の箇所が多すぎる。このままブーツを脱いでいいのかわからないくらいに、噛み跡と血でかかとから足首にかけてがドス黒い。


 赤子と、いや、赤子だったものとその母の死体が転がっているすぐ横のベッドで、ネクは呻きながら、引き裂いたシーツを自分の足首に固く巻き付けた。まだ生活の、せいのニオイが、カーテンの揺れる窓辺からうら暖かい昼空へと立ちのぼろうとしているようだった。それを、真っ黒な死が、血の香りが追いかけて、地べたへと引き摺り下し、わらっている。眼をいて横たわるオオカミの生も、いや死も、混じっているのだろうか。


 鼻をひくつかせてネクは立ち上がった。壁に寄りかかり、おびただしい身体の傷と腰回りにある武器を確かめ、矢筒を背負い直す。喉が鳴り、速くなる鼓動に筋肉が脈打つ。痛みと疲労で視界が歪む。


「オオカミが来たぞ」




 "Oh! Coming a quietter !"




 誰も信じてくれなかった。本当のことだ。ネクは嘘を吐いたことがない。いや、一度だけ、大怪我をしたときに「大丈夫」と言ったことがある。その後、生死の境を彷徨さまようくらいに高熱が出たりはしたが、結局はなんとかなった。嘘というより見積もりが甘かっただけだ。


 ネクのことを誰も信じないのは、ネク本人ではなく父親のシグルドのせいだった。シグルドはやれうちの子はオオカミに育てられただの、この子は不死身なんだだのと吹聴しては笑われていた。ただ、本人だけは笑っていなかった。その、一見生真面目にもみえる朴訥ぼくとつに、皆は一層、笑うのだった。


 嘘ツキというよりも、狂人に近いと思われていたフシがある。だから笑って反応を見ていたのかも知れない。小さなネクの頭に大きな掌をのせ、立ち去る父を、いつもネクはフシギそうな顔で見上げ、止んでいく笑いを背に、村外れへと帰った。


「オオカミが来たぞ」


 ネクが村中を駆け回り、大声でそう吠え続けた日、シグルドは死んだ。二人の家と村とをつなぐ橋の架かる谷へオオカミと共に落ちた。と、ネクは言ったが、村人は誰も信じなかった。その日も皆は笑っていた。村に居づらくなり、子を残して出奔したのだと噂された。ネクはフシギそうな顔で、笑う村人を見つめ、同じ顔のまま、村へと迫っていたオオカミの死体を片づけた。父の仕掛けた罠の場所や仕組みを確認しながら、一頭ずつ、一頭ずつ。


 ネクにとって、父は村をオオカミから護った英雄だった。そのことを話せば話すほど皆は笑い、ネクの言うことも信じなくなっていった。


「オオカミが来るぞ」


 それは今日も同じだった。村中をネクとその吠え声が駆け抜けても、村人は笑うのみだった。戦いのためにまとったオオカミの皮が、より大きな笑いを誘う。時間がなかった。ネクは家へと舞い戻り、森を駆け抜け、父の遺した罠を使い、武器を使い、傷つきながらも、一頭、また一頭とオオカミを屠っていく。


 だが独りで戦うにはオオカミの群れは多すぎた。せめてあの段階で村人が逃げ出してくれていたなら罠の数を増やせたかも知れない。男衆が武器をとってくれていたなら相対する数を絞れたかも知れない。ただ、後ろを振り返ることはできない。村へと退がりつつも、襲い来るオオカミを迎え撃つ。


 村人の阿鼻叫喚が耳をつんざき、その死体と、増えつづける傷が目の前をくらくする。逃げ惑う人々は、まるで笑っているように見えた。同じようなものなのかも知れない。


 狂乱と朦朧の渦だった。それに呑まれた男がオオカミの皮をかぶって戦うネクに石を投げる。気をとられた瞬間、オオカミに足をやられた。もんどりうって倒れながら、横様から頭にナイフを捻じ込み、もう一方の足で顎を砕く。


 オオカミはまず足を噛む。動けなくして首の後ろからとどめを刺しに来るんだ。何度となく聴いた父の声が蘇る。それ用に皮を厚く施したブーツが朱に染まっていた。そうでなければ石を投げた男のように、足を食いちぎられていただろう。男の足ごと頭を矢に射貫かれたオオカミにもう一矢を放ち、近くの家へと文字通り転がり込んだ。


 そこにもオオカミがうずくまっていた。女が倒れている。玄関にあった薪割り用の手斧ハチェットをこちらに向けた口に投げつけ、眉間に矢を突き立てた。牙から滴る血が、オオカミのものか女のものか、それとも抱かれていた赤子のものなのかは判別がつかない。ネクはベッドへと倒れ込む。傷を確認している暇はない。


 ブーツに仕込んであったナイフでシーツを裂き、足首を縛る。すぐに赤黒く染まり、目の前も同じ色に陰る。血のニオイが鼻をつく。カラカラだったはずの口からヨダレが垂れる。


 鼻をひくつかせて立ち上がったネクは、壁に寄りかかり、夥しい身体の傷と腰回りにある武器を確かめ、矢筒を背負い直した。矢は残り二本。オオカミの眉間から引き抜いてはみたが、やじりが折れていて使い物にならなかった。


 頭痛がする。喉が鳴る。速くなる鼓動に筋肉が脈打つ。弓から腕を護るともに細工をした特性の籠手こてもオオカミの牙にむしられていた。弓弦の跡が内腕に描く細く赤い月。


 疲労と痛みで世界が歪む。視界が沸騰し、耳鳴りと共に融解していく。


「オオカミが来たぞ」


 無意識に口がそう動いていた。喉が唸る。心音が痛いほど強くなり、脈立つ筋肉が膨張した。握っていた弓が音を立ててひしゃげる。


 よろめきながらネクは頭を掻き毟った。そこが自分の頭なのかかぶったオオカミの頭なのかもう判別がつかない。弓弦が打った跡はもうなかった。ないどころかそこに


 ズタボロになった返り血まみれのオオカミの皮の下、そこに。昼中天の太陽を月が蝕むように、ゆっくりと、もう一頭のオオカミが、あらわれた。


 満月から削りとったかのような、異形のかお。双眸は今日彼が見たどの血よりも赤く、その焦点は虚空を漂っていた。黒い息を吐く口から覗く牙は、氷柱のような獰猛さとつめたさを湛えてぬめと光る。


 胸当てが弾け飛ぶ。矢筒の紐が筋肉を裂きそうに喰い込んでいる。しかしその痛みは全くない。腕だけではなく、厚い胸板もぎっしりと毛に包まれていた。


 足首の傷が衣擦れのような音を立てて塞がっていく。既にブーツは爪先から破れ、正に爪の先が小さな家の床に墓標のように突き立っている。


 オオカミが来たのだ。


 やはりネクは嘘を吐いてなどいなかった。ライカンスローピィ。オオカミに喰われ、オオカミを喰い、人に喰われ、人を喰った"獣"が発症するといわれるそれは、神々の呪いか、悪魔の祝福か、はたまた。


 彼は実にオオカミに育てられたのである。重篤な傷や大病に伏せるとその姿が変容する。破壊の限りを尽くす、人でもなく獣でもない、なにか。


 村は、滅壊めっかいした。


 生きている村人も、オオカミも境なく、その爪と牙に裂かれ、喰われ、踏みつけられた。縦横無尽に蹂躙され、灰塵と化していった。


 ネクにつけられた抵抗の痕は、月が昇り太陽が沈むような速度で消えていく。不死身なのか? 目の前の怪物がネクだと判っていたなら、武器をふるった村人たちも死ぬ前に後悔しただろうか。


 虚偽や不信に苛まれるのは、いつも猜疑心に呑まれた方だ。自分のなかで畏怖や もしも を膨張させ、その影を相手に塗りつける。オオカミは、オオカミだから人を襲うのか? 信じられぬと嘆き・笑うのは、勇気と意志の無さが故。そのあぎとに腕を差し入れ、隣人を愛すと言えるか否か。


 ネクは目を覚ました。夢を見ていたのだと思った。足を縛るために飛び込んだはずのベッド。そのまま意識を失ったのだったか。


 首を巡らせる。父がいた。"隻腕の"シグルド。昔、オオカミに腕を喰われたのだという。ネクはその話を聴いたとき、そうなんだ、と驚いた。シグルドはネクの実の父ではなかった。村の噂でそれを知り、そうなんだ、とネクはとても残念に思った。


 でも彼にとって父はシグルドしかいない。彼が自分を我が子だと言うのだから。それが幸せだった。それが彼にとっての真実だった。


 その父が、いつもネクの頭にのせる大きな手で、赤子を抱いている。赤子がくしゃみをした。ネクもくしゃみをした。肌寒い。裸だった。怪我はどこにもなかった。


 獣人と化した後、傷は治り続ける。完全に回復に至ると、人であったり獣であったり、元の姿(発症前の、というわけではないようだ)に戻る。


 つまり、ライカンスロープは"傷つけてはならない"のだ。


 どれくらいの時が経ったか判然としない。風が黄昏のあしおとを運んできた。ゆれていたカーテンはそこになかった。窓枠も破壊されている。


 ネクの見積もりはまた甘かったようだ。父は谷から落ちて死んだわけではなかったのだ。赤子も、あの時点では母親に護られていたのだろう。


 赤子が父の手の中で静かな寝息を立てていた。父は息をしていなかった。ネクはくしゃみをした。吸った息がうまく吐けなかった。






 終






 オトギバナシ ノ ショートショート"今昔ortギバナsh"は昔 と 今 それぞれつづっております。


 オオカミ少年の 今 は 準備中 。少々お待ち下さい。





 狼少年のお話は嘘つきのこどもが食べられ(?)るだけ、のものと、信じなかった(信じることを放棄してしまった)村人も殲滅されるバージョンとがあるみたいです。


 私は後者の認識でして、小中高と学校で鳴り響く火災報知器の音が全部イタズラだったため、大学のときにマンションから火の手があがった際も唸り狂う非常ベルに「うるせえな」と思ってしまったクチです。結局、通報したのは私自身でした。だから(だから?)悪いのは嘘をついた少年じゃなくって、その嘘と誠を見抜けなかった村人だというお話にしか思えなくなってきたのです。


 タイトルは quieter と quitter をモジった造語です。オーカミガキター! と昔、島田紳助さんと土建屋よしゆきさんがやってた番組(か、関西だけかも知らん…)の読み方をしてください。


 モチーフは北欧、ギリシャの神話や、ヴォルスンガ・サガから、狼の皮をかぶる狂戦士バーサーカーウールヴヘジンにテュールとフェンリル狼、不死フシについてはアキレスとシグルズ、あたりでしょうか。


 ネク(neK)がオオカミに変形へんぎょうするシーンは「うしおととら」の藤田和日郎先生の墨で描く原稿のイメージでした。もちろん、獣人化症ライカンスローピィの設定は創作でございますので。狼男の発祥も、実際はそういう感じなんでしょうかね。

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