1000人と付き合った女。
つばきとよたろう
第1話 名前を教えてください
「名前を教えてください?」
鈴原冬花が、初めての人に話し掛ける時の呪文だった。とても良い聞き方だと思う。そう聞かれた人は、困った質問を考える必要がなく、迷わず自分の名前を答えるからだ。名前がその人にとって、どれほど重要なものかはわざわざ言う必要はないだろう。名前が問われるのは、新年度や新学期や初対面の自己紹介だったり、例えばテレビのニュース番組やドラマ番組の最初の部分だったり限られた時だ。
でも行き成り初対面の人に話し掛ける時に、何と話し掛ければいいだろう。切っ掛けさえあれば、交友関係は広がる。そんな時、鈴原冬花は呪文を唱える。相手が名乗ると、自然の流れで彼女も「鈴原冬花です」と名乗る。その後、彼女は焦らない。それで会話が途切れてもいい。また会えばいいだけだ。その時は会話が容易になる。なになにさんと相手の名前を呼んであげる。そうすれば、相手は警戒心を解いて応対してくれる。それから例えば、自分の困っていることを打ち明けてみるといい。
「膝が痛くて」
「私、花粉症なんです」
そうすれば、相手は自然と心配してくれる。心配しなくても、大変だねくらいは言ってくれるはずだ。
「ぼくも花粉症なんだ」
「学生時代に腰をやってしまってね。雨の日には傷むんだ」
そんな事を言って、話に乗ってくれる人もいる。
正直に言うと、取って置きの呪文は彼女が考えたことではなかった。あれは中学校の時におしゃべり好きな彼氏が、引っ込み思案だった彼女に教えてくれたことだった。勿論、彼の名前は今もはっきりと覚えている。
「東に雲と書いて、しののめと読むんだ」
彼は、誕生日ケーキのロウソクを吹き消す時みたいに面白そうに笑った。小犬のようなくしゅっとした顔だった。もっとも二月二十五日の彼の誕生日を祝ったことはなかった。こんな簡単な漢字の組み合わせなのに、読み方はちょっと難しい。彼女にはちょっと思い付かなかった。今も時々彼のことを思い返す。いい思い出もあったし、嫌な思い出もあった。彼女が泣きじゃくるくらいの喧嘩もした。でも彼の言ったことを今も続けていることを考えると、十二月の街を彩るイルミネーションほどに素敵な彼だったと思っていた。彼は眩しいほどに輝いていた。そんな人、学校中を探しても数人しかいない。
鈴原冬花は単調な仕事に追われながら、昼の休憩に持参したポットのコーヒーをすすっていながら、彼のことをふと思い出した。どうして、今更思い出したのか。こんな蟻地獄みたいな仕事に囚われていたからかも知れないと思った。
鈴原冬花は、コミカルなカンガルーのCМが印象的な大手の保険会社に派遣社員として、不本意ながらも不平も言わず、二年働いていた。二年という月日を石の上に座るように勤めていれば、手間の掛かる業務にも慣れていたし、社員からの待遇も
童顔の愛くるしい顔貌で、学校の机と椅子みたいに小柄な背丈にしては、羨望の眼差しを受けるほど美しく発達した体躯であった。が、職場では彼女の魅力的なところは極力隠していた。それを偽る黒縁の伊達眼鏡を掛け、彼氏など無縁と出来るだけ地味な格好をしていた。職場の正社員には、コンタクトレンズに変えてみればと、愚痴っぽく言われている。それでも二三人の懇意な同僚くらいは、それも昼食を食べる、類は友を呼ぶ的な派遣社員同士の関係で、正社員とは一線を画されていた。
「昨日何食べた?」
派遣社員同期の田中涼子が、昼の休憩時間に弁当を広げた。
「タイ料理かな」
鈴原冬花もデニムの布袋から大量のおにぎりやカップ麺、スナックサンドのタマゴなど大量の食べ物を取り出した。
「昼は酷いけど、夜はグルメだね」
田中涼子が甘ったるい声で微笑んだ。
「そうかな。私大食だから」
鈴原冬花は、朝はいつも冬の草原色にコンロとトースターで四枚同時にこんがり焼いたトースト二斤に、艶の良い透き通った白身の膜を纏った黄身のハムエッグで済ませている。それは浮気することなく決まっていた。こう言う時の鈴原冬花は頑なだった。昼は大量のお握りと菓子パンとカップラーメンで貪欲なまでの空腹を満たしたが、夜はデートだから豪勢な食事が多い。イタリア料理、フランス料理、和食ですらどこかの料亭だった。
今の彼氏とは、三年続いている。今のところ別れる予定はない。鈴原冬花は、これまでに1000人の男と付き合ってきた。ズルをしたから、正確には999人だ。999と言うと、ロールプレイングゲームの最高レベルみたいで子供っぽいと思った。子供の頃は、同級生が夢中になっていながら、ゲームをする余裕がなかった。ゲームには多大な時間を割く必要があることくらいは知っていた。平日は深夜まで、休日は朝から晩までゲームに噛り付いているという同僚の話を聞くと、時間の無駄遣いだと思ってしまう。それなら昼まで寝ていると言う正社員の方が健全だ。鈴原冬花だって、昼までは掃除をしたり、洗濯をしたりと家事で時間を潰していた。
「今日昼、どこかで食べない?」
彼は鈴原冬花の声を聞きたいという理由で、インターネットの会社を経営していながら、必ず直接電話を掛けてきた。初めはビデオ通話を望んでいた彼だったが、彼女の個人的な理由で断った。行き成り素顔を見られては堪らない。決して化粧で化けるタイプではないが、それでも女の身だしなみは心得ているつもりだ。
「何食べる?」
鈴原冬花が頭を悩ます必要はなかった。彼が決めてくれた。だからと言って、まるで意見を聞いてくれないということはなかった。
「今日の気分は和食かな。どう?」
「そうね。和食でいいよ」
「それなら、いい店知っているんだ」
彼はたくさんの目ぼしい店を知っていた。流石インターネットの会社を経営しているだけあって、検索して探すのはお手の物だ。その上どう言うこつがあるのか分からないが、失敗がほとんどない。どの店の料理も満足がいった。
「この店は人気があって、なかなか予約が取れないんだ」
彼は、取って置きの手柄を立てたように自慢げだった。その店は豪奢な造りの店だった。こじんまりとしていたから、中は客で満席だった。二人は列車が到着するたびに混み合う駅で待ち合わせした。繁華街は買い物や、昼食に有り付く人々で賑わっていた。デートだよ、デート。彼とは食事に行ったり、小さなバンドのライブを見に行ったり、映画を見たり、ドライブに行ったりした。彼は、鈴原冬花が感心するほど遊びのセンスが良かった。遊び慣れていると思ったのは、そんな時だった。
「ここのすき焼きが美味しんだ」彼は言った。
「それは楽しみね。私友達の家にお呼ばれして、初めて食べたこと思い出すの」
鈴原冬花は、あまり恵まれた家庭ではなかった。母親は真面にご飯も作ってくれなかった。いつも潮溜まりに取り残された魚のように腹を空かせていた。学生の頃は給食が頼みの綱だった。食い溜めするために、体格のいい男の子と競ったこともあった。初めてすき焼きを食べたのは、東雲早瀬の家の夕食に呼ばれた時だった。これは何と言う料理だと、彼女は聞いたくらいだった。世の中にこんなに美味しい食べ物があるとは知らなかった。その日からすき焼きは、彼女の好物になった。バイトが出来る年齢になると、賞味期限切れの弁当を分けてもらえるという理由で、こっそりコンビニで働いた。それでもすき焼きには手が届かなかった。材料を買って自炊することは、母親にバイトしていることがバレたらまずいから出来なかった。もしバレずに出来たとしても、あれはみんなで鍋を囲んで食べるから美味しいのだと彼女は知っていた。一度カレーライスを作ったことがあった。母が仕事から帰るのを待っていたのに、帰宅した母は彼女を怒鳴った。就職すると母を捨てた。
「私がカレー嫌いなの知ってて作ったの」
カレーライスが嫌い? そんな話聞いたことがなかった。母はカレーの鍋を、スパイスの匂いで充満する台所の壁へ獰猛に投げ付けた。壁は雨垂れに錆びた廃工場の壁のように褐色に染まった。鈴原冬花は体が錆び付いたみたいに動けなかった。その日からカレーライスは彼女の嫌いな食べ物になった。臭いを嗅いだだけでも吐き気を催した。必死に忘れようとしても、彼女の頭から追い出すことは出来なかった。カレーライスを食べに連れて行ってくれた男とは、店に入る前にすぐに別れた。男は迷子になった子供のように店の前で呆然とした。それから男は八つ当たりするみたいにお店に入り、カレーライスをやけ食いした。
「そろそろ煮えて来たよ」
ぐつぐつと鍋の中で踊る特上の牛肉と長葱、焼き豆腐、しらたき、春菊、えのきたち。彼は箸でそれらを手際よく突っついて微笑んだ。鈴原冬花は彼と東雲早瀬以外、今まで付き合ってきた男とは、ロケット打ち上げみたいに大切な思い出のようにすき焼きを食べたことはなかった。もっとも好物を教えてやるつもりはなかった。どうせすぐに別れるのだ。それにもし教えたなら、三日に一度はすき焼きを食べなければならなくなる。大切な思い出が生臭い息を吐く獣に、土足で踏みにじられるのは我慢できなかった。
鈴原冬花は、とんすいに割った生卵を原始的な打楽器を奏でるように溶いた。コンコンコンと、とんすいが陶器を叩く透き通る音を立てた。さあ、準備が整った。彼女は躊躇いなく牛肉と長葱を箸で摘み取って、卵に浸した。熱々の湯気が立っている。人肌の溶いた生卵で少し冷まされた、牛肉と長葱を口に運んだ。甘辛い割り下とまろやかな生卵の味が合わさって、口の中を満開にした。卵で冷まされたとは言え、牛肉も長葱も舌を熱するほど熱かった。思わず、はふはふと言った。
「どう?」彼は言った。
「うん、こんなに美味しいすき焼きは初めて。肉が柔らかく、長葱が蜜のように甘いよ」
確かに味は極上だが、東雲早瀬の家で食べたすき焼きの衝撃には勝てないことは分かっていた。鈴原冬花は、口をもぐもぐさせて牛肉と長葱を呑み込んだ。彼も負けてはいない。美味しいところを豪快に箸で摘まんで口に入れた。彼女は次々と春菊、しらたき、えのきと口で楽しんだ。食べることに関しては、彼の前でも遠慮がなかった。その事を彼は全く咎めなかった。むしろ頼もしいと喜んでいた。彼も食を楽しんだ。彼女はご飯のお代わりをした。彼も彼女に倣って空の茶碗を白米で満たしてもらった。その後、残ったすき焼きにご飯を入れた雑炊も三杯食べた。
「名前を教えてください」
鈴原冬花は、元カレの顔と名前を全て覚えていた。覚えることは得意だった。それは才能の無駄遣いだった。
彼女の退社後の行動は、猫種と犬種ほど隔たりがあった。私生活が派手という訳ではない。むしろ慎ましかった。ただ男女交際が秋の日の次々と落ちてくる銀杏の葉っぱくらい激しく変わった。三日坊主という言葉があるが、飽きっぽいから長続きしないのだ。別れた元カレは、まるで軍隊蟻である。全てが合意という訳ではない。映画にもなった1000人斬りに届くのも時間の問題だった。彼女の求めているのは別に容姿がいいとか、趣味がいいとか、収入がいいといった条件が優れていることには、心が動かされなかった。
最初の頃は、必死に彼氏を探している他の女の子たちと同じだったかも知れない。だが何百人も付き合ってくれば、男の性格は何種類かに分類されることに彼女はたどり着いた。クリスマスを迎えた街角のショーウィンドウの華やかな洋服を着たマネキンほどに自分をよく見せようと必死な男、春の野原を駆けずり回る繁殖期の野良犬のようにすぐに体の関係を求めてくる男、路傍の一際黒い石くらいに寡黙な男、色々なタイプがいる。が、それは一人一人が違っているというほど無限ではない。星座で例えれば、十二星座に落ち着く。多くてもその三倍の三十六だ。それでも晴天の雲の形に同じ物がないように、容姿はどれといって同じものはなかった。だから初めて対面する時には、新鮮であった。
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