僕は、あなたの恋人です。

リス(lys)

あなたは誰?

「僕は、あなたの恋人です。」


知らない顔の男が、少し微笑んで、そう言った。








いつからなのかは、分からない。

もうずっと長いこと、私はここで暮らしている、ような気がする。


この部屋にあるのは、ベッド、小さなテーブル、椅子が2脚、それから、洗面台、トイレ、あとは、いくつかの文庫本。ベッドも椅子もテーブルも書棚も、しっかりと床に固定されていて、椅子に座るときだけ、少し不便。

洗面台には鏡がついていないけど、別に困ることもない。磨りガラスの分厚そうな窓は、開かない。看護師さんに聞いたけど、「落ちちゃったら危ないから。」と、ニコリと微笑んで言われただけだった。


小説本は、読んでもつまらない。ここにある本の内容も、あんまり好きじゃないし……読んでいても全然集中できなくて、そのうちに眠ってしまう。じゃあどんな本なら好きなのか、それは……わからない。


特にやることもないけれど、退屈でもない。ぼんやりしている内に1日がすぎていく。

この部屋には時計もカレンダーも無い。もし同じ日を繰り返していたとしても、私には気付けないだろう。




でもある日、いつもと違うことが起きた。


私は椅子に座って、俯いて、ぼんやりとテーブルに置いた本の表紙を見つめていた。何度かパラパラとめくってみたけれど、どうしても読むことが出来なくて、閉じてそこに置いてしまった。


ふと気づく。誰かが、正面の椅子に座っている。


パッと顔を上げると、そこには優しく微笑む男性がいる。

ボーッとしていたとはいえ、ドアの開閉音にも全然気付かなかった。

いつの間に?そして、どなた?


「……あの、ええと……」


私は混乱して、言葉が上手く出ない。

目の前の男性は、少し困ったような、ほんの少し悲しそうな顔で微笑んで、優しい声で、言った。


「僕は、あなたの恋人です。」




……恋人。そんなこと、言われても。


私には、彼が本当のことを言っているのか、嘘をついているのか、分からない。


「……ごめんなさい、あの、私、……何も、分からなくて。」


私は俯いて言う。「謝らないで。」と彼が言うので、顔を上げる。


「思い出さなくていいんです。僕は、あなたに会いたくて、来ているだけだから。」


彼は、優しく微笑む。でも、その目は、やっぱり少し、悲しそうだった。

彼は……いくつぐらいだろう。20代か30代か、それぐらい。私と同じくらいかな、と思ったところで、自分がいくつなのかも分からないことに気付く。

この部屋には鏡がないし、窓も磨りガラスだから、自分の顔さえ知らない。


……手。手を見てみれば、自分がいくつくらいか分かるかな。そう思って目の前に自分の手を掲げてギョッとする。

袖から覗く腕が傷だらけだ。ぶつけたような痣や、引っ掻き傷の跡がある。

なんで?ここにはいつもの看護師さんしか来ないし、彼女はいつも優しい。

そして、気付く。この引っ掻き傷は、方向的に、きっと自分でつけたものだ。

……私は、覚えていないけど、暴れることがあるのかもしれない。だからいつも、食後に、薬を飲まされるのかも……。




「大丈夫?」


声をかけられて、ハッ、と我に返って顔を上げる。僅かに首をかしげてこちらを見る、私の恋人だという男性。


「あ、……ごめんなさい、あの……」


……なにを話せばいいのか。私は、彼のことも、自分のことも、何一つ、知らない。


「……名前、そうだ、名前を教えてください。」


そう彼に告げると、彼は微笑んだまま目を伏せて首を振る。


「言ったでしょ?思い出さなくていいって。」


「でも……」




その時、コンコンッ、とドアをノックされる。


「夕ご飯ですよ。」


いつもの看護師さんが声を掛け、ドアを大きく開ける。


すると彼はパッ、と立ち上がり、


「じゃあ、また。」


と軽く左手を挙げて言って、部屋に入ってくる看護師さんと入れ替わりで、音もなく去ってしまった。

……不思議な人だった。また、来てくれるのかな。

看護師さんに聞いたら、教えてくれるだろうか。


「……あの、さっき来ていた人、誰なのか知っていますか?」


私がそう言うと、看護師さんは一瞬私から目を逸らして、


「私には、わかりません。……食後のお薬、しっかり飲みましょうね。」


と、優しく言った。




その日以来、数日おきに、私の恋人だという男性がここに来るようになった。

この部屋には時計がないから、正確な時間はわからない。でもいつも、夕ご飯を持ってきてくれる看護師さんと入れ替わりに出ていくから、夕方頃なのだろう。

そして、彼はいつも、音もなく現れる。いつの間にか、私がぼんやりしているのを見計らったように。




「こんにちは。」


声を掛けられて、ベッドの上に寝そべってぼんやりと天井を眺めていた私は、慌てて飛び起きる。

彼が、ドアの前に立って微笑んでいる。


「……すみません、お見苦しいところを……。」


恥ずかしくなって、そう言いながら急いで椅子に座ると、彼も、控えめにくすくす笑いながら、椅子に腰掛ける。

彼はいつも、襟付きのシャツとカーディガンを着ている。この部屋は、窓は開かないけれど空調がしっかりしていて、いつも温度が一定だから、外の季節が私には分からない。




「外、寒いんですか。」


「ええ、少し。今日、来る途中で、金木犀の香りがしました。」


「金木犀、いいですね。」


彼とはいつも、そんな、他愛もない会話をする。



猫を見かけたこと、蝶が飛んでいたこと、ヒグラシが鳴いていたこと、雨上がりに虹が出ていたこと、桜が咲いていたこと、雪がチラついたこと、…………。



何度かそうやって、数日おきに彼との面会を重ねる内に、何か、違和感を覚える。


彼はいつも、襟付きのシャツにカーディガン。


私には、今の季節は、分からない。


彼の語る、外の世界。


季節が、めちゃくちゃだ。




その日、また私は椅子に座り、俯いてぼんやりしていた。

コンコン、と、ノックする音。看護師さんが、ご飯を持ってきてくれたのかな。朝か昼か夜か、わからないけど。


「……はい。」

と返事をする。少し眠くて、いつもよりボーッとしてしまっている。


ドアが開いて入ってきたのは、ジャケットもネクタイも無しの、スーツの男性。

……いや、彼、かな?目が霞んでよく分からなくて、目を擦る。なんだかいつもより、緊張した顔をしている?スーツ……もしかして今日は、仕事帰りなのかもしれない。疲れているのかも。

彼は、


「……こんにちは。」


と、いつもより少し低い声で言いながら、少し強張った顔で椅子に座る。


「……こんにちは。今日は、お仕事帰りですか?なんだか、いつもより疲れているみたい。」


私がそう言うと、彼は少し驚いたような顔をして、それから少し俯いて、


「……そうです。」


と、悲しげな声で言う。

どうしてしまったんだろう。なにか、仕事でつらいことがあったのかもしれない。

……それでも、会いに来てくれたのが嬉しい。


「あの、……大変だったんですね。今日はもうお帰りになって、ゆっくり、休んでください。体を壊してはいけないから……。」


私がそう言うと、彼はまた少し驚いた顔をして、それから一度目を逸らし、なにかを決意したような目でまたこちらを見て、言う。


「……僕たちのこと、思い出せましたか?」




……え?

彼はこれまで一度も、こんなことは言わなかった。むしろ、思い出さなくていいと言っていたのに。

本当に、今日の彼はどうしてしまったんだろう。私は混乱してしまって、「ええと、あの……」という意味のない言葉しか出てこない。

思い出さなくていい、という彼の言葉に甘えていたけど……なにか、思い出したほうがいいんだろうか。

彼と私のこと、なにか……




パッと頭に浮かんだのは、冷たい水のイメージ。


私は誰かと、手を繋いでいる。


寒くて凍えそうで、全身がぶるぶると震えだす。


おかしい、空調はいつも、きちんと効いているのに……。




彼が、「すぐ、看護師を……!」と言いながら部屋を出たのが分かった。そしてすぐに看護師さんが来て、なにか私に注射をして、そして私はベッドで、眠りについた。





それからも度々、音もなく、彼は訪れた。また、いつものように、襟付きのシャツにカーディガンで。

いつものように、他愛もない会話をした。決して、昔のことを思い出して、なんて言わなかったし、それどころか、ふたりの思い出話だってしなかった。




なにかが、変だ。


私は、なにか大事なことを思い出さなきゃいけない。


でも、思い出そうとしても、頭がぼんやりして、思考が霧のように散ってしまう。




……多分、いつも食後に飲む、この薬のせいなんじゃないか。

看護師さんはいつも、私がしっかり飲んだか確認するけど、……たまに看護師さんは機嫌が悪いときがあって、そういうときはあまりよく確認しない。

今日もたまたま、機嫌が悪い日だ。私はこっそりと、薬を吐き出す。バレてない。



やっぱり、なんとなく頭がスッキリしている。ただちょっと、胸がドキドキして、すごく不安な気持ちだ。


コンコンとノックの音。


「はい。」


返事をすると入ってきたのは、久しぶりに、ジャケットとネクタイ無しの、スーツ姿の彼。


「……今日は、お仕事帰りなんですね。」


私が話しかけると、彼は少し困ったように微笑んで、


「……そうです。」


と、また、いつもより少し低い声で言った。

彼は何も話さない。今日もまた、仕事で疲れているのかもしれない。



……なんで、彼は仕事帰りのときだけ、ノックをするんだろう。いつもの私服の時は、いつの間にか部屋にいるのに。



彼がこちらを気遣わしげに見ながら、テーブルの上で指を組んでいる。左の袖口から、手首に嵌めた腕時計が覗いている。左腕に、時計。


あれ?なにか、違和感が……。なんだろう。




彼はそのまま、たいして会話することもなく、「また、来ます。」と言って、帰ってしまった。




なにか、おかしい。スーツを着ている日の彼は、どこかが、違う。いつもの、襟付きシャツにカーディガンの彼は、……やっぱり少し悲しそうだけど、もっと優しく微笑んで、私との会話を楽しんでいるのに。








知りたいと思ってしまった。思い出したいと思ってしまった。


だから、こっそりと薬を吐き出す回数を、増やした。


看護師さんの、機嫌が悪いときだけ、こっそりと。


胸がドキドキして、なかなか眠れなくて、頭痛がしたけど、それでも私は、薬を勝手に、吐き出し続けた。










そうして、だんだんと、思い出してしまった。












「こんにちは。」


目の前の椅子に、音もなく彼が現れる。襟付きシャツに、カーディガン。優しく微笑んでいるけど、今日はいつもよりずっとずっと、悲しそうだ。


私も、悲しい。


「……こんにちは。」


でも私は、精一杯の笑顔で、彼に語りかける。


「……思い出さなくていいって、言ったのに。」


彼が、とても、とても悲しそうに、私に言う。


溢れる涙が、止まらない。


「……ごめんなさい。私、あなたのこと、どうしても、思い出したくて、……忘れたままで、いたくなくて……。」


彼が、私に左手を伸ばす。


テーブルの上で、震えるほど固く握り締められた右手の、袖から覗く、腕時計。


そう、彼は、左利きだった。


彼の手が私に触れる前に、泣きそうな顔をして、彼は、ふっ、と消えてしまった。




全部全部、思い出した。


彼は本当に、私の恋人だった。


ふたりとも、この世界が嫌になって、ふたりきりで逃げ出そうとして、


手を繋いで、冷たい冷たい、海に入った。


でも、彼は私を置いて行ってしまった。


私だけが、この世界に、ただひとり、残されてしまった。


つらくて、悲しくて、私は、全ての記憶を、消した。








茫然と、ぼんやりと、涙を流し続けていると、コンコン、とノックの音がする。

声を出せないで黙っていると、そっ、とドアが開く。

中に入ってきたのは、ジャケットとネクタイを外した、スーツ姿の、……『彼』。


『彼』は、涙を流す私を見て、すごく驚いた顔をして、それから、すごく悲しそうな顔になって、こう言った。


「……全部、思い出したのか。」


……あぁ、この声と、この喋り方。


私はずっと、勘違いしていた。


「思い出したよ、……兄さん。」




私の、兄。


でもやっぱり私には、顔の見分けがつかない。


兄に、私が思い出したこと、ふたりで望んで、彼と一緒に海に入ったことを話した。


兄は、……私には、恋人と同じにしか見えない顔で、目を伏せて、涙を一筋だけ、流した。

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