3章『……デート、してください』

第9話

──7月。長く続いた梅雨が明け、日に日に暑さが増していく季節。

蓮見総合病院での研修が始まって3か月、私はこの新しい環境に次第に馴染みつつあった。

仕事を覚えるにつれ、振られる業務の量も自然と増えていく。


今日もまた、朝のカンファレンスを終えた私は、病棟を回診し、患者の様子を確認していた。

上級医に呼ばれれば即座に駆け付け、処置があれば前もって手順を頭に叩き込む。

外来では次々と患者が訪れ、私は問診を取りながら指導医の診察を必死にメモする。

……気がつけば昼休みはとうに過ぎ、白衣のポケットには食べ損ねた栄養ゼリーがそのまま残っていた。

忙しい毎日の中で、”彼女”の事を考える時間は少しずつ削られていった。


でも、それは決して”彼女”を忘れたわけではない。

むしろ、心の奥底に押し込めた想いは日を追うごとに濃縮され、重みを増していくのを感じる。


──自分自身の中に眠る想いを自覚したあの日。

私は”彼女”……白露結を求めて迫った。

けれども、彼女の奥底に踏み入れる事は静かに拒まれてしまった。

それでもなお、この奇妙な関係が途切れる事はなく、私は夜な夜な彼女の部屋を訪れていた。


そんなある日の事だ。


「そういえば、最近、幽霊病棟の方で君を見たという話をよく耳にするんだけど……」


休憩時間の雑談に興じていた世永先生から不意にそんな話を振られた。

世永先生は相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。

だけど、その笑顔の裏には微かな探るような意図を感じた。

……悪意ではなく、純粋にこちらを心配しているような、そんな目だ。


「……そんなに目立っていましたか?」


平静を装いながら答えると、世永先生は軽く肩をすくめた。


「目立つってほどじゃあないけどね。

 でも、あそこは基本的に長期入院の患者さんしかいないし、研修医が頻繁に出入りするのは珍しいからさ」


「そうですか」


適当に流そうとした私を見て、世永先生は少し目を細める。


「君さ、最近ちゃんと休めてる?」


「……どういう意味です?」


「外来も病棟も忙しいだろう?それなのに、君は夜な夜な幽霊病棟に足を運んでいるし。

 ……もしかして、何か妙なことに巻き込まれてたりするんじゃない?」


私は一瞬、ドキリとした。

まさか、私たちの事が知られているとは思わなかった。

驚きとともに彼に対する罪悪感のようなものが涌いてくる。


「先生、私が幽霊にでも取り憑かれてると思ってるんですか?」


冗談めかしてそう返すと、世永先生は苦笑した。


「そうなら面白いんだけどね。

 でも、僕が心配してるのはそこじゃあないよ」


そう言って、世永先生は少し声を潜めた。


「君が関わってる患者さん……白露結さんのことだ」


途端に心がざわつく。

表情に出さないように気をつけながら、私は静かに尋ねた。


「白露さんが、どうかしましたか?」


世永先生は私の様子を見ながら、慎重に言葉を選ぶように少し間を置いた。


「誤解を恐れずに言わせてもらうと、あの子には深く関わり過ぎない方がいい」


それは温和な彼にしては意外なほど強い否定の言葉であった。

言葉を失った私を見つめながら、彼はお茶を一口飲み、話を続けた。


「別に、君に問題があるわけではないよ。

 少し危なっかしい所はあるものの、君は優秀だし、頑張り屋だからね

 ちょっとしたお話をするくらいなら、白露さんにとっても良い気晴らしになるだろうし」


「でも、それ以上は駄目だ」


私たちの関係性を知ってか知らずか、眼光は一段と鋭く、強い視線となって突き刺さる。

世永先生はふと自分の険しい顔に気付いたのか、いつになくぎこちない仕草で表情を和らげた。


「強い言い方をしてしまってごめんね。

 誰が悪いというわけではないのだけれど、これは……」


「……すみません、何が”駄目”なんですか?」


世永先生の言葉を遮るように、私は思わず問い返していた。

自分でもビックリするくらいに迷いのない一声であった。

先生の言っていることはもっともで、彼には何か根拠のようなものがあるのだろう。

それでも、私は自分の言葉を曲げるつもりはなかった。


突然のことに彼は一瞬両目を見開くと、言葉を選ぶように視線を落とし、それからゆっくりと口を開く。


「その様子だと、もう既に彼女に深入りしてしまっているようだね」


彼は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていた。

しかし、ひとつため息をつくと、その顔はどこか諦めを滲ませたものへと変わる。


「君は、白露さんについてどこまで知っているのかな?」


私は一瞬、返事に詰まった。

彼女が幽霊病棟に長く入院していること、そして”普通の患者ではない”という事実。

その程度なら知っている。でも、それ以上は……?

彼女については、何も知らないと言っていい。


それに彼女との関係性について、どこまで話すべきなのだろうか?

”鳥”のことは?”冥婚”のことは?世永先生はどこまで知っているだろう?

そして、彼女と夜な夜な行っている”あの事”は……?


「話したくないようなら構わないよ」


言葉に詰まる私を見て、助け船を出そうと思ったのだろうか。

世永先生は軽く手のひらを上に向けながら、そう言った。


「その代わり僕の話を聞いてくれるかな」


「この病院で実際に起きた出来事、そして……」


「白露さんに関わる物語だ」


***


世永先生は静かに息をつくと、遠くを見るように瞼を伏せた。


「──事の次第は、二十年ほど前に遡る」


彼がそう切り出すと、私の意識は自然と彼の言葉に引き寄せられる。


「白露さんがこの病院にやって来たのは、まだ幼い頃だった。

 確か、六歳か七歳くらいの頃だったと思う」


そう言いながら、世永先生はゆっくりと指を組んだ。

昔を懐かしむような目つき。彼にとっては現実に根付いた、見知った過去なのだろう。


「あの頃の……いや、あの頃から白露さんは病弱な子だった。

 生まれつき心臓が弱く、幼い頃からたびたび体調を崩しては病院に通っていたよ。

 最初は外来での診察だったけれど、そのうち入院を繰り返すようになり、長期の入院生活が始まったんだ」


「……白露さんはそんなに小さな頃からこの病院に?」


驚きを滲ませると、世永先生は軽く頷いた。


「そうだね。あの子の入院生活は長かった。

 その頃からすでに、旧D棟──今で言う”幽霊病棟”に入院していてね」


「旧D棟に……」


「彼女が特殊な患者だったから、というわけじゃない。

 単純にその頃のD棟は今のような半閉鎖状態ではなく、長期入院の子供たちが暮らす病棟として使われていたんだ」


「そうだったんですか……」


私は思わず廃墟のような旧D棟を思い浮かべる。人の居ない、静まり返った空間。

かつて、そこには多くの子どもたちが入院していたという事実が、まるで別世界の話のように感じられた。


「白露さんは……不思議な子だったよ。

 とても静かで、まるで周囲の空気と溶け合うようにいつの間にかそこにいて。

 でも決して無視できない存在感を持った子だった」


世永先生の語る白露結の姿は、私の知る彼女とどこか重なっている。

目を瞑り、彼女の昔の姿を想像すると、独特の存在感を持つ白い少女がこちらに向けて手を振っていた。


「それに……妙な噂のこともあったし」


「噂?」


「当時、白露さんを知る者の間で、ある奇妙な話が広まっていたんだ」


世永先生が一呼吸の間を開ける。

真剣な表情だ。こちらをわざと焦らしているようには見えない。

言うか言うまいか迷う、一瞬の間。


「彼女の背には──」


世永先生はふっと視線を落とし、慎重に言葉を選ぶように続けた。


「……使、とね。」


「天使の……羽?」


思わず口の中でその言葉を反芻する。そんな馬鹿げた話……と以前の私なら思ったことだろう。

だが、世永先生は先ほどと変わらない真面目な顔を浮かべており、これが嘘や冗談ではないことを暗に示している。


「誰もそれが本当に”羽”だったとは言えない。

 ただ、彼女を見た人の中には、『背中に何か白いものが揺らめいていた』とか、『光の加減で透けるようなものが見えた』とか、そういうことを言う人がいたんだ」


「……それって」


羽という言葉を聞いて私の中で何かがざわめく。

”羽”に関わる存在について、いくつか思い当たる節があったからだ。

例えばそう……幽霊病棟に夜毎に集うあの”鳥”たちのような……。


「ただの偶然かもしれない。

 でも、彼女が幼い頃からどこか不思議な印象を与える子なのは確かだった」


世永先生は少し眉を寄せながら、遠い記憶を手繰るように話し続ける。


「ただ……彼女にとって本当に重要な問題はそこじゃなかった。

 その頃の白露さんについて皆が気にしていたのは……ご両親との関係だったんだ」


「両親……?」


「白露さんのご両親は、病院にはほとんど姿を見せなかったからだよ」


「えっ……」


思わず息を呑む。

長期入院している子供が親とほとんど会えないなんて。


「……彼女を見捨てたわけじゃない。入院費用はきっちり満額支払ってもらっていたし、個室料金もだ。

でも、両親が病室を訪れることは……それこそ両手の指で数えられる程だったと思う」


「どうして……?」


「理由はいろいろあったと思うよ。仕事が忙しかったのかもしれないし、あるいは……」


「……彼女を、避けていた?」


そう口にすると、世永先生はゆっくりと頷いた。


「白露さんの両親が彼女に冷たかったのは確かだった。

 会いに来たとしても、ほんの短い時間だけで、長居をすることはなかったし。

 白露さんもそれを理解していたのか、親の訪問を”楽しみにしている”という様子はほとんどなかったな」


「そんな……」


何とも言えない、もやもやとした感情が胸に広がる。

家族に会えない入院生活はどれほど孤独だっただろう。


「……僕たちも、ご両親に何か言うべきだったのかもしれない。だけど、あまり強くは言えなかった。

 当時の蓮見総合病院は、新病棟の建設資金として莫大な資金を必要としていて、白露さんの家は病院にとって最大のスポンサーだったからだ。

 そのせいで白露さんが周囲から腫れ物に触るように扱われていたのも事実だ」


「……」


私は思わず、白露結の姿を思い浮かべる。

実の両親とも、病院の職員とも触れ合うことのない孤独な少女。


──彼女のあの、どこかこの世のものではないような雰囲気は、もしかすると、この時から育まれていたのかもしれない。


「……でもね」


ふと、世永先生は微かに笑った。

かつて居た”誰か”を思い出し、笑っているようだった。


「そんな白露さんにも、心を許す相手が出来たんだ」


「彼女の名前は雨宮あめみや菊璃くくり


「彼女は君と同じように、蓮見総合病院にやって来た」


「研修医の、一人だった」

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