第4話

「聞きたいことは色々とあると思うけど、先約を優先させてもらってもいいかな」


私が彼女に問いかけようと口を開いた瞬間、先手を打って釘を刺されてしまう。

先約という言葉を彼女は口にしたが、見る限りこの部屋に私以外の人間は居ない様に思えた。

だが、それは違うのだとすぐに気付くことになった。


この部屋の大部分を占める大きなベッドの上に、何かが居る。

大きさは小さな子供一人分くらいだろうか、白いもこもことした羽毛の塊のように見えた。

それは重さを感じさせないふわりとした動きで、その場に漂っていた。


(羽毛……?)


直感的に、目の前の白い塊が先程の怪物と同じものなのではないかという考えが頭に浮かんだ。

だが、目の前の物体はあれに比べるとあまりにも小さく、あの怪物のような全身が凍り付くような恐ろしさは一切感じられない。

ふるふると、まるで子犬のように揺れながらかすかに震えている様子からは、むしろか弱い印象を受ける。

……誰かに庇護を求めているかのような、幼子のような、弱さを。


「苦しかったんだね」


白露がそっと手を伸ばす。指先がそれの身体に触れた瞬間、けむくじゃらの塊はびくりと震え、後ずさる様にふわりと後退する。

まるで、触れられることに怯えているかのようだった。


「大丈夫、大丈夫……ほら、怖くないよ」


彼女はそう優しく囁くと、ゆっくりと床に座り込み、膝の上に手を置いた。

まるで警戒心の強い小動物を安心させるような、穏やかな仕草だった。


そして、静かに唇を開く。


「…………♪」


童謡だろうか。私の知らない曲だ。

それでもどこか懐かしく、胸の奥を温かく撫でるような柔らかい旋律。

白露の歌声は、夜の静寂の中に溶け込むように優しく響き、まるで病室全体がその音に包まれていくかのようだった。


その塊は、ふるふると震えながらも、ゆっくりとその動きを落ち着かせる。

まるで、白露の声に安心するように、小さな羽毛がふわりと上下に揺れる。

それは頷いているようにすら見えた。


「……いい子だね。怖くないよ、もう何も寂しがる必要はないから」


白露はそう囁くと、ふっと微笑んだ。

彼女の周囲の空気が、まるで月光のように柔らかく、穏やかに揺れる。


羽毛の塊が、ゆっくりと白露の膝の上に降り立つ。

小さく、小さく揺れながら、彼女の腕の中に収まるようにふわりと寄り添う。


「そう、もう大丈夫……おやすみなさい」


彼女の声に合わせるように、それはゆっくりと静かに輝きを失っていく。

まるで、その存在が解けるように、羽根が一つ、一つと抜け落ちて、地面に沈み込み、溶けていく。

それは決して消滅するのではなく、まるで安らかな眠りにつくように、優しく、静かに……。


最後のひとひらの羽毛が白露の手の中に納まると、彼女はそれをそっと掬い上げ、唇に触れさせるようにしながら、微かに微笑んだ。


「またね」


それは、まるで別れの言葉のようでもあり、再会の約束のようでもあった。


私は、ただその光景を黙って見ていた。

何も言えなかった。何かを言うべきなのかすら分からなかった。

ただひとつ、はっきりと分かることがあった。


──いま、目の前で起こったことは、確かに私が求めていた”何か”だった。


在って欲しいと求めたものが、救われてほしいと願ったものが、ここにあるのだと。

目の前で起こっていることが何なのか、私には理解できない。

それでも、ただひとつ──この光景だけは、確かに真実なのだと確信できた。


白露結は、優しく目を閉じたまま、小さく息をついた。


「……君の世界では、これもただの”気のせい”かな?」


彼女の静かな囁きが、胸の奥深くに響いてきた。


***


「以前、君に繋がりを持たない魂について話した事があったね」


呆然と立ち尽くす私に、ベッドに腰掛けた白露結が話しかける。


「世の中をまだ知らない子供のような、世界に対して強い繋がりを持てなかった、孤独な魂。

 羽根を休める止まり木すら無くしてしまった。安らかに眠る事すら出来なかった死者の魂は……ああなってしまう」


ああ、とは、先ほどの怪物のことなのだろう。

恐ろしく悲鳴を上げるその姿は私の脳裏にも強く焼き付いている。


「つまり、さっきの怪物は……」


「うん。君が出会った”鳥”はね、生前に世界との繋がりを持てなかった魂だよ」


白露は静かに頷くと、優しく小指を立てて見せる。


「君も知っているだろう? 人は亡くなると土へ還る。

 だけど、誰かと繋がりを得ない、幼いままに亡くなった魂は、そのままでは大地と馴染めない」


「……馴染めない?」


「簡単に言えばね、人の魂は”誰か”との関係を持って初めて、次へ進む準備ができる。

 でも、もしそれができなかったら? 誰とも結ばれず、ひとりぼっちのまま死んでしまったら?」


「……」


「そういう魂は、次の世界に行くこともできず、この世に留まり続けることになる。

 何の形も持たないまま、漂って、漂って……やがて、自分が誰だったのかさえ忘れてしまう。

 ただ、寂しいという想いだけが膨らみ続けて……

 そして、終わりのない孤独の空から身を守る為に羽を得て、空を彷徨うもの──”鳥”になってしまうんだ」


「……っ」


喉がひゅっと鳴った。

さっきの怪物の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。


死んでも、苦しみ続けるなんて。

そんなの、あまりにも残酷だ。


「だから、その魂を落ち着かせるために”冥婚”がある」


「……冥婚」


以前、彼女と初めて出会った時に語られたその言葉。

あの時は禍々しい、不吉な言葉という印象が強かった。

でも、今は……


「うん。亡くなった人の魂を”結ぶ”儀式だよ」


白露結の瞳が悲し気に伏せられる。一呼吸を置いて言葉が続く。


「生きていた頃に結ばれなかったとしても、死後に誰かと結ばれることで、この世の存在と繋がりを持つことが出来る。

 そうすれば、魂は大地に還りやすくなるんだ」


「何も特別なことをしているわけではないよ。

 ただ、”鳥”になってしまった子供たちと遊んで彼らに”生者との繋がり”を与えているだけさ」


なるほど、先ほどの光景はそういうことかと納得しかける。

白露の歌声に安心したように、羽毛の塊は眠るみたいに姿を消していった。


「私と関わることで、彼らは”生者と結ばれた”と感じているのだろうね。

 そうすることで、彼らは空の旅を終えて、大地に再び戻れるようになるんだ」


「……それって、つまり」


私は息を飲んだ。


「白露さんが、あの子たちの”止まり木”になってあげている……ってこと、ですか?」


「……」


一瞬、白露の目が細められた。

それが何を意味するのか、私はわからなかった。


けれど、次に微笑んだ彼女の表情は、どこか遠いものを見るようだった。


「君は、言葉を選ぶのが上手いね」


くすくすと笑いながら、白露は肩を竦める。


「そう、私はただの止まり木。

 巣を失った渡り鳥が、安全に大地に降り立つ為の道標。

 どこへ行くことも出来ず、この場所に縛り付けられた私にはお似合いの役どころさ」


「……?」


白露は何気なく言ったように見えた。

だけど、私の胸の奥で、なにか引っかかるものがあった。

彼女の視線は私を見ているようで、何か遠い、別のものを見ているような気がした。


その違和感の正体がわからないまま、私は彼女の言葉を待っていた。


「……さて」

「ここまで話せば、君も”冥婚”の意味が少しはわかってきたんじゃないかな?」


白露は、ふっと夜の静寂を含んだように微笑む。


「私が、”この場所”で何をしているのかも、少しはね」


その言葉に、私は息を呑んだ。

彼女の視線が私を捉えて、まるで試すように問いかけてくる。


「……じゃあ、君はどう思う?」


「”生者”が”死者”と結ばれることを」


***


白露結の瞳が、魂を捉えるかのようにこちらに向けられている。

瞳の奥に見えるものは強い意志の光と、それと微かに。

……何かを求めるような、寂しさ。


「結ばれているのは……」


「”鳥”となった魂だけではないですよね?」


──ずっと違和感があった。

彼女が自身の事を”花嫁”と名乗る理由。

部屋に住んでいるのは彼女一人だけのはずなのに、この場所には別の誰かの痕跡が感じられる。

それはベッドの大きさであったり、あるいは部屋自体の性質であったり……いや。

そんなものは全て後付けの補強材料に過ぎない。


私の直感が。

彼女の中に、語られざる存在が居る事を告げていた。


「……あなたと結ばれている人が、もう一人いる」


断言する。

自分でもどうしてこんな事を言っているのかわからなかった。

論拠も何もなく、単なる当てずっぽうで他人の心の中を掘り下げようとする自分の心を。

他でもない、自分自身が一番何もわかっていない。


……それでも。


求めていた。彼女の心を。

彼女の秘密を手にすることを。本能的に。


「……まったく」


「どうしてだろうね。君とは会ったばかりだというのに」


「そんなことまで見抜かれてしまうだなんて」


彼女は観念したかのように、ああと両手を上げてゆっくりと身体を伸ばす。

その瞬間、私を試すような彼女の視線が不意に和らいだような気がした。


「止まり木が止まり木である為には、地面に根付く何かが必要だ。

 例えばそれはその土地との縁であったり、あるいは何らかの役目であったり……」


「──その場所で死んだ人間との、契約であったり」


柔らかい手つきで彼女はそっとシーツを撫でる。

その指先に、誰かの温もりを確かめるような仕草が滲む。


「恋人だったんだ……彼女は」


諦めたような呟き。先ほどまでの彼女とは全然違う、寂しさに弱り切ったような口調。

謎めいた存在感が剥がれ落ち、剥き出しの寂しさを口にしているような、弱々しさ。

そんな彼女の様子は、取り囲む現実に圧し潰されそうな程に小さく見えた。


「この世の誰よりも大切な人で、決して手放したくない大好きな人」


胸の奥がぎゅっとする。

目の前で吐露される彼女の内心に、どうしてか、こちらまで苦しくなる。


「だから私は……結んだんだ

 生者として、この地に繋ぎ止められた彼女に魂の芯まで絡め捕られる契約」


「──『冥婚契約』を」


辺りが凍り付いたように静まり返る。


「あはは……”鳥”となった魂を助けるなんてのはただの大義名分で

 本当はこっちの方がメインなのさ」


「自分勝手な独占欲の為に、死者の魂を弄ぶような浅ましい女。

 それがこの私、白露結の正体なのさ」


「がっかりしたかな?”幽霊病棟の花嫁”の正体がこんなので」


同意を求めるような口調。

しかし、彼女のいかにも軽薄そうな笑みには何の感情も乗っていなかった。

空白の瞳が私を見つめている。


「……」


「……いいえ」


「あなたが何を求めてどんな契約を結んだのか、その事をあなたがどう思っているのか。」


私は静かに言葉を切る。

白露の表情は変わらない。己を嘲笑うかのような軽薄な笑み。

だけど、その目の奥は、まるで深い湖の底のように揺らいでいる。


「それでも、あなたがやっていることは、誰かを救っている」


白露の指先が僅かに動いた。


私は一歩、彼女に近づいた。

静かに、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。


「あなたは『自分勝手な独占欲のために、死者の魂を弄んでいる』と言いました」


「それは違う」


整った造形の顔つきが僅かに歪む。


「あなたは”鳥”となった魂を落ち着かせ、安らかな眠りへと導いている。

 もし、あなたがいなかったら……あの子たちはずっと彷徨い続けていたでしょう。

 苦しみの中で、何もわからなくなって、ただ消えることもできずに。

 ……それでも、あなたは『自分勝手なだけの女』だと言い切れるんですか?」


白露の瞳が僅かに伏せられた。


「……そんなつもりじゃない」


彼女の声は、いつもの余裕に満ちたものではなかった。

どこか、迷いが混ざっている。


「私はただ……彼女を手放したくなかっただけで……」


「ええ、そうでしょうね」


私は頷く。


「けれど、それと同時にあなたはこの場所にいる魂たちに”安らぎ”を与えている」


「たとえ、それが最初はあなたのための契約だったとしても、

 あなたは”誰か”の苦しみを和らげているんです」


「そのことを否定することは出来ない。

 例えあなた自身であっても」


白露は何も言わない。

ただ、ベッドのシーツを掴む指先に、僅かに力が入っているのがわかった。

彼女の中で、何かが揺れている。

私は、それを見逃さなかった。


「白露さん」


静かに、名を呼ぶ。


「あなたがどう思っていようと」


「あなたが救った魂たちは、確かに存在するんです」


「それが、どんな理由であれ」


「それは、素晴らしいことだと思いますよ」


しばらくの間、白露は何も言わなかった。

ただ瞳を伏せたまま、静かに息を吐く。

そして、ほんの僅かに。


「……君って、本当に、変わった人だね」


と、小さく笑った。

困惑と戸惑いが入り混じったような、

でも微かにほっとした安堵の感情の混じる、そんな笑みであった。


「それなら」


「ここまで踏み込んできた君に、一つだけお願いをしてもいいかな?」


「ええ、勿論」


白露結のその言葉に私は鷹揚な態度で頷く。

彼女の信頼を得たという確信に気が大きくなっていたのかもしれない。

だから……


「私とここで、夜を共に過ごして欲しいんだ。

 お互いに生まれたままの姿で……ね」


「はい、お安い御用で…………えあっ!?!?」


こんな風に大きな声が出てしまったのは、仕方のない事だと思う。

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