眠るあなたに、口付けを。

汐屋キトリ

眠るあなたに、口付けを。

「ただいまー」


 なるべく響かないようゆっくりと鍵を回し、私は小さな声でそう呟いた。

 

 玄関の時計は午前一時過ぎを示していた。隣に置かれているのは、私も毎朝つけている彼の香水。

 

 こんな時間に騒音なんて立てようものなら、ご近所トラブルまっしぐら。それに、もう布団の中にいるはずの彼だって煩わせたくない。


 スーツをハンガーに掛け、キッチンに移る。


「いただきます」


 沸かした湯をカップ麺に注ぎ、一分半ほどで立ったまま啜り始める。

 繁忙期なこともあり、連日残業は続く。料理なんて作る気力が残っているはずもなく、最近はずっとこんな食生生活だ。

 

 しかしいくらブラックとはいえ、この会社を辞めて今収入を失うわけにはいかない。

 だって私は――弱った彼を守らなくちゃだから。

 

 私たちが知り合ったのは三年前。彼は元々取引先の会社の人だった。

 爽やかでカッコいいなって淡い憧れはあったけど、新人が色恋沙汰でプロジェクトの妨げになるわけにはいかない。躊躇っているうちに、私が前の部署から今の経理に異動が決まった。

 

 もう会えなくなるのが嫌だった。だから私は勇気を出してご飯に誘って……紆余曲折の末、付き合うことができた。


 しかし一年前、部署異動をきっかけに彼はやつれていった。どうやら異動先でうまくいかず、心を病んでしまったのだと。その痩せ細りっぷりに心配になった私は彼に退職、そして同棲を提案した。

 

 彼の親は厳格な人だった。退職した彼と勧めた私を激しく詰ってきた。

 殆ど縁を切るようにして実家を離れた彼に、私はより一層尽くした。

 

 幸いにして、彼一人程度を養う見通しは立っている。「労働基準法? それって美味しいの?」な職場だが、給料は悪くない。

 

 それに愛する人のためなら、何だって頑張れるから。


 シャワーを浴び、彼のいる寝室へ向かう。床に散らかったものは、面倒なので足で蹴って掻き分けた。

 彼はお片付けなんて出来ないから、仕方ない。


「もう寝ちゃったかな」


 彼はいつものように、寝相よく仰向けで寝ている。しばらく体を重ねていないのを、寂しく思わないわけでもない。でも彼が安らかに過ごすことが、私にとっては何よりも大事なのだ。

 

 同じベッドに入り、温めるようにそろりと彼の左手に触れる。薬指を撫でれば、硬い輪の感触がした。


 婚姻届を出したのはほんの数日前。

 どうせ義両親はあんな感じだし、私も親とは疎遠だしで、式は挙げないと決めていた。

 指輪を買って、ウェディングフォトを撮って、籍を入れるだけ。

 

 だからなのかな? まだ結婚したとか、彼が旦那さんになったとかの実感はあまり、湧いていない。世の夫婦もこんな感じだったのかな。


 ベッドサイドの小箱から取り出した、同じリングを指につける。

 うちの会社は無駄に厳しくて、アクセは全禁止。別に良いじゃんと思うけど、わざわざ声を上げる人もいない。

 仕方ないので、結婚指輪は寝るときと休みの日だけつけている。

 

 ベッドサイドにあるのはもう一つ、ウェディングフォトの写真立て。純白のドレスにヴェール纏って念入りに化粧した私と、白いタキシードの彼が写っている。


 眺めていると体が重たくなってきた。労働にしっかりと身体は疲労を溜めていたようだ。

 

 ふくらんだ白い頬をそっと撫でる。

 眠っている彼に、キスをした。

 

 同棲してから、おはようのキスとおやすみのキスは欠かしたことがない。それが二人の間の習慣であり、約束だったから。

 明日はやっとの休日だし、ホームセンターにでも行こうかな。


「おやすみ」

  



 

 制服を纏った二人の男がチャイムを鳴らす。


「はーい」


 ややあって、気の抜けた声とともにドアから女が顔を出す。奥からは、異様な匂いが漂っていた。


「警察です。◼︎◼︎◼︎◼︎さんですね? 役所から婚姻届に不審な点があるとの相談を受け、更に先ほど異臭でも通報がありました」

「警察?」


 彼女は不思議そうに首を傾げた。その目は焦点が合っていない。


「ご主人は?」

「彼ならまだ寝ていて……」

「中、失礼しますよ」

 

 警官の一人が部屋にするりと入る。

 玄関には時計、香水、そして消臭スプレー五缶。

 

 キッチンを通り寝室に入ると、十数個はあろうかという消臭剤と、白い布――恐らくドレス――が床に広がっていた。赤い液体の入った注射器まで数本転がっている。

 

 写真立てに写るのは、タキシードを着せられた目を閉じている男と、ウェディングドレスを纏って笑う女。


 そっと布団を捲ると……臭いがむわりと強まり、遺体の全貌が顕になる。

 不自然に変形した首元と、縄の跡。男は首吊り自殺でもしていたのかもしれない。

 

(狂ってるな、あの女)


 そんな感想が沸くのも仕方ない。

 男の死化粧はドロドロに溶け、口内からは綿が飛び出ていた。注射器を見るに、血抜きと防腐剤の投与も試したようだが、素人が調べた程度で碌なエンバーミングなど出来やしない。

 

 警官たちは視線を交わす。女だけは、遠くを見て薄く微笑んでいた。

 

「午前十時二十一分。あなたを緊急逮捕します」

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