BEAUTY BEAST-異世界美容挑戦譚-

湖池 保一浪

第1話 消えた私の居場所



 何が起きたのか、まるでわからなかった。


 


 ついさっきまで、私は自分の美容室のオープン準備をしていた。鏡の位置を最終確認し、道具を整え、深呼吸をして「よし」と気合を入れた。十年以上の修行を経て、ようやく自分の店を持てる。東京の有名サロンで経験を積み、地元に戻って資金を貯め、必死に頑張ってやっと手に入れた場所。それが——


 


 気がついたら、知らない森の中にいた。


 


 緑の匂い、湿った土の感触、遠くで鳥の鳴く声。これは夢か?いや、そんなはずはない。体はしっかりと動くし、空気の冷たさも感じる。全身にじっとりと汗が滲んでいるのもわかる。


 


 ——ここはどこ?


 


 頭が真っ白になった。足元には見たことのない雑草が生い茂り、木々の高さは異常なほどだった。まるで絵本の中に迷い込んだような違和感。


 


 店は?道具は?お客さんは?


 


 いや、それ以前に、私はどうやってここに来た?


 


 心臓がバクバクと音を立てる。夢じゃないとしたら、これは何?


 


 目の前の現実を受け入れられず、呆然と立ち尽くしていると、背後でガサリと茂みが揺れた。


 


「——おーい!」


 


 突然の声にビクリと肩を震わせる。振り向くと、小柄な女性がこちらを見下ろしていた。


 


 腰に手を当て、少し困ったような顔。肩までの栗色の髪がボサボサで、額にはうっすらと汗が滲んでいる。年齢は……二十代前半くらい?


 


「こんなとこで何やってんの? 迷子?」


 


 言葉は……聞き慣れない響きなのに、なぜか意味が理解できる。どうして? 頭の中が混乱する。


 


「おーい、大丈夫?」


 


 女は心配そうに顔を覗き込んできた。


 


「えっと……」


 


 口を開こうとして、声が詰まる。何を説明すればいい?「さっきまで自分の店にいたんです」なんて言って、信じてもらえるわけがない。


 


 ——それに、私自身が一番信じられない。


 


 この状況を整理できるまで、とりあえず「何か訳ありの人間」ということで通したほうがいい。


 


「……ごめんなさい。少し、混乱していて」


 


「そりゃそうでしょうね。こんな森の中でひとりなんて、おかしいもん」


 


 女は腕を組み、少し考え込むような素振りを見せた。


 


「ま、とりあえず、ここで突っ立ってても危ないから、私の家に来る? 遠くないよ?」


 


「え……?」


 


 突然の申し出に驚く。見ず知らずの人間を家に招くなんて、この人は警戒心がなさすぎるんじゃ……


 


「いや、ほっとくのもなんか可哀想だしそれに、何か訳ありっぽいし」


 


 まるで私の考えを見透かしたかのように、女はにっと笑った。


 


 信用していいのか。


 


 でも、このまま森の中で途方に暮れていたら、本当に危ない。私はこの場所のことを何も知らないのだから。


 


「……すみません、お願いします」


 


「よし! じゃあ、ついてきてよ!」


 


 そう言って、女はスタスタと歩き出した。


 


 私は深く息を吐き、彼女の後ろをついていく。


 


 ——でも、この状況がどういうことなのか、まだ何もわかっていなかった。


(つづく)

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