第11話:曖昧なままで

週明け、会社を出たのはいつもより遅い時間だった。


プロジェクトの詰めが佳境に入っていて、帰宅時間がどんどん後ろ倒しになっている。

けれど、それ自体には特に感情を持たない。


——仕事は金のため。


ただ、ふとした瞬間に考えてしまうのは、あの夜の楓の言葉だった。


「本当に、それでいいんですか?」


なぜ楓は、俺にそれを何度も聞くのか。

気にする必要はないはずなのに、その問いだけが頭の片隅に残っていた。


スマホが振動した。


楓:お疲れさまです。今日も遅いんですか?


俺は一瞬だけ画面を見て、返信を打つ。


俺:まあな


数秒後、また振動。


楓:お疲れさまの一杯、飲みます?


「……」


少し考えてから、メッセージを送る。


俺:行くか


駅近くのバー。


いつものカウンター席に座ると、楓がすでにいた。

今日はワインではなく、ハイボールを飲んでいた。


「れいちゃん、お疲れさまです」


「おう」


「お仕事、大変そうですね」


「まあな」


俺が注文したグラスが運ばれ、軽く乾杯する。


「れいちゃんとこうして飲むの、なんか自然になりましたね」


楓はグラスを揺らしながら、ふと呟くように言う。


「そうか」


「はい。でも……こんなに頻繁に会ってたら、誰かに怪しまれちゃいますね」


「楓の旦那か?」


「……そうですね」


楓は少しだけ視線を落とした。


「でも、れいちゃんの方は?」


「何が?」


「奥さんに、何か言われたりしません?」


「別に」


楓はそれを聞いて、少しだけ驚いたような表情を浮かべた。


「そうなんですか?」


「そういう話になる前に、もう終わってるからな」


そう言うと、楓はグラスを持つ手を止めた。


「……終わってる?」


「ああ。離婚協議中だ」


しばらく、沈黙が落ちる。


「……そっか」


「だから、俺の方は気にすることはない」


楓はグラスを見つめたまま、口を開く。


「……れいちゃんが、離婚するなんて、ちょっと想像つかなかったです」


「まあ、そうかもな」


「理由は……聞いてもいいですか?」


俺は少し考え、それからグラスの氷を揺らしながら口を開く。


「単純な話だよ」


「単純?」


「仕事にかまけすぎたのと、そもそも俺は、人に強く興味を持たない」


楓がゆっくりと俺の言葉を噛みしめるように、黙って聞いている。


「気がついたら、夫婦でいる意味がわからなくなってたんだと思う」


「……」


「相手にも悪いことをしたと思ってるよ」


静かに言うと、楓はグラスを持ち上げて、それを口元まで運んだ。


けれど、飲む前に一度だけ、俺を見た。


「れいちゃんは、それでよかったんですか?」


「どういう意味だ?」


「いや……」


楓は微かに笑って、ハイボールを一口飲む。


「……なんとなく聞いてみただけです」


店を出ると、夜風が少し冷たくなっていた。


「今日もタクシーですね」


「ああ」


楓はスマホを取り出し、軽く操作してから俺を見た。


「れいちゃん」


「ん?」


「……また、飲みましょうね」


「まあな」


「じゃあ、おやすみなさい」


楓がタクシーに乗り込む。


ドアが閉まり、車がゆっくりと走り去っていくのを見送った。


——本当に、それでいいんですか?


頭の奥に残る、楓の問い。


俺はタクシーを拾いながら、その答えを出さないまま、夜の街へと消えていった。


(続く)

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