さようならが言えなくて
原きさ
エンドロールが流れたら
映画を見に行こうと彼に誘われた時、私は『そりゃいいね』と少し口角を上げて喜ぶ。いつもの仕草で楽し気に、新しい春服おろしちゃおっかなあ、とも添えた。
恋人という関係を6年続けてきたのに、未だにデートの約束には心を躍らせて、我ながらなんて可愛い彼女だろうかと思う。けれどまさか、本当にまっさらな気持ちでワクワクしていた訳じゃない。
私たちはこの恋の結末に、お別れという形で終止符を打つと決めたのだから。
学生時代、短期的に働いていたバイトで知り合った彼は、同い年だったこと、偶々家が同じ沿線だったこと、音楽の趣味が近かったこと、それから彼のビジュアルが頭の先から指の形まで好みだったことで、恋愛ビギナーの私はいとも簡単に恋に落ちた。
告白は彼からだったけれど、きっと好きになったのは私からだった。バイト終わり、飲みの後に『彼女になってよ』と私の熱くなった人差し指をそっと握られた、あの夜のときめきは、多分一生、どんなラブロマンスでも越えることができない。
――金曜日、19時に駅前で。
月末の業務は、暇を作った途端にタスクが追加されてキリがない。定時から30分過ぎたあたりで見切りをつけて、慌てて退勤。電車に揺られて約束通りに向かうと、いつも通り黒い服装を身にまとう彼を見つけた。
「お、
「
「いや、今日は帰るって前もって宣言してたから余裕」
「流石。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
学生の頃を思えば、お互い随分と大人びた格好をするようになった。微妙に伸びた薫のパーマヘアは、絶対に当時の私の好みではないけれど、控えめなコーラルリップに3cmのヒールを鳴らす今の私には悪くないと思う。
仕事終わりの映画館、席についた私たちの間にはキャラメルポップコーンと、ペプシコーラが二つ。キャラメル味はいつもの私のリクエスト。薫は本当は塩が一番好きと知っているが故に、その優しさが仕事疲れを癒す。
映画館が好きだった。
こうして横に座ると、微かに薫の香水を纏うことができるから。
上映中、隣り合う距離で呼吸や心音まで聞こえる気がして、スクリーン越しに私はいつも薫を見つめていたように思う。
クスクスと控えめに笑う口も、堪える涙に潤む目も、
ふとした時に握られる手も、そのすべてが温かくて、大好きだった。
エンドロールが流れたら、私たちの6年は幕を閉じる。
別れの理由はひとつじゃない。新型ウイルスが世界中に蔓延した年、職場環境は目まぐるしく変化した。昼夜構わず働き詰めの二人には思いやりの言葉よりも喧嘩が増えた。会えない日も増えた。会わない日も増えた。パンデミックが落ち着いた頃、『風花は結婚したいと思う?』と惰性のように問うた薫の顔が、どうしても色褪せて見えて。あなたと一緒にいたいと思うのに、一生を誓う覚悟が薫にも、私にも、腹の内のどこを探しても、笑えるほどに見つからなかった。
終わりを決めたのはどちらともなく、私の心が先か、薫の心が先か。
だからここに後悔なんてズルい感情はない。
それでも、どうしたら幸せなルートを辿れたのかと考えてしまうのは許してもらえないだろうか。
さようならが言えなくて
エンドロールが流れる。
半分残ったキャラメルポップコーン。
一粒とったそれがやけに塩っぽく感じて。
くだらない愛で、魔法のような日々だった。
一人でいてもあなたに守られているような錯覚に溺れて、
満開の花が散りゆく様も、少しでも長く、
長く眺めていたかった。
クレジットがぼやける。
まだやり直せる?この手を離さなければ幸せになれる?
これ以上続きはないと知っているのに、降り積もった情が楽になりたいと足掻く。
もう忘れてしまう?思い出すこともなくなってしまう?
別の誰かと違う愛を描いていくのだろうか。
いつか、これでよかったと思えるだろうか。
運命に憧れた自分を砕いても負けない自分になれるだろうか。
「楽しかったね」
「うん。楽しかった」
「幸せだったよね」
「うん、幸せだった」
「幸せになってね」
「うん」
別れが、愛した人と二度と会えなくなる事実が、こんなにも胸を締め付けて痛い。
「ありがとう、幸せにね」
どうか早く忘れて、この愛情が過去になりますように。
どうか振り返らないで、跡形もなく思い出になるその時まで。
「またね」
「また」
照明を落としたままの薄暗いシアターを薫のシルエットが遠のく。
一掴みのポップコーンを頬張ると、甘くて、やっぱりしょっぱかった。
さようならが言えなくて 原きさ @harakisa
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