学園城下町のクラゲたち

魔女木直樹

第1章:漂流する影

練馬の街は、福岡の喧騒とはまるで違う静けさを湛えていた。木之本豊は、いとこのアパートの狭い二階部屋で、窓から見える薄汚れたコンクリート壁をぼんやりと眺めていた。引っ越してきてまだ一週間。荷ほどきも半分しか済んでおらず、段ボール箱が部屋の隅に積み重なっている。大学を卒業し、福岡での全てを捨てて東京へ来たものの、何をしたいのか、どう生きていくのか、具体的な答えはまだ見つかっていなかった。

豊は22歳。背は低くはないが、瘦せた体型と少し猫背気味の姿勢が、彼をどこか頼りなげに見せていた。髪は黒く、無造作に伸びた前髪が時折目を覆う。大学時代、彼は「オタク」だった。アニメやゲームに没頭し、深夜までネット掲示板を漁る日々を送っていた。しかし、その趣味が彼を幸せにしたことは一度もなかった。むしろ、アルバイト先のメンズカフェで「オタク」とバレた瞬間から、人生は暗転した。

「あいつ、オタクだからさ。こういうの似合うだろ?」

同僚たちの嘲笑が耳にこびりついている。メンズカフェでの仕事は、客を楽しませるための低俗なパフォーマンスが中心だった。女装したり、わざと気持ち悪い仕草をさせられたり。豊はそれを拒むこともできず、ただ耐えるしかなかった。受験戦争を勝ち抜き、やっとの思いで大学に入ったのに、そこで得たものは屈辱と自己嫌悪だけだった。

福岡での最後の記憶は、警固公園のベンチだ。バイトを辞め、大学も卒業間近だったある夜、豊は酒瓶を手に公園を彷徨っていた。寒風が頬を叩き、遠くで酔っ払いの笑い声が響く中、彼はただ座り込んでいた。そこに現れたのが、丸山素子——モト子——と船橋真理だった。

「ねえ、大丈夫? こんなところで寝たら風邪引くよ」

モト子の声は、柔らかくもどこか母性的だった。彼女は真理の職場の先輩で、たまたま一緒に帰宅途中だったらしい。真理は豊の高校時代の同級生で、卒業後もたまに連絡を取り合う仲だった。二人は豊を介抱し、近くのファミレスに連れて行ってくれた。あの夜、モト子が淹れてくれた温かいお茶と、真理の「また会おうね」という言葉が、豊の心に小さな火を灯した。

それから数ヶ月後、豊は東京へ移った。過去を断ち切り、新しい自分を見つけるために。



豊がその青年と出会ったのは、練馬の裏路地にあるオタクバーの前だった。夜の10時過ぎ、仕事探しの帰りに偶然通りかかったときだ。店の裏口から漏れる怒声と、ガラスが割れる音が聞こえてきた。

「チー牛が調子乗んなよ! お前みたいなのが客に媚び売って何になるんだよ!」

男たちの罵声に混じって、誰かが殴られる鈍い音が響く。豊は足を止め、路地の暗がりを覗き込んだ。そこには、瘦せた青年が地面にうずくまっていた。眼鏡が片方壊れ、頬には赤い痣が浮かんでいる。黒髪は乱れ、服は汚れていた。20代前半だろうか。男たちは彼を囲み、嘲笑しながら蹴りを入れていた。

「お前、中国人だろ? 共産主義者のスパイか何かか? 気持ち悪いんだよ!」

その言葉に、豊の胸が締め付けられた。いじめの構図は、どこも同じだ。福岡での自分と何も変わらない。見過ごせば、またあの時の後悔が自分を蝕む——そう思った瞬間、豊は思わず声を上げていた。

「やめろよ!」

男たちが振り返る。豊は震える足を抑えながら、一歩前に出た。

「何だ、お前? 関係ねえだろ」

リーダー格らしい男が睨みつけてくる。豊は言葉を探し、なんとか絞り出した。

「関係あるよ。俺、こいつの友達だから」

嘘だった。でも、その嘘が青年を救う唯一の手段だった。男たちは舌打ちしつつも、豊の勢いに気圧されたのか、やがて散り散りに去っていった。

青年は地面に座ったまま、呆然と豊を見上げていた。表情が乏しく、まるで感情が抜け落ちた人形のようだった。豊は手を差し出し、ぎこちなく笑った。

「大丈夫か? 立てる?」

青年はしばらく無言だったが、やっと小さく頷き、豊の手を取った。その手は冷たく、震えていた。



その夜、豊は青年をいとこのアパートに連れ帰った。いとこは仕事で不在が多く、今夜も家には誰もいなかった。狭いリビングに座らせ、豊は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

「飲むか?」

青年は首を振った。声を出さないまま、ただ俯いている。豊は缶を開け、自分だけ一口飲んだ。

「お前、名前は?」

「…李(リー)。」

小さな声で、青年が答えた。中国なまりの日本語だった。豊は頷き、もう一度尋ねた。

「オタクバーで働いてたのか?」

「……うん。バイト。でも、もう辞める。」

李の声はかすれていた。豊は彼の顔を見た。頬の痣はまだ赤く、眼鏡の壊れたフレームが情けなく揺れている。どこか、自分に似ていた。苛められ、笑われ、それでも逃げられない弱さを持った存在。

「なら、ここにいろよ。しばらくでいいから。」

李が顔を上げた。驚いたような目で豊を見つめる。

「いいよ。俺、一人暮らしだし。…それに、お前見てると、昔の俺みたいでさ。放っとけないんだ。」

豊はそう言って笑ったが、心の中では別の感情が渦巻いていた。あの時、見過ごした同僚たち。あの時、助けられなかった自分自身。李を救うことは、過去の自分への贖罪なのかもしれない。

「海月って呼んでいいか?」

豊がふと言った。李が首をかしげる。

「クラゲ。ふわふわ漂ってて、でも刺されると痛い。あいつらにやられたお前見て、そう思っただけなんだけど。」

李は少しだけ口角を上げた。笑顔とは言えないが、確かに反応だった。

「……好きに呼べばいいよ。」

その夜、二人は狭い部屋で、それぞれの過去を背負ったまま眠りについた。

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