たゆたう星に花束を
月見 夕
降りそそぐそれは僕らへの手向け
とぷりとぷりと深い波の音が耳の奥でする。
銀色の月を映した水面は遠ざかり、僕の身体はゆっくりと光届かぬ果ての海へ沈んでいく。
苦しくはなかった。生命の終点へ向かう旅路は暗く黒く視界を塗り潰していくけれど、不思議と怖くもなかった。
気が遠くなるほどの時間をかけ泥床に音もなく辿り着き、僕は静かな世界で耳を澄ませる。鐘楼の余韻のような静かな響きは、鯨の声かもしれない。
身を起こすと、名も知らぬ魚の群れが小さな泡を引き連れて去っていく。緩やかに錐揉みしながら上昇するそれらをぼんやりと目で追うと、儚い光を抱いた白鯨が常夜の天蓋を滑り降りてきた。それは夜を泳ぐ海神の名に相応しく、思わず見惚れてしまう。
幽玄な輝きを放つ鯨が優しい瞳を瞬くと、僕の隣に真っ白な気泡の群れが湧き起こった。驚いて身を竦め――泡の向こうに現れた膝を抱く少女に、思わず僕は目を見開いた。
艶めく黒髪は緩やかな潮流に舞い、いつも好奇心を湛えていた大きな瞳は僕を映してそっと微笑んだ。
それはずっと追い求めていた少女に違いなくて、僕の心に楔を打って幻想の海へ還っていった魂そのものだった。
また会えるだなんて、思ってもみなかった。君はここにいたんだね。
遠い昔に映画館で死に、霊になってこの世に居残りスクリーンを眺め続けていた十七歳の君。
永遠とも言える時間に囚われた君の元へ迷い込んだのは、六月の長い雨が降る日のことだった。
ほんの短い季節だったけれど、僕らは映写機が映し出す過去や未来や夢の世界を一緒に眺めたね。
過ぎ行く季節を、本当は君と一緒に生きていたかった。物語の感想を持ち寄り、笑い合った日々はかけがえのないほど眩しかったから。
この先も君の隣にいたかった。既に死んでしまっていた君との出会い自体が、本当はあってはならないことだったんだろう。別れなんて最初から決まっていたんだろうに、この穏やかな日々が永遠に続いてくれたらと、不相応に願わずにはいられなかった。
名前を呼ぼうとして、なぜか声は出なかった。伝えたいことも山ほどあったけれど、深い水底では満足に言葉にすることもできなかった。言葉にしたらそれが最後、この水中世界の幻想が解けて消えてしまう予感があった。分かっているんだ。これが最後の夢だってことぐらいは。
ただ寂しげなその瞳を見つめ返すことしかできなかったけれど、それでも同じ海に溶けあった彼女に、想いのひとさじでも届いてくれたらと願って瞬いた。
彼女は光のない水底を見上げた。僕も釣られて仰ぐと、星が瞬いている。
やがて音もなく星が降ってくる。
静かな水底へ降り積もるそれらは、小さな紙片だった。その一枚をつかまえて、僕は思わず頬が緩む。それは僕の良く知る映画館の半券だった。
君と観た思い出が、深海で無数にきらめいて揺蕩っている。
劇場に囚われ扉の外へ出ることが叶わなかった君と、空を眺めることなんてないと思っていた。
僕らに相応しい星が降る夜に、何度でも奇跡を願わせてほしい。
君の魂が巡ってまた出会うまで、僕はいつまでも待っているから。それまでに僕の命が潰えてしまっても、その時は僕がまた君を見つけるまで待っていて。僕の生命は永遠じゃないからこそ、君のいた世界を最後まで愛そうと思うんだ。だからすぐに追いかけて行けない僕を許してほしい。
生まれて死んで、また生まれ変わって。時間も空間も超えていつか君に追いつくから、どうか。
「またね」
ああ、やっと言えた。
伝えられなかった言葉は偽の星屑に願って、僕の意識は深海の底から浮上する。もう醒めてしまってもいい。あたたかい涙の代わりに結んだ約束は、きっと君の透明の小指と僕を繋げてくれる。
また会うその時まで、君を覚えていさせて。
――――
――
白い朝が訪れて、目を覚ました。
鯨が誘った世界は朝焼けに溶けて、遠い果ての海の音は次第に遠ざかっていった。いつもの天井が僕を迎えて、久しぶりに真新しい息を吸う。
カレンダーを見遣れば、君が姿を消して四十九回目の朝が来たらしい。
ありがとう、最期に会いに来てくれたんだね。
夢の中で久しぶりに会えたあの子は、僕の胸に蟠っていた想いをさらっていった。
次の行先に、僕は着いては行けないけれど。どうか君の次の人生が幸せなものになりますように。
やわらかい朝陽にそう祈り、涙を送り出すように僕はそっと瞼を閉じた。
たゆたう星に花束を 月見 夕 @tsukimi0518
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