桜と涙の関係

片瀬智子

第1話

─── 紗菜side


 

 桜と涙には密接な関係があると思う。

 毎年、春が来るたび出逢いと別れを繰り返して慣れてるはずなのに、今年も桜の季節がやってきて植え付けられた心細さが顔を出した。



 二五歳にして人生のどん底を垣間見たわたしは、とあるブラック企業の社畜として働いていた。お金のため、早朝から終電まで身体もメンタルもボロボロにしながら頑張っている。

 現在は独り暮らし。頼れる家族は近くにいなかった。

 父は数年前、事故で他界していた。家族旅行の帰り、父の運転する車が車線を越え対向車を巻き込む大事故を起こしたのだ。原因は一瞬のわき見運転だった。

 あの一瞬がなければ、過去に戻れたら……何度そう思ったかわからない。

 その事故により当然だった幸せはあっけなく幕を閉じた。わたしは交通事故の加害者家族になってしまった……。今も娘の幸せを第一に願ってる母は、遠方でひとり慎ましく生きている。心配をかけることは絶対に出来ない。


 正社員でないと毎月の家賃さえ不安だし、いつも切り詰めた生活だ。先立つものがないと急な出費にも困るので、仕事を辞める選択はわたしには贅沢だった。

 やせ我慢が得意で、棘のある言葉を向けられても笑顔を浮かべるわたし……。

 気の弱さや悩みを打ち明けられない性格も災いして、いわゆるお局と呼ばれる女の先輩の標的にもなっていった。


 実はここまで頑張ってるのには理由がある。わたしには結婚を前提とした恋人がいるのだ。

 名前は観月みづき貴弘たかひろさん。

 エリート街道というものが可視化出来るなら、それは彼の前にまっすぐ伸びていた。彼はわたしの誇りであり希望。

 きっともう少ししたらまばゆい幸福の中、寿退社を迎える……。それだけを心の支えに、今のわたしは地獄の道を裸足で歩いていた。

 しかし人生は思った通りには進まない。

 他人に期待し過ぎて生きると、いつかどこかで必ずつまづく日が来る。幸も不幸も長くは続かないのが人生の定理だ。

 それを知る時がわたしにもやってきた。

 彼には別のがいたのだ──。



 そのことを知った日、田舎者で世間知らずなわたしは衝撃的過ぎて、暗い告白をした彼のことを何分間も呆然と見つめていた。

「……絶対に向こうとは別れるから」

 彼はわたしを強く抱きしめて、心まで逃がさぬように何度も言ってくれた。貴弘さんの言葉を信じたかったし、自分自身が壊れてしまわないようにするためにも信じるしかなかった。

 わたしの気持ちを知って落ち着きを取り戻した彼は、ぽつりぽつりと最悪な流れにおちいった事情を説明し始めた……。


 わたしが無理を言ってスマホで見せてもらった相手はセレブ系の美女だった。

 女性の中には恋愛をゲームと捉える人種が一定数いて、きっと人の幸せを壊すことにも躊躇せず我がままにボーダーラインを超えて来る。

 確かに彼は何年も彼女と付き合っていると言った。でも心苦しそうにわたしを抱きしめてはっきりと言ったのだ。

 君を手放したりは絶対にしない、信じてほしい。僕が本気で愛して守りたいのは君だと。それからというもの、彼はふたりの時間を一層大切にしてくれた。

 人生に無駄なことなど何もない。今回のトラブルで私たちの愛は深まったとさえ思った。

 だが、それらを見計らったように目ざとい彼女は聞き耳を立てる。彼に関するあらゆる匂わせで、彼女はわたしの心を翻弄した。


 ハイブランドのような高貴さを武器に、勝つ気満々の戦闘態勢で向かって来てるのがわかる。攻撃力が高いタイプだ。

 わたしだって大体の男が目の前の快楽に弱いことは知ってるし、色っぽい女性に言い寄られて喜ばない男はいないと思う。

 しかも貴弘さんはおとなしくて優しすぎるところがあった。長年付き合った彼女と本当にお別れが出来るのだろうか。

 ……でも信じなくちゃ。

 彼はきちんと言葉でわたしを選ぶと示してくれたから。

 それでも怖くて、誰にも相談できなくて朝が来るのさえ苦痛で毎晩泣いた。そんなメンタルでは当然身体にも現れる。体調を崩しがちになった頃、彼の恋人からわたしに電話が掛かってきた。

 来月、わたしは彼女と会うことを受け入れた。


 仕事は相変わらず忙しく待ったなしの状態だった。

 わたしはクレジットカード会社に勤務しており、ほとんどはデスクワーク。でも新規の顧客開拓の営業で、毎週ひとりの外出がある。基本的に木曜の午後だ。

 週に一度のその日は気分転換にちょうど良かった。粗品の代わりに、道行く人に当社に関する一分ほどのアンケートに答えてもらうのが目的だ。

 ほとんどはスルーされる仕事だが、わたしを見下してる同僚やお局の冷めた視線から逃れることが出来てほっとする。


 今日は早めに会社を出て、手作りのお弁当を持って公園へ立ち寄った。ここのベンチからだと今の時期は満開の桜が見える。

 桜の美しさは昼間でも幻想的で、まるでわたしたちを幸せにするために献身的に咲いてるみたいだった。質素なお弁当は代り映えしないものだけど気持ちが少し華やぐ。

 しかし心の奥にある冷たい現実は鉛のように重く揺るがなかった。突然不安が荒波のように押し寄せて、昼間は泣くまいと我慢してた涙が急にこみ上げてきた。



「……大丈夫、ですか?」

 ふいに声を掛けられ慌てて顔を上げると、二十代の女性がわたしに不思議顔でハンカチを差し出していた。パーカーにジーンズというカジュアルな服装の人はコンビニ袋を手にしてるだけだ。

「大丈夫です……すみません」

 年齢が近そうな気心があった。その人はメイクもしてないみたいで、どちらかというと童顔。女の人というより爽やかな女の子という印象。

「これ、もしよかったらどうぞ。いっぱい買ったので」

 コンビニ袋から出してくれたのはパックの苺ミルクジュースだった。

 彼女が笑うと無邪気さがプラスされて気取らない雰囲気がありがたい。せっかくなので、わたしはおずおずとそれを受け取った。彼女が隣に座った。


「ありがとうございます」

 涙声でそう言うわたし。彼女は自分の苺ミルクジュースを取り出してストローを刺す。

「これ美味しいの。甘いものはね、脳の栄養だから心も幸せにしてくれるよ」

 その一言は天使のささやきのようにわたしの胸に響く。ふたりは桜を見上げながらゆっくり甘いジュースを飲んだ。

「あのね。ウチ、あなたの名前は聞かない。でも……悩みがあるなら聞いてあげるけど?」

 わたしが彼女へ顔を向けると邪心のない瞳がこちらを見ていた。

 たぶん全くの第三者というのがよかった。心の距離が近いほど話せないことがある。わたしは一度鼻をすすってから素直に頷いた。


「実は、結婚したい彼がいるんです……でもその彼にね、長く付き合ってた彼女がいることがわかったの。わたしは、一年くらい付き合ってるんだけど……全然知らなくて。びっくりした。その彼女さん、やっぱりすごく怒ってて今度ふたりで会いたいって。彼は……わたしと結婚したいって言ってくれてるけど……どうなるか、実際わからなくて」

 わたしの話はしどろもどろで、今にもまた涙が零れ落ちそうだった。女の子は桜に視線を向けたまま話を聞いてくれていた。


「あなたは彼のことが好きなの?」

 わたしは彼のことを愛してる。

「彼氏さん、どんな人?」

 彼はすごく優しい人。わたしのことを助けて愛してくれた……。

「例えば?」

 例えば?

「前にね、わたしが電車の中で気分が悪くなったことがあって、みんなは知らんぷりするのに彼は助けてくれたの」


 ふーん。他には?

「え、そんないくつも急には思いつかない。あ……そうだ彼ね、大学生の時に子猫を飼ってたんだけど、彼が目を離した隙に子猫が足に怪我をしたらしくて……。それが自分のせいだって。何年経った今でも自分を責めてしまって思い出すとつらいって言ってた。動物にも優しいの。めちゃくちゃ過保護にして可愛がってたらしいです。名前も可愛いのを付けてあげて、確か人間の女の子の名前だった」

 そのエピソードを思い出すたび、わたしの心は震えた。

 彼は人にも動物にも隔たりのない優しさを与える。困っているものに愛情をかける。優しさを恥ずかしがらず行動にうつせる純粋な人だ。


「彼氏さんは学生時代、そっちの彼女と同棲とかしてたの?」

「……全然わからない、聞かれるのが嫌みたい。いろいろ聞かないっていう約束で、その彼女の写真を見せてもらったの」

 苺ミルクを手にした人は興味深そうにこちらを見る。

「へー、どんな人だった?」

 すごく綺麗で頭もよさそうで大人っぽくて、彼にお似合いの人だった。

「どんなって言われても……サッと見せてくれただけだし、しかも写真ブレてたからよくわかんない」

「そっか。……なんかいろいろ聞いてごめんなさい」

 女の子は聡明だった。わたしが話を続けたくないと察したのだろう。苺ミルクのパックを細い指でくしゅっと潰した。


 ハッとしたわたしは気まずくなり急いで謝る。 

「こちらこそごめんなさい。せっかく心配してもらってるのに変な言い方しちゃった。……すごく綺麗で、文句のつけようのない人だった」

「そう、なんか想像ついた。ウチはさ、スマホに違う彼女の写真入れてる時点でその彼氏もどうかと思ったよ?」

 わたしに問う。若干辛辣な言葉だが、可愛い声や悪気のない雰囲気で嫌味には聞こえない。

「その写真ね、女の人が勝手に送り付けてきたみたい。植物園に行ったとかで、薔薇の前で撮って送ってきたんだって」

 私はこの赤い薔薇に負けてないでしょアピール。

 綺麗で心の強い太陽みたいな女性だ。

 地味で何の価値もないわたしなんて絶対かなわない。束の間、彼と付き合えただけで幸せって思うしかないのかな。しかも出逢ったのはわたしのほうが断然遅いのだから。


「その彼女と彼氏さん、一緒に子猫を育てたのかな?」

 何か腑に落ちない感じでその子はぽつりと言う。

「……ちゃんとは聞いてないけど。その時期はもう付き合ってるから、たぶん子猫とは関わってると思う」

 わたしは答えた後、なぜそんなことを聞くのか不思議に思った。そうしたら意外な返事が返って来た。

「気になることがあると突き止めたくなるの。気にしないでウチのこと……ただの職業病だから」

 可愛く含み笑いをする。

「作家なの、ミステリーを書いてる。まだ全然駆け出しだけど」


 は?

「えっ、ミステリー作家?! すごーい、すごいね」

 わたしは驚いて目を丸くさせた。作家なんて本当にいるんだ。まあいるとは思ってたけど、今まで実際に会ったことはなかった。

「ちょっとそんな大きな声出さないでくれる? 恥ずかしいよ。ウチ作家って言ってもまったく売れてないし」

「そんなの関係ないよ。物語書ける自体すごい! わたしとか何か書こうと思っても三行で終わるもん」

 爆笑しながらいつの間にか早口で喋ってた。女子あるある、気が合った途端ボリュームMAXで盛り上がる迷惑な人たちだ。

「もう、ほんとにウチすごくないの! 毎日行き詰ってて、今日もなんかいいネタないかなあって考えながらコンビニに来たんだから!」


 また可笑しくなって、お互いの手に触れて笑い合った。

 わたしたちがまとった春の陽光が心地いい。肩に乗った桜の花びらをその子が取ってくれて、ふたりの距離が一気に縮まった。

「でも、君に会えたからコンビニに出かけた意義あったかも。……そんなに落ち込まないで。無責任って思われるかもしれないけど、でもウチは笑ってる君のこと可愛いって思ったよ。彼氏さんもそう思ってるんじゃないかな」

 初めて会った人の言葉が心にあたたかい。今までつらいことが多かったけど、楽しいこと幸せなことも同じくらいこの世界にはあるはずって信じたくなる。

「……ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい。ちょっと元気出た」

 わたしははにかんで言った。今日の公園の桜はいつもよりずっと輝いていた。


「ねえ、時間は大丈夫? 仕事中じゃないの?」

 その言葉でわたしは急いで時計を確認する。まだ一件もアンケートを取っていない。ヤバい、これではまた会社で怒られてしまう。どうしよう。

「あの、もしよかったら……アンケートってお願い出来ますか? タブレットで一分ほどで終わります。飴とポケットティッシュも差し上げます」

 あげるものがポケットティッシュとかしかなくて申し訳なく思いながらも、わたしはミステリー作家さんに尋ねた。

 気さくに笑ってアンケートに答えてくれる。

「お仕事がんばって。彼氏さんとのこと上手くいくといいね」

「はい。わたしも作家さんのこと影で応援してます。執筆頑張ってください」

 最後は視線で無言のさよならを言う。

 もう会うことはないかもしれない……どちらとも声には出さず、好意の眼差しをお互いに向けてベンチを離れた。



「ちょ、ちょっと待って。ねえ!」

 歩き出して少しした時、背中越しの声に呼ばれてわたしは振り返った。なぜだか驚いた様子でこちらに向かって手を伸ばしている。

 戸惑うわたしに、たった今閃いたという感じで焦り気味にミステリー作家は言った。

「あのね、今度君が向こうの彼女と会うとき……出来たら、ある芝居をしてほしいの! 簡単よ。彼女との話し合いの帰り、テーブルから立って出て行くときにね、そう例えば……大袈裟に人か、よそのテーブルでも何でもいいからぶつかって音を立てて! ただ周りの気を引いてほしいの、出来るよね? そしてその女性に姿を見せてほしい。それだけ、ウチと約束できる?」


 お芝居?

 よくわからないが彼女との話し合いの帰り、わたしの後ろ姿を彼女に見せればいいってことだよね。うん、それくらいなら出来ると思うけど。

 でもそれにどういう意味があるんだろう。

「またここで君と会えるかな。その時、彼氏さんとどうなったか教えてほしいな」

 わたしたちは再会を約束した。無邪気な作家さんは笑顔で手を振っていた。




* * * * * * * *

─── 真梨香side




 この世界では私が物語の主人公だ。

 私の都合で状況が変化し、私の気持ち次第で役者は動く。

 いくらエゴイストだと思われようと正直そうやって生きてきた。

 だから貴弘たかひろのカバンから長い髪の毛を見つけたときも、深夜スマホ片手に長電話する姿を見かけても、事実から目をそらしてまさか彼が浮気なんてするはずないとたかをくくっていた。


 貴弘は優しくておとなしい恋人だった。

 知り合ったのは大学生の頃、友人の飲み会にたまたま居合わせた。

 その頃から存在感のないタイプだったから人数合わせに呼ばれたに違いない。身なりが良く、いつもニコニコして感じのいい印象が記憶にある。

 付き合うことになったのは出会って三ヶ月くらいして。

 偶然大学近くの駅のホームで会い、私がカフェに誘った。ちょうどバイトまでに時間があったのと彼について興味があったからだ。


 当時すでに情報通の女友達から彼の噂は聞いていた。東北に本社を持つホテルチェーンの御曹司おんぞうしらしいと。

 しかも「次男だから、もし結婚しても東北にとつがなくてもいいんじゃない。東京にもホテル(彼の職場)があるんでしょ、最高じゃん」なんて、安易な親戚のおばさんみたいな噂。

 確かに私たちみたいに、美しいだけの繊細なネイルで雪かきは想像出来ない。

 彼の肩書きは恋人の条件にひとつずつ当てはまっていった。


 友人に先を越される前、ばったり彼と出会えたのは今でも運命を感じる。

 その頃の私はまだ子供っぽくて恋もゲームのようにとらえていた。

 人の心を勝ち取れるかどうか。

 特に私は自己肯定感が高いほうで、甘やかされて悲しみの経験はほとんどなく、楽しいかかの感情を行き交っていた。

 ませてるのに感情に左右され過ぎて幼稚なのだ。

 おそらくそれらがバランス良く構成され、私の外見も合わせて相乗効果を上げていたのでなおさら始末が悪かった。



 そんな私にある日、絶望という名の出来事が静かに近寄ってきた。

 私たちが安易に使う言葉とは訳が違う、本物の絶望だ。

 突然の彼の朝帰りに落ち込む間もなく「貴弘くん、街で知らない女の子と手を繋いで歩いてたよ」と噂好きな友人から情報が入ったのだ。

 やっぱり……と、私の中の不安要素が結びついて納得した。

 女の勘は生きていく知恵。

 あの夜、スマホの相手は彼女だったのかと冷たい怒りが生まれた。

 いくつかの不穏な欠片かけらに、彼の浮気というワードを結びつけるとすんなり謎が解けていき私は愕然がくぜんとした。


 貴弘と私は五年くらいの付き合いになると改めて思い起こす。

 私は二六歳になっていた。

 友人の中で早い人はもう子どもがいる。

 母親からも「そろそろ貴弘さんと結婚?」なんて言葉も聞いてるのに、今さら別れる選択なんてできる?

 私たちには積み上げてきた歴史があり、乗り越えてきた過程もあるのだ。


 そういえば大学時代、貴弘は先天性の病気を持つ保護猫を飼っていた。

 あんなに可愛がってたのに不注意で足に大怪我をさせてしまい、必死で看病したが弱い子猫は残念ながら力尽きてしまう。

 ルミという名前の、頼りない怯えた瞳の猫だった。

 動物病院からの帰り道は後悔の気持ちばかりあふれてふたりで散々泣いた。愛情深い彼は最後、『留未』という漢字を子猫に贈ると言っていた。

 生まれ変わったら、来までずっと僕の元にまっていてくれますように……という願いを込めて。


 私にはわかる。

 貴弘は自分から別れを切り出したりはしない。

 私を傷つけることは出来ない。優しすぎる。

 たぶん、始まりも終わりも私が決めるのだ。

 それを思うと彼の残酷な優しさに初めて心が乱れ、頬に涙がつたった。

 三日間考えあぐね、私が出した提案はこうだった。浮気相手の彼女とふたりきりで話し合いたい──。

 貴弘は最初驚いて拒否したが、私の意志が固いことを知ると黙って引き下がった。

 場所は都内近郊にある老舗ホテル内のカフェ。

 なるべく敷居の高い場所がいい、高級感で相手を萎縮いしゅくさせたかった。





「初めまして。……宮越みやこし紗菜さなといいます」

 すでに到着していた彼女はうつむき気味に言った。

 長い髪の色には見覚えがあった。

 モノトーンのシンプルな服装に、素顔に近い月並みな顔立ち。細い身体が頼りない。


市井いちい真梨香まりかです」

 大手の化粧品会社で働いてる私は完璧にメイクしているほうが自然だ。

 今日も頭の上からつま先まで隙がない。

 ふたりの年齢はほとんど変わらなかったが、まわりから見れば私のほうがいくつか年上に見えるかもと思った。


 今いるこのカフェは、私たちのような若いお客は少なかった。

 そもそも平日の午前中だからだろう。

 モーニングを終えた優雅なマダムや上品なご年配の夫婦が、紅茶を楽しんだりゆっくり新聞を読んだりするのが見える。

 私は押し黙ってる紗菜へ話を切り出すため、まずは熱いダージリンティーを口にした。


「……宮越さん、わかってると思いますが。今日こちらに来てもらったのは、観月貴弘さんの件です。私と彼はもう五年ほど付き合っています。なのに浮気だなんて……私たち、はっきり言って今回のようなことをされては困るんです」


 ここで私は、あえて『私たち』という言葉を選んだ。

 貴弘も私と同じ気持ちということをこの人に知ってもらう必要があったからだ。

 彼女はぴくりともせず、話を聞いている。

「これ以上、彼とは会わないで頂きたいんです」

 私の最後通牒さいごつうちょうに紗菜がやっと反応した。


「市井さん、貴弘さんと……お付き合いをしてしまって、すみませんでした。わたし、彼がほかの人とも付き合ってるなんて知らなくて。あの……でもわたし、市井さんに言わなければいけないことがあります」

 途切れ途切れの言葉とは対照的な紗菜の真っ直ぐな瞳に、私は嫌な予感を覚える。

 彼女はそのまま続けた。


「わたし……何度も何度も諦めようとしたんです、彼のこと。でも……ダメで諦めることが出来なくて、今日は市井さんに自分の気持ちだけお伝えしようと思って……ここに来ました」


 予想外の言葉に驚いた。

 こんなの、宣戦布告せんせんふこくではないか。

 紗菜は精いっぱい恐縮してるように見える。少し震えている。

 だからってこんなのが許される訳ない。

 貴弘と私は長年の恋人なのだ。

 最近出会ってちょっといいなくらいで、彼を寝取られるなんてありえない。

 そんなことで私が振られるなんてありえない。

 何もかも、今起こっていることが理解出来なかった。


「宮越さん、ご自分が何を言ってるのか分かってますか。あなた、貴弘と別れないって恋人の私に言ってるんですよ」

 思わず語気が強くなる。

 斜め向こうの年配の女性が、新聞の端から好奇の目でこちらを見た。

「……ごめんなさい」

 紗菜は消え入りそうな声で言う。

 少しでも傲慢ごうまんな態度を見せられたら、強い怒りが込み上げてきそうだった。


「ごめんなさいじゃないの。私は彼と別れてと言ってるんです。出来る出来ないじゃなくて……すぐに別れてください」

 もっとも真っ当なことを言ってる自信が私にはあった。

 彼女は悩む暇があるなら、今すぐメッセージなり何でもいいから行動すべきだ。


「貴弘さんは、初めて本気で好きになった人……なんです」 

 その後は空間を薄くなぞるクラシック音楽だけが聞こえていた。

 それほど静かに紗菜は泣いていた。

 だが彼を失いたくないと全身で叫んでるようにも思えて、私は少し怖くなる。

 彼女は言葉を選びながら喋り出した。


「貴弘さんと出会ったのは、一年ほど前でした。仕事帰りの電車の中です。夜遅くて……満員ではないですが椅子が空いてなかったので、わたしはドアのあたり、暗い窓の前に立ってました」

 ハンカチを強く握りしめて言う。


「疲れてぼんやりしていたら、突然電車が……対向車両とすれ違って風圧でドンっと大きな音がしました。わたし、すごく驚いて怖かった。息が苦しくなって……その場にしゃがみ込んでしまったんです」


 対向車両がすれ違うなんてよくあることだ。

 スピードが出ている電車の場合、鉄と鉄に挟まれた空気の抵抗で一瞬激しい衝撃を感じる。

 とはいえ、そんなことで具合が悪くなる人などいないと思う。

 紗菜は私の考えを見抜いたらしく、急いで話を続ける。


「市井さん、知ってますか。交通事故で……車同士の衝突の場合ですが、ぶつかる瞬間の感覚が電車のすれ違いの時とよく似てるんです。一瞬強い風圧で耳を塞がれ、時間が飛んでしまう感じ。わたしは前に、車の事故にっていてそれを思い出したんです。大きな事故です……家族で乗ってた車は、大破しました」


 そういうことか。

 紗菜は自分が遭遇そうぐうした車の衝突事故を思い出して気分が悪くなった。トラウマが蘇ったのだ。

「ああ、そう」

 唇を噛む彼女の怯えたまなざしを私は無視した。


「……その時、貴弘さんがわたしに声を掛けてくれました」


 貴弘らしい行動だと思った。

 誰にでも優しい男。

 車内で具合が悪くなり、しゃがみ込んだ彼女を心配しただけ。

 誤解したのは彼女。

 それを恋に発展させたのはやはり紗菜のほうだ。

「貴弘さんはわたしに手を差し出して、こう言ってくれました」



 ───こっちにおいで。

    一緒に帰ろう。



「は? それで彼を好きになったっていうの?」 

 うんざりして私は言った。

 バカみたい。怒りを通り越して冷静さが勝る。

 そんな他愛のないことで浮気が始まって、私を傷つける結果になったんだ。

 彼女の気持ちは知りたくもないが、そう思ったら少し気が楽になった。


 貴弘の熱はそのうちに冷めるだろう。

 久しぶりに女の子から好意を持たれて浮かれてしまっただけ。

 そうだ。

 これを機に、私たちは結婚の準備を始めたほうがいいかもしれない。

 新しい思いつきに私は気分が良くなり、窓の外の庭園を眺めた。春を喜ぶ美しい桜に眩しい光が差している。

 来年のこの季節がいい。

 名前も知らぬ小鳥が二羽、青空へ向かって同時に飛び立った。



「宮越さん、話は分かりました。でも、これでは平行線のままなので今日のところは終わりにしましょう」


 今日のところは──と言ったけれど、次があるとはまったく思ってない。

 私の心はもう結婚という自分の未来へ興味が移っていたのだ。

 彼女を前にしながら、すでに私には関係のない人間としか思えない。不安は何もなかった。


「また……連絡をお願いします」

 白いショルダーバッグを手に取ると、紗菜は小さく会釈をして出口方向へ身体を動かした。

 私は目立たないように軽く伸びをする。

 肩がこってる。知らずに緊張していたせいだ。

 でも終わった。今まで嫌なことなど続いた試しはない。

 私は人生において、端役の登場人物ではないのだから。

 微笑みを浮かべゆっくり立ち上がろうとした際、紗菜がよそのテーブルにぶつかり音を立てるのが聞こえた。周囲にあやまる後ろ姿が目に入る。


 そこで私は目が釘付けになった──

 先程は見えていなかった特徴的な足を引きずる歩き方に気付いたからだ。わずかに左足を庇うような、ぎこちない歩き方。

 足の怪我?

 そう言えば……。

 彼女が話していたことを思い返す。


 車同士の衝突事故、家族で乗っていた車が大破、交通事故のトラウマ、それから……彼女のまなざし。

 紗菜のあの歩き方は事故の後遺症に違いなかった。



 それを理解した直後、まわりに気づかれぬよう慌ててまた窓の外に視線をやる。

 喉の奥が苦しい。すっと血の気が引くのがわかった。

 突如とつじょ世界の色が一変し、不幸が私におおい被さってくる。

 光の庭園に薄闇うすやみが掛かった。

 まさか、そんな……。


 貴弘が愛しくてたまらないのは私じゃない───紗菜だ。


 私はすでにこの勝負に負けている。

 どうしようもない悔しさと虚無感が一度に押し寄せ、視界が涙で曇って見えなくなった。

 深い谷底にどこまでも落ちていく感覚。

 絶望の底に取り残されるのは言うまでもない、私。



 ───こっちにおいで。

    一緒に帰ろう。



 彼は手を差し出し、確かにそう言った。

 貴弘は見つけたのだ。


 なくし物はいつも思ってもみない場所から現れる。

 無気力な仕事帰りの電車にいたのは、怯えた留未ルミの瞳を持つ女性だった。

 彼にとって紗菜は留未。

 自分の不注意が原因で亡くした、足を怪我した可哀想な子猫。


 私は気づいた。

 やっと子猫は貴弘の元へ戻って来た。

 もう二度と、彼は留未を離さない。

 


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