杉の木陰

烏丸ウィリアム

杉の木陰

 ある小さな病院の待合室。一人の女性は、夫が診察を終えるのを静かに待っていた。その日は春の訪れを感じさせるような、暖かい日。窓の外からは杉の木が優しく揺らめいていた。こんな日に、突然の出来事が彼女に降りかかる。

 診察室の扉が開かれる。夫は涙を溜めて歩いてくる。


「ど……、どうしたのよ?」

「聞いてくれ……。俺、不治の病だって言われたんだ……」


 夫の言葉に、女性は自分の耳を疑った。酒もタバコもせず、ジムにも通って健康には誰よりも気を遣っているはず。それがいきなり大病だなんて、信じられなかった。


「で、でも何かの間違いじゃ……」

「俺だってそう思いたい。だけど医者が言うんだから間違いないんだよ」


 夫は隣に腰をかけて話を続けた。その目は真っ赤に充血している。涙をこぼさないように、何度もぱちぱち瞬きして我慢しているようだった。


「どうにかできないの!?」

「薬はあって、一時的に楽にすることはできるみたいだ。だけど、根本から治すことはできない。一生苦しみ続けるって」

「そんな……」


 女性はしばらく言葉を失っていた。まるで命綱が切れてしまったような気がしたからだ。この女性は夫と二人、細々と、それでも確かにここまで生きてきた。その夫を失うなんて考えられなかった。


「これからずっと苦しみを抱えていくことになる。今でもこんな有様なんだ、きっとこれからもっと酷くなるんだろう」


 女性は黙って話を聞いていた。肯定する言葉も否定する言葉も出なかったからだ。しばらくして、彼女は言った。


「私は……、あなたのためにできることは何でもするわ! 一緒に頑張りましょう!」


 女性は彼の手を取って、優しく握る。


「そんなに真剣になってくれるなんて嬉しいよ。俺も頑張る」


 二人は、小さな教会で誓い合った。病めるときも健やかなるときも、共に支えあい乗り越えていくことを。その誓いを、今果たそうとしているのだ。


 ☆


 その日から、夫はあまり外に出なくなった。最低限の仕事や買い出しに行くのみで、散歩などは一切行かない。そして、時々窓の外を見ながら目を潤わせるのだ。薬の量も明らかに増えていて、事の重大さを感じた女性はその姿を心配して声をかける。


「ねえ、本当に大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」


 夫の顔は笑ってはいるが、その笑みには力がなかった。何事にもやる気をなくしてしまったような、そんな風に見えた。夫は再び窓の外に視線を移す。そして、聞き取れるかどうかわからないほどの小さな声で呟いた。


「いい天気だな……。こんな日には歩き回りたいのに」


 その言葉を聞いた女性は、全てを察する。夫の体はもうすでに限界なのだということを。そして彼女は決意するのだった。夫の病気を治そうと、今まで以上に自分を犠牲にしようと。そして、何も言わずにその場から立ち去ってしまった。


 ☆


 一ヶ月後、再び病院に行く日が訪れた。女性は、夫を車に乗せて病院へ向かう。


「なあ、今日はどうしたんだ?」

「別に、なんでもないわ」


 彼女は笑顔で答えた。その笑顔にはどこか陰りがあった。夫はそれに気づいていたが特に何も言わなかった。そしてそのまま二人は病院に到着した。受付を済ませて待合室で待っていると、すぐに名前を呼ばれた。

 そして、しばらくして出てくる。


「ど……、どうだった?」


 女性は恐る恐る尋ねる。


「ああ、前と同じ」


 夫は極めて普通に、淡々と答えた。


「なんでそんなに興味なさそうなのよ!」


 思わず女性は声を荒らげてしまう。


「いや、むしろこのくらいで大げさだよ」


 女性はついカッとなってしまった。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなってしまう。ただ、自分の感情を落ち着かせることだけに集中していた。それでも抑えきれず、拳を下で握りしめてしまう。


「花粉症だよ、俺」

「え?」

「花粉症」

「……え?」


 こんなやり取りを三回ほどした後、女性はやっと状況を察することができたのだった。そして、思わず吹き出してしまう。


「いや、確かに不治の病だけど!」

「いやー、隠しててごめんね。ふざけてそう言ってみたけど、君があまりに熱心だから言い出せなくて」

「そうだったのね。でも、安心しちゃったわ。ちょっとこっちに来てくれる?」


 女性は夫を近くに呼び寄せ、そっと頬に手を当てる。


「オラッ!」


 そして、強烈な平手打ちが炸裂。


「無駄に心配かけさせやがって! 冗談じゃ済まされねえぞ!」


 夫は打撲により、全治三ヶ月となった。

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