あなたを幸せにする怪談

嶋田覚蔵

第1話 娘のお小言

「お父さん、お父さん。そんなにお酒飲んじゃダメだって。もうそのくらいにして今日は寝たら。あと、さっきお母さんのこと怒鳴っていたでしょう。お母さんが気の毒だわ。お母さんにちゃんと謝っておいてね」

 水曜日の夜の食卓。娘がいつもの、会社に出勤するときのスーツ姿で、普段通り娘の席に座っている。そして私にお小言を言っている。

 まぁ、当然だ。私はダメな父親だ。50歳にもなってただメソメソ泣くばかり。

「心が弱っているときは、身体をちゃんとするのが基本だよ。規則正しく寝て起きて、きちんと3食食べて、合間をみて運動もすれば、身体が元気になって、だんだん心も強くなれるよ。ねぇ、お父さん。今日はもう寝て。明日から頑張ってみようよ」

 娘の言うとおりだ。心がふさいでいるからと、身体を動かさないでいると、心も身体もさらに重たくなってきて、心は暗く、身体も動きにくくなる。

「分かったよ。もう寝るよ。今から寝て、明日は朝6時に起きて、起きたらシャワーを浴びるよ」娘がこんな状態なのに、これ以上心配かけるのは申し訳ない。娘に立ち直る意思を伝えた。

「そうね。そうするといいわ。あとね、もうひとつだけ言ってもいいかな」

 娘は私の顔をのぞき込むように前かがみになって言った。

「あのね。あの人のことを恨むのはもう止めて。恨んでも憎んでも、なにも解決しないし、

お父さんの心が、黒く塗りつふされていくだけで、お父さんの害になるだけだよ」

 娘の言うことは、理解できる。私の心は怒りで煮えたぎっている。おそらくあの男が目の前に居たら、私は躊躇なく男を殺そうとするだろう。

「私が子供の頃、お父さんはよく教えてくれた。『人は感謝すれば心が光で満たされる。逆に誰かを憎んだりすると、心がだんだん暗くなる。だから人は憎まず、人に感謝して生きようね』って。自分で言ってたんだから、ちゃんと実践してよ」

 そう言うと娘は優しく微笑んだ。

 そうだよ。そうなんだよね。娘の言うとおりだ。人を憎んだり恨んだりしたところでなにもはじまらない。

「うーーん。なかなか難しい話だよね。でもその方向で努力してみるよ」

 私は娘に、精一杯優しい笑顔を返して言った。

「よかった。約束よ」

 そう言うと、娘の霊は、霧のように霞んで消えてしまった。

 

 娘が殺されたのはちょうど一週間前。出勤するためマンションに併設された公園を歩いていた時のことだ。娘を待ち伏せしていた、島田という男にサバイバルナイフで胸、腹、背中を計六ケ所。どの傷も、恨みがこもった深い傷だったそうだ。

 島田は私たちがこのマンションに引っ越ししてきた直後、娘が小学五年生になった時、同級生だったようだ。島田は当時、問題行動が多い子供で学校を休みがちだったから、娘はよく覚えていないらしい。しかし島田は娘に恋心を抱いていたらしい。後で分かったことだが、島田は中学、高校、大学と女子校に進学した娘をずっとつけ回していたようだ。

 そして大学2年の春。島田は娘にラブレターを手渡した。私も見たけれど、ミミズが這ったような文字で、なにか「好きです」。「愛してます」みたいなことを繰り返していた。

娘は当然断った。それでも島田はあきらめずに娘をつけ回していた。私たちは、娘もだが、島田という男を甘く見ていた。小柄でいつもニヤニヤしていて、人に害を与えるようなことはやらないし、できない男だと思い込んでいた。警察に通報して大事になるのも避けたい気持ちがあった。

 それが今年の春、丸の内の企業で働き始めた娘に島田が襲いかかったのだ。娘が出勤した直後、私とお母さんは耳をつんざくような悲鳴を聞いたのだ。もしやと思って公園まで駆けていくと、そこには大きな血だまりに浮かぶ娘がいた。私たちは、絶叫号泣した。


 翌日。私は娘との約束通り朝6時に起きて、シャワーを浴びて、食パンをかじった。

することもないし、お母さんと気まずい思いをしながら家にいるのが辛かった。それで久しぶりに会社に行った。会社に行くと上司や同僚が腫れ物に触るように接してくる。それがかえって心に痛い。「針のむしろ」というけれど、こういうことかと初めて理解できた。

 それでも定時の5時半まで頑張った。家に帰る前にスーパーに寄ろうと思った。もう家には食べるものがほとんどない。お母さんは無気力で買い物にも出かけられない。

 肉、卵、牛乳、カップ麺。必要最低限のものを買った。すると近所のオバさんに出会った。自治会でたまに顔を合わせるオバさんだ。

「娘さんがあんな殺され方をしたのに、のほほんと買い物ですか」

 オバさんは思ったことをズケズケと言う。

 ちょっと待ってくれよ。被害者の家族だって食事くらいはする。それとも被害者の家族は、買い物も食事もしてはいけないと言うのか。自分の血が逆流するのを感じるほど腹が立った。家に帰る。お母さんは寝ていたけれど、私が帰ると辛そうにしながらも、ハムエッグと冷や奴を作ってくれた。ご飯は炊いてある。

 私はひとりぼっちの食卓で食事する。ご飯をかみしめていると怒りがだんだん湧いてきた。

「私は被害者の父親だ。何も悪いことはしていない。だけどなぜ、こんなに苦しまなきゃいけない。世の中は理不尽だ」

 すると天井に足をつけてぶら下がる形で、娘の霊が現れた。娘自慢の長い黒髪が、テーブルにだらんと垂れている。顔は逆さまになって私の目の前にある。

「おどうさーん。またヒトをウラんでココロが暗くなっていル。それよくないヨ。言ったでしょ」

 私は娘の様子、言葉から娘があの世の存在になりかかっているのを感じた。

「ゴメンヨ、ゴメン。お父さんが悪かった。今日は久しぶりに仕事に行って、買い物にも行ったりして、いろいろ嫌なことがあったんだ。それでツイ、怒ってしまった。ゴメンネ」

 私は娘の霊を鎮めようと、必死に謝った。

「わたスは、おとうさーんの心が心配なノ。怒ったってきぶんが悪くなるのはおとうさーんだけ。ホかは、なにも変わらなイ。だったら怒っただけソンでシょ」

「そうだね。その通りだよ。お父さんが悪かった。今日は風呂に入って、何か楽しいことを考えながら寝るよ。もう怒ったりしないから、心配しないでおやすみなさい」

 娘の霊は安心したのか、消えていった。

 私は風呂に入りベッドに潜り込んだ。常に頭の中で、大好きな三河屋の大ぶりなエビフライを食べた時のことを思い出していた。プリプリとした身が、口の中一杯になって、エビ独特の甘さを感じる瞬間。その幸せを何度もかみしめながらその日は寝むりについた。


 その翌日も朝6時に起きた。パンをかじって会社へ行く。お母さんは寝室に籠りっきりだった。仕事は昨日よりだいぶ楽にこなせた。帰りにスーパーへ寄った。嫌なオバさんは居なかった。

 家に帰る。今日はお母さんが起きてこない。仕方がないからレトルトカレーをご飯にかけて食べる。それからあとかたずけをすると、なにもやることがなくなった。今日は金曜日、明日は休みだ。それならちょっとぐらいいいかなと思って、ロックグラスにウイスキーを注ぎ、氷を浮かべた。私はお酒が大好きだ。モルトの香り、グラスが汗をかいたように水を滴らせる感じ。それらは私を幸せに導いてくれる。唇を湿らす程度にお酒を口に含む。スモーキーな香りが身体を駆け巡る。まさに至福の時間。

 その一杯で終わらせられれば良かった。私はついつい2杯、3杯と調子に乗って飲んでしまった。飲み過ぎると最初は楽しいお酒だったのに、なぜか怒りに変わっていく。そしてついつい怒りの矛先がお母さんに向いてしまう。

「私はこんなに努力して、社会復帰しようとしているのに、お母さんはいつまで家にこもっているつもりだろう」

 そうだ。このままじゃお母さんのためにもよくない。お母さんに小言を言ってやらなければならない。

 私は酔っていた。ヨロヨロと立ち上がり、お母さんがいる寝室に向かおうとした。

「おトさん、やめデー」

 壁から顔だけ出ていて、その顔はそれぞれのパーツがグチャグチャになっている。娘はどんどんあの世の存在に変わりつつあるようだ。

「おサげにヨっパらって、人にナニかをイうの、ダメ。エグない」

 娘は悲しそうに言う。

「もうアダシは、このヨにイられない。おトさんとハなすの、これでオワリ。ダガら、よくきゲ、人を怒っても恨んでもダメ。意味ナい。おトさんの心、みにくくなるだけ。ヒトの心はアイしているドき、かんしゃしているトきだけ、イミがある。チカラあるノ。お願いサイゴ…」

 そう言うと娘の霊はどこか遠くへ消えてしまった。


 翌日は晴れていた。その日は休みで私はすることがなかった。それで恐る恐る、娘が亡くなった場所に行ってみることにした。あれから私は一度もその場所に行ったことがなかった。早朝で誰も人は居なかった。

 想像していたよりもはるかに多くの花束やお菓子、飲み物が供えられていた。そしてそれらには短い手紙が添えられていた。

「ご冥福をお祈りします」

「天国で幸せになってください」

「安らかにお眠りください」

 娘の心に寄り添う言葉か、そこにはたくさんつづられていた。私は人々の優しい気持ちに触れ、ちょっと嬉しくなった。お礼の言葉を述べなければ。そう思って自宅に帰る。

 A5のコピー用紙に書いた。

「娘のためにお供えをして頂いた皆さまへ

 ありがとうございます。私たち家族と娘は

 皆さまの暖かいお心に触れ、どれだけ心が救われたか、わかりません

 ありがとうございます。

 皆さまのご健康をお祈りしつつ、感謝の言葉を捧げたいと思います。

 ほんとうにありがとうございました。」

 

 ただ感謝だけ詰め込んで文書にした、弱い糊をつけて現場近くの壁に張った。

 強い風が吹いていた、それでもその紙は剥がれなかった。

 錯覚だろうか。私には生前の美しかった姿そのままの娘の霊が紙を抑えてくれているように見える。そして私の心に感謝の灯がともる。この灯が一生心に、ともっていますように。

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あなたを幸せにする怪談 嶋田覚蔵 @pukutarou

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