七日間のラプラス

水科若葉

七日間のラプラス

 三枝音葉は十七歳だった。

 目覚めてから何年が経過しているのか、正確な所は分からないけれど、生まれてからずっと『十七歳』という私のプロフィールは僅かも変化していない。

 ……別にアイドルというわけじゃなくて、多分、この身体は成長しないように出来ているのだと思う。ヒューマノイドか何か――成長しない人間の存在を都合良く思う誰かによって造り出された人間もどき、そう考えるのが妥当だ。でなきゃ流石に、何年も身長はおろか髪や爪の長さまで変わらないことの説明が付かない……まあ、と言っても他の人間を直接見たことがあるわけじゃ無いから、全ては憶測の域を出ないのだけれど。

 牢獄生まれ、牢獄育ちの人でなし。

 ともあれ、私はそういう生き物だった。


 一日目


「……ん」

 るるるる、という電子音で目を覚ます。私は目覚まし時計を止め、軽く伸びをしてからベッドを降りた。

 寝起きで上手く働かない頭を左手で叩きながら、キッチンへと重い身体を運ぶ。食パンを一枚トースターに突っ込んで、併設された水道で顔まで洗ってしまいたい気持ちを押さえ、洗面所に向かった。

「ふう……」

 タオルで水浸しの顔を拭いて、ようやく頭がスッキリする。どうせ食後もするからと歯磨きは軽めに終え、キッチンへ戻ろうとして――ふと、鏡に映る自分自身と目が合った。

 ……不愛想な表情だ。見る人が見れば、一目で底の浅さが割れてしまうのでは無いだろうか。

「……はあ」

 ため息を一つ。私は小さく首を振り、踵を返した。


 ダイニングテーブルに着き、ピーナッツバターを塗った食パンを食べながら、私は改めて周囲を見渡す。

六面が真っ白く覆われたその部屋は、一切の窓が存在しないことを除けば、典型的なワンルームだった。家具はテレビも含めて一通りのものが置かれ、何不自由なく生活できるようになっている。

玄関ドアは開かない。というか、こっち側にサムターンが存在しない。その代わり……と言っていいのか分からないけれど、玄関横には宅配ボックスが設置されていて、時折食料やら消耗品やらの荷物が届けられている。恐らく、外側と内側にそれぞれ、そちら側からのみ開けることの出来る扉が存在しているのだと思う。宅配ボックスに欲しいものリストを入れておけば、リクエストを送ることも出来るけれど……叶えられるかどうかは、まあ、まちまちといったところだ。

私は、この場所で数年間を過ごしてきた。目が覚めた時には部屋の中に居て、それまでの記憶は一切なく、ただテーブルの上に部屋の利用法が記載されたペラ紙一枚だけを残された状態で放り投げられ、そうして今に至る。

今の生活に特別不満は無い。人類が積み重ねた娯楽文化は素晴らしいもので、映画を見て、音楽を聴き、たまに気分転換がてら部屋の隅に置かれたルームランナーで汗を流せば、それだけで日々は充実する。私が生かされているということは三枝音葉には利用価値があるということで、だったらその価値とやらが果たされるまで、ぼんやりと生きるのも悪くないだろう――そう思っていた。

そんな日常に、先日、変化が訪れた。

三日前のこと。私が定期確認にと宅配ボックスを開くと、そこには荷物の代わりに、一つのファイルが届けられて。中には何枚かの資料が入っており、何やら難しい言葉がずらっと並んでいたのだけれど……ものすごく要約すると、『三日後の午後二時に施設の人を遣るから、準備をよろしく』、ということらしかった。

で、今日がその三日後。現時刻が午後八時だから、六時間後にはこの部屋に『施設の人』とやらが来訪することになる――私にとって、初めての他者との邂逅だ。そのことを考えると心臓が暴れて仕方ないし、出来ることならもう少し早く連絡して欲しかったものだけれど、特別しなくてはならない準備も思い当たらない。結果として、私はこの三日間、普段通りの生活を送るだけで過ごしてしまった。

部屋の掃除くらいはしたけれど……人を招き入れるための準備って、世間では何をするんだろうか。

「……紅茶くらい、淹れるべきかな」

 小さく呟く。

 人物像も目的も、一切が不明の来訪者。私は食パンをかじりながら、一体どんな人で、どんな話をするんだろう、なんて想像に、静かに思いを馳せた。


「突然だけど、三枝音葉さん。きみ、一週間後に死んでもらうことになったから」

 開口一番、男はにこにことした笑顔で、私にそんな台詞を投げかけた。「はあ」と生返事を返す私をよそに、男は楽しそうに言葉を続ける。

「正確には今週の日曜日だね。今日が月曜日だから、六日後ってことになるかな。当日になったら部屋を出て、所定の場所に行ってもらう。そこでヘッドショットされることになってるから、そこんとこよろしく」

「……あの、ひとまず座りません?」

 ティーカップに二人分の紅茶を淹れ終えた私は、色々と突っ込みたい気持ちを堪えて着席を促した。

 果たして、所定の時刻に現れたのは、黒いコートを纏った一人の男性だった。男はこれまで一度も鳴らされることのなかったインターホン越しに『本宮創』という名前を名乗り、部屋に入るや否や、恐らく本題と思われる、いやに物騒な話を始めたのだ。

 年齢は二十代半ば……いや、ニ十歳ぴったりとかだろうか、体格は中肉中背で平均的、顔にはとても爽やかな笑顔が張り付いていて、最高に嘘くさい。

 ……どうでもいいけど、部屋の中でコートって暑くないのだろうか。

「ああ、これは失礼」男はぺこりと頭を下げる。「ちょっと性急すぎたね。これは安心して欲しいんだけど、僕はきみに危害を加えるつもりは無いんだよ?」

「…………」

 危害を加えるも何も、このままだと私、一週間後に頭をぶち抜かれるらしいんだけど。

 私のじっとりとした視線に、男――本宮さんはからからと笑い、「んじゃ、失礼」と席に着く。遅れて席に着いた私に、本宮さんは右腕を伸ばした。

「色々気になることはあると思うけど……まあ、心配しないでよ。これから一週間かけて、必要なことは全部説明するからさ。短い間だけど、どうか仲良くして欲しいな」

 どうやら、握手をしよう、ということらしい。

「……えっと」

 おずおずと右手を差し出す。本宮さんは私の手を柔らかく握り、軽く上下に振った。

「一週間よろしく、三枝さん」

 にっこりと言われる。

 ……正直、彼の言うことは半分も意味が分からない。唐突だらけで理解が追い付かず、この人間をどこまで信用して良いのか、ひどく曖昧だ。

 けれど――握ったその手は、とても温かくて。

 その温かさだけは本物だと、素直に信じられた。


 二日目


「とりあえず、私が殺される理由から教えて下さい」

 翌日、昨日と同じ時刻に現れた本宮さんへ、私は単刀直入に質問した。本宮さんは驚いたように軽く目を見開いて、それから困ったように笑った。

「大丈夫、今日は逃げないよ。少なくとも午後三時まで、僕は完全フリーだ。ちゃんと順序立てて説明するから……その、あんまり睨まないでくれると助かる」

「…………」

 昨日、私と握手を終えた本宮さんは、「今日は顔見せだけだから」と、紅茶一杯分の浅い会話だけで足早に去ってしまったのだ。結果として私は意図の分からない殺害予告に悶々とし、大きなティーカップを用意しなかったことを心から後悔する羽目になったのだ。もし今日も昨日と同程度の時間で去ってしまうとなれば一大事、と、私は最も気になる点をいの一番に質問したのだけれど……

 うん、やっぱり信用できない。順序立てる前に、きっちり結論を話して貰いたい。

 私の疑惑の視線に、本宮さんは観念したように両手を上げ、「こりゃ僕の責任だね」と息を吐いた。

「ごめんね。昔から僕、相手の気持ちを慮るのが苦手でさ……えっと、きみが殺される理由だったね?」

「はい。最初にそれを知りたいです、私」

「うん。ざっくり言うとね、きみが死なないと世界が滅びるから、きみは殺されるんだよ」

「……えっと?」

「いや、きみが死ぬことで世界が救われる、だから殺される、って言った方が事態には適当かな。要するに、世界と一人の女の子を天秤にかけて、より重い方のために軽い方を犠牲にするってわけ」

 ――世界のために、一人を犠牲にする。

 私が死ぬと、世界が救われる。

「……出来の悪い創作シナリオですか?」

「耳の痛い指摘だけど、お上が言うには現実だそうだよ。と言っても、たとえ三枝さんを殺さなかったとて、世界は滅びずに存続する確率の方が高いらしいんだけどね」

「……なるほど」

 唐突が過ぎる話だけれど、少し納得も出来る。

 つまり私は、有事の際に『いつでも殺していい人材』として軟禁されてきたのか。私の死と世界の存続に、一体何の関係があるのかは知らないけれど……とにかく、殺されることが私の価値だった、と。

 ……多分私には、戸籍とか存在しないんだろうな。

「昨日も思ったけど……三枝さん、意外に落ち着いてるね。こういう時、一般的にはもう少し慌てるものな気がするんだけど」

「……? 別に普通だと思いますが……」

 彼の不思議そうな表情に首を傾げる。今すぐ殺されるわけでもあるまいし、慌てる理由も無い気がする。

「ふうん、肝が据わってるてことなのかな……ま、いいや。これで僕が、ちゃんと説明する気があるって信用してもらえた……よね?」

「ん……ええ、はい。疑ってごめんなさい」

「あはは、謝らなくて大丈夫。むしろ、疑われて当然だったね――さて」

 本宮さんはそこで一旦言葉を区切り、昨日と同じように用意した紅茶(ただしカップはマグにした。これで容量三倍だ)を一口啜り、「ん、美味しいね」と笑顔を見せた。

「それじゃ、細かい説明に入ろうと思うけど……心の準備、出来てるかい?」

「……大丈夫です。よろしくお願いします」

 なんだか怪しいお誘いみたいだな、と思いながら、私は彼の言葉に頷いた。


「三枝さんは『ラプラスの悪魔』って知ってる?」

 唐突な言葉に眉を顰める。けれど、本宮さんの表情からは笑顔はあっても冗談を言っている様子は感じ取れず、私は真剣になって考えた。

「……えっと、名前くらいは。ちょっと前に、運命をテーマにした映画を見て……だから、その程度の知識ですけど。確か、世界が物理法則に完全に従事するならば、未来は既に揺るぎなく決定付けられているはずだ、という仮説……でしたっけ」

「正確には、その揺るぎない未来を観測する存在を指す言葉だけど、うん。概ねその通りだね。運命の肯定にして自由意思の絶対否定、それが『ラプラスの悪魔』が持つ意味だ――三枝さん、ちょっと手、出してもらえる?」

「……?」

 また握手でもするのだろうか、と右手を伸ばす。本宮さんは昨日と同じ黒コートのポケットをまさぐり、小さい何かを取り出した。

「はいこれ、あげる」

「……あ、はい。ありがとうございます」

 少し高い場所から、小さなそれをぽとりと落とされ、掌へと収まる。渡されたそれは袋へ小分けされた大玉のザラメ飴で、私はそれを意図が分からないまま、ひとまずポケットへ仕舞った。

「今、僕は飴をきみの右手に落とした。高さは五センチくらいで、風速はゼロ……いや、エアコンの風もあるから、ゼロってことは無いか。飴はちょっと大きいから、八グラムくらいかな」

「……えっと?」

「とまあ、こんな風に、飴玉を落とすという行為一つとっても、様々な物理法則が相互に関わり合う。全ての数字が一つでも違えば、異なる結果が出力されるんだ。高校物理じゃあるまいし、空気抵抗も無視できないよね。これは、飴玉がどんな動きで落下するのか、完璧に予測し切ることは難しいってことを意味するわけだけど……逆説的に言えば、落下する飴玉に関わるあらゆる要素を把握し得る存在が居れば、飴玉の動きを完璧に予測出来るってことになる。この理屈を限界まで拡大解釈したのが、『ラプラスの悪魔』だ。人間の行動だって究極的には物理法則に基づいた電気信号だからね。全ての未来は逸脱なく予測可能で、それこそビッグバン発生時から決まり切った運命が垂れ流されているだけである……なんてね」

「……あの、大変興味深い内容ではあるんですけれど、それが私の脳天にどう関わって来るんです?」困惑して首を振る。「そもそも、『ラプラスの悪魔』って、現代では否定されていた筈ですけれど」

 私の言葉に本宮さんは、「もうちょっと我慢してね」と片目をつむる。何が何だか分からないけれど、とにかく話は進んでいる、ということらしい。

「そう、『ラプラスの悪魔』は同じ物理学によって否定されている。カオス理論でもコペンハーゲン解釈でも良いんだけど、実は、ミクロの世界において物理法則は完全ではなく、動作が確率的に変動する……つまり、完璧には予測不可能なんだ。確率的に変動する以上、単一的な運命は存在し得ない。これによって僕たちは運命に操られる人形ではなく、自由意志があると証明されたってわけ。やったね、ばんざーい……と、言いたかったところなんだけど」

 再び、本宮さんは何か小さいものを……今度は、持ち込んだ鞄から取り出した。

「……薬入れ、ですか?」

「うん。この中にはサプリメントが一錠入ってる。五日後、きみにはこれを飲んで貰うことになるんだけど……問題は中身でさ。実はサプリメントには、『因果』が配合されているんだ」

「……はい?」

 因果?

 因果って、因果律とか、因果関係とかの?

「実は近年、人間から『因果』を摘出する技術が確立されてね。さっき、単一的な運命は存在しないって言ったでしょ? あれ、どうやら人間個々人には当てはまらないみたいなんだ。強烈な指向性……つまり、性格だね。それによって、運命が確立するんだってさ。この人ならこういうことをするだろう、っていう予測のレベルアップ版だと思ってもらえばいい。何でも、五歳までには人生って全部決まっちゃうらしいよ? その程度の『因果』の積み重ねで運命が決定付けられるだなんて、生きる意味を疑っちゃうよねー」

「……いえ、それは良いんですけど」

 自身の頭を叩く。約束通り全てを説明してくれるのはありがたいけれど、どう考えたってキャパオーバーだ。私は必死に頭を回して情報を整理し、今必要な情報だけを脳内にかき集める。

「えっと……その『因果』の摘出って、一体何なんです? 五歳までに人生が全部決まる……でしたっけ。その決まった運命が、DNAみたいに設計図として身体のどこかに格納されていて、それを摘出する技術が確立された、そういうこと……ですか?」

 私の苦し紛れの推論に、本宮さんは「そうそう!」と楽しそうに頷いた。

「凄いね、三枝さん。拙い説明にちゃんとついて来てくれて、僕ってば助かるなあ!」

「どうも……にしても、随分SFな話ですね、それ」

「だねえ。きみの言う通り、『因果』は塩基配列よろしく、身体に情報として保管されていたらしいんだけど……その場所っていうのが、なんとびっくり心臓だったそうだよ。心臓移植によって記憶が遺伝したって話もあるし、単なるポンプって考え方も、そろそろ時代遅れかな。権力者は全員心臓検査を義務付けられる時代も遠くないかもだ……と、それは良いとして」

 本宮さんは白い薬入れを軽く振る。中からは、からからと軽い音がした。

「このサプリメントには、誰かさんの何かしらの『因果』が配合されていて、その『因果』ってのが、どうやら世界を滅ぼし得るものらしいんだ。だからきみには、この『因果』を飲んでもらって、その上で死亡することで、『因果』を死亡って結果で上書きして滅亡を阻止して欲しいってわけ」

「『因果』の上書き……」

 あまりにスピリチュアルな内容に馬鹿馬鹿しいと一蹴したくなる心を抑え、そういうもの、として無理やり自分を納得させる。本宮さんが嘘を付いている可能性に関しては、考えても仕方ないので完全無視。私の知らぬ間に、行き過ぎた科学は魔法と遜色無くなっていたようだ。

「そう、つまり三枝音葉は自爆式の運命破壊爆弾……いや、ディスティニーボムだったってわけ。ねえ、運命破壊爆弾より、ディスティニーボムの方が格好いいと思わない?」

「……いいと思いますよ」どうでも。「けど、『因果』を摘出できるのなら、何も飲ませずとも、破壊すればいいのでは? そっちの方がお手軽な気がするのですけれど」

「残念だけど、それじゃ駄目なんだ」本宮さんは首を振った。「『因果』ってのは摘出しただけじゃ、この世に残り続けるものなんだよ。例えば、『月曜の午後三時に佐藤さんが転ぶ』という『因果』があったとして、摘出しただけだと、佐藤さんは変わらず午後三時に転ぶことになる。完全に物体を消滅させる手段があれば別だけど……物理的に破壊するだけじゃ、この運命は変えられない。本当なら、全く別の『因果』――『佐藤さんは月曜の午後三時にジョギングをする』とかに変えて、佐藤さんへ入れ直せば話は早いんだけど……残念ながら今の技術じゃそこまでは不可能ってことで、『佐藤さん』を変数Xに変えて、そこに『三枝音葉』を代入する、その上で午後三時より前に三枝さんに死んで貰うことで、『因果』を消滅させるって手段を取る必要があるんだ」

「ははあ……」

「これは僕の憶測だけれど……多分、このサプリメントの中には、誰かが核爆弾でも飛ばす『因果』が入ってるんじゃないかな。人為的な世界滅亡の要因なんて、それくらいしか思いつかないしさ」

 ……なるほど、ようやく話の全貌が理解できた。

 現代社会には『因果』を摘出する技術があって、本宮さん一派はその技術を活用して、世界の滅亡を阻止しようとしている。私はそのための生贄である、と。

 ――世界と一人の女の子。

 天秤とは残酷だと、私は、改めて思った。

「……私が死ななくても、世界は存続する可能性の方が高いって言ってましたよね」

「うん、言ったね」本宮さんは同調する。「可哀想な話だけど、こればっかりはね」

「…………」

核爆弾の憶測が正しいとすれば、誰かが核爆弾を飛ばす、そのスイッチを押すまでは確定していて、その核爆弾が別の誰かの手によって停止するか否かが未知数、といったところだろうか。

 ――例えどれだけ低い確率であろうと、危険性があるならば全てを排除するのが人間社会だと思う。私はきっと、杞憂に等しい理由で殺されなくてはならないのだろう。

「それで、このままだとどの程度の確率で世界は滅ぶのですか? 十パーセント? 一パーセント? それとも、小数点以下でしょうか」

「ん……四十五パーセントくらい?」

「へええ、四十五パーセント……あはは」思わず席を立つ。「ほぼニブイチじゃないですかっ! え、え、この世界って、じゃんけんでパーを出すより高い確率で滅ぶんですか……?」

 慌てる私へ、「そういうことになるかなー」とのんきに笑いかける本宮さん。その表情に焦りは一切無く、あたふたする私を面白がる感情しか見て取れない。

 ……もしかしてだけど、この人、ものすごく適当なヤツなのでは無いだろうか。

「じゃんけん繋がりで言うと、四十五パーセントってのは四人でじゃんけんして、あいこになる確率と、だいたい同じくらいだよー」

「具体的な指標どうもっ! ああもう、私の死が凄く重い意味を持っちゃったじゃないですか……!」

「うん、だから僕たちとしては、何が何でもきみに死んでもらわないといけないってわけだねー……そんなわけで、実は、ここからが本題なんだ」

 胸をさする私に、本宮さんはずい、と一冊の書籍を差し出す。胡乱な視線でそれを見ると、そこには、『ゼロから分かる交通ルール』というタイトルと共に、可愛らしいイラストが描かれた表紙が目に入った。

「一時的とは言え、きみには外に出てもらうわけだからね。交通ルールやら道徳やら、最低限の一般常識は知っていてもらわないと困る……ということで、今日から三枝さんには、常識を勉強してもらう」

 本宮さんは、にっこりとした笑顔で言った。

「一緒に頑張ろうね、三枝さん」


 三日目


「…………」

 革製のソファーに寝転がりながら、昨日貰った飴玉をぼうっと眺める。何となくでポケットへと突っ込んだそれを、私は、食べることが出来ずにいた。

 本当は本宮さんが帰った直後に食べてしまおうと思っていたのだけれど……なんだか、勿体なくて。

 思えば、誰かからの贈り物なんて初めてだった――いや、この飴玉を贈り物と形容することは、いくらなんでも女々しすぎると、自分でも思うけれど……それでも確かに、この飴玉には善意が込められていたと、そう思う。

 善意、思いやり、親切心――温かさ。

「……はあ」

 意味も無くため息を漏らし、私は寝返りを打った。

 昨日、運命がどうとか因果がどうとかの説明を終えた本宮さんは、一般的な交通ルール――赤信号は渡ってはいけないとか、自転車は車道を走るとか――を、私へ講義し始めた。それらは大半が既知のものだったけれど、一方で私にとっては、あくまで自らと関わることの無い知識であったため、確かに、外へ出るのなら必要な過程と言えた。

 ……まあ、死ぬことだけが役割の爆弾(彼風に言うならディスティニーボム)である私に一般常識を叩きこむことにどれだけ意味があるのか、私としては疑問でもあるのだけれど……ともあれ、一週間という期限は、そのために存在していると明らかになった。

 これから日曜日までの間、私は本宮さんから一日一時間、一般常識を講義してもらうことになるようだ。

 午後二時まであと十五分。

 そろそろ、紅茶の準備をしよう。


 私は本宮さんを恨んでいない。

 理由としてはひどく単純で、単に彼を恨んでも仕方ないからだ。本宮さんだって仕事だろうし、進んで他者を殺したがる人間なんて……まあ、あんまり居ないはずだ、多分。

 死ぬことが怖くないわけでも、嫌じゃないわけでも無いけれど、生への執着心は、あまり無いのだ。

「……で、それがどうかされましたか?」

 自分を恨んでいないのか、という唐突な質問に答えてから、私は本宮さんへ、その意図を問いただす。

「いやね、何だかんだともう三日目になるけれど、僕ってば三枝さんのこと、何も知らないなーって思ってさ。ほら、仲良くなるための第一歩は相互理解から! 三枝さんも、そう思うでしょ?」

「あまり思いませんけど……」

 相互理解って……生き物って、そんな簡単に理解し合える存在だったっけ。それとも、『分かり合えない』という感情を共有し合う儀式を称して、本宮さんは相互理解と言っているのだろうか。

 ……むう、私にはよく分からない。

「そもそも、相互理解と言うなら私だって、本宮さんのこと、殆ど知らないのですけれど。現状の私にとって、あなたは謎の黒コートマンですよ」

「それは……うん。確かにその通りだ」

 私の言葉に、本宮さんは気まずそうに目を逸らした。誤魔化すように紅茶へ口を付け、それから「申し訳ないけど、」と言葉を探すように言う。

「組織の都合で、僕のことはあんまり話せないんだよねー。つまり僕たちにとって相互理解は、きみがただ個人情報をぺらぺら喋り、僕が相槌を打つ時間を言うことになるってわけ」

「……うわあ」

 自分のことは話さず私の情報だけ抜き取るとか、とんだ詐欺師っぷりだ。この様子だと本宮創という名前も偽名だな、さては。

「まあまあ、良いじゃん。個人的にも、三枝さんがこの部屋でどんな生活してたとか興味あるしさ」

「別に断る理由も無いですけど……講義は良いんです? 時間、限られてると思いますが」

「ん……と、今日はもう大丈夫。三枝さんがこっちの想定以上に一般常識をしっかり保有してたってこともあって、スケジュールには余裕があるんだ」

「……まあ、そういうことなら?」

 いまいち話の流れを掴めないまま、私は自身の経歴を話し始めた。と言っても、この真っ白な部屋で全てが完結している私という生き物に、語るべきことなんて殆ど無いのだけれど。

 本名は三枝音葉。毎朝七時起床で、十一時就寝の八時間睡眠。趣味は映画を観ること、それと音楽を聴くことで、どちらも傾向として少し古いものを好む。一時期料理にハマっていて、紅茶の淹れ方はその際に習得。ただし最近は、食事はレトルトで済ませがち……と、精々その程度だ。五分もかからず語り終わる、お世辞にも中身が詰まっているとは言えないそれを、けれど本宮さんは真剣に、言に反して相槌すら打たずに聞いていた。

「……前から気になってたんだけど、その三枝音葉って名前、きみが付けたの?」

 話を終えた私へ、本宮さんはそんな質問を投げかける。一瞬、その意味を図り損ねて、私は遅れて「……ええ、そうなります」と回答した。

「と言っても、一から考えたわけじゃ無くて、こう、頭にフッと浮かんだものを、そのまま使っただけなんですけれど……まあ、名前が無いより、分かりやすいと思いますし」

 私の回答に、本宮さんはなんだか複雑そうな表情を見せ、「……これも『因果』ってやつかな」と、よく分からない言葉を呟いた。

「……あの?」

「何でもない。映画、好きなんだ?」

 誤魔化すように笑って、本宮さんは言う。

 私は頷く。と言っても、リクエストを送る際に電波を発するものは軒並みNG(そのため、テレビも電波は拾ってくれない)で、活字は苦手ということで、消去法的に観始めたのだけれど。

 恐らく、彼が最初から三枝音葉、という名前を知っていたのは、リクエストペーパーに私がサインしていた名前を聞いていたからなのだろう。

「今はそこまで積極的に見るってわけじゃ無いんだけど……良いものだよね、映画。娯楽の中じゃ比較的短時間でキリ良く終わるから、受験期には息抜きに見てたなあ」

「……そう、ですか」

唐突に――少しだけ、胸が痛んだ。

 受験、という自らとは決して関わらないであろう言葉に、本宮さんが普通に産まれて、普通に生きてきた人間であることを、改めて実感させられてしまった。

 ――普通。

 普通って、なんだろう。

 昨日、私が殺される理由を語った本宮さんは、私が落ち着いていることに驚いていた。一般的にはもう少し慌てるものだ、と。一般的とは普通ということだ。逆説的に、私は、普通じゃないということになる。

 境遇が普通じゃないのは、それはもう仕方のないことだ。けど、もしも性格が普通じゃないとしたら。私という存在が、社会規範を逸脱した異常性を内包しているとしたら……その可能性は、少し、怖い。

 ――怖い?

 今更、どうして私は、そう思ったのだろう。

「……あの、本宮さん」

「うん? どうかした?」

「……っ、――いえ、何でも無いです」

 すんでのところで言葉を抑え込む。

 ――私って、おかしいですか、なんて。

 そんな幼いこと、聞けるはずが無い。

「……? 気になることがあれば、何でも言ってくれていいんだよ? 答えられる範囲でなら答えるし、答えられないことも、ちゃんとその理由を説明する。僕はきみに、誠実でありたいと思ってるからね。だから、どうか遠慮しないで欲しいな」

「う……えっと、その」

 純然たる善意にどもってしまう。彼が詐欺師なのは本当だけど、私に誠実なのも、きっと本当だ。その善意は、可能ならば裏切りたくない。

「……あ、そうだ」

 ふと思い立ち、私は「ずっと気になっていたことがあるんです」と話し始める。

「そこのキャビネット……ええはい、そうです、あなたから見て右手側の。その中に、開かずの金庫がありまして、ずっと中身が気になっていたんです」

「……開かずの金庫?」怪訝そうな顔をする。「この部屋のことはおおよそ聞いているけど、金庫なんて聞いたこと無いな……それ、大きさは?」

「ええと、かなり小さめの小箱みたいな形状で……ちょっと持ってきますね」

 椅子を引き、立ち上がる。私はキャビネットから例の金庫を取り出し、机の上に置いた。

 一辺五センチ程度の、銀色に鈍く光る正方形。うち一面には蝶番で開閉する扉が取り付けられており、小さな鍵で施錠されている。ナンバー式ならば暇潰しに開錠を試みても良かったのだけれど、残念ながら鍵穴式ということで、ずっと放置していたのだ。

「ふうん……確かに形状は金庫だけど、なんだか模型っぽいというか、おもちゃっぽいというか……これ、触ってもいい?」

 彼の言葉に頷きを返す。本宮さんはそっと金庫を持ち上げ、軽く振った。中からは軽い音が返ってきて、中身の存在が確認される。

「……ふむ。誰が用意したのか分からないけれど、この鍵なら、或いは……」

 ぶつぶつと呟き、それから「ありがとう」と、本宮さんは金庫を私に返した。

「もしかしたら、それ、開けられるかも。明日機材を持ってくるからさ、楽しみにしててよ」

「……? ええと、分かりました」

 困惑する私へ、本宮さんはにっこりと笑う。

 ともあれ、この日はそれで終わりだった。


 四日目


 翌日に本宮さんが持ってきたのは、一本のプラスドライバーだった。

「……あの。なんですか、それ」

 機材がどうとか言っていたから、ピッキングでもするのかと思っていた私は、困惑……というより、なんだか嫌な予感がして、恐る恐る聞く。

 持ち手は赤く、そこから短めの軸が伸びている。工具というには小ぶりだけれど、それは何の変哲も無いドライバーで、螺子を締める、或いは緩める以外の用途があるとは思えない。

「まあまあ、見ててよ」いたずらっ子のような笑みを浮かべ、彼は言う。「金庫、持ってきてもらえる?」

「…………」

 納得いかない気持ちを燻ぶらせながら、私は昨日と同じ場所から例の金庫を取り出し、本宮さんへと手渡す。本宮さんは「ありがとう」とそれを受け取り、そのまま、ぶすりと鍵穴へドライバーを突き刺した。

「……うわあ。あなた、もしかして」

「うん。この程度の鍵なら、正規の手段で開けるまでも無いかなってさ。この突き刺した状態で思いっきりスナップすれば、鍵ごとぶっ壊して開けられると思うんだけど……三枝さん、どう思う?」

「どうかと思います」

「くらえっ」

 私の制止はどこへやら。本宮さんは掛け声と共に手首を思いっきり捻らせ、ドライバーを鍵穴で暴れさせる。ぎしゃ、と嫌な音と共に鍵はロックが外れ、金庫はいとも簡単に開閉できる状態となった。

「やったね、マーベラス!」

「デンジャラスの間違いでは無いでしょうか……」

「はいこれ、返すね」鍵をひょいと外し、ドライバーを鞄へ落としてから金庫を渡される。「鍵はともかく、これを開ける権利はきみにしか無いだろうし。というか、開けるも開けないも、きみの自由だね」

「……こじ開けといて、それ、言います?」

「まあまあ。開ける開けないの選択には、そもそも鍵が取り外されていることが前提になるからね――それに、僕の考えが正しければ……」

 本宮さんはそこで言葉を切り、どうする? と、私へ目で問うてくる。私は少し迷ってから、いそいそと彼の横へ移動した。

 方法はどうあれ、私が気になっていたものを確認する手段を、本宮さんは与えてくれたのだ。開けないという選択肢は無い、けど……

「なんだか中を見るのが怖くなってきました。ゴ系の虫が出てきたら、本宮さんにお任せしますね」

「任せて。逃げ足だけは早いんだ、僕」

 強気に弱気な台詞を吐く本宮さんを尻目に、深呼吸をひとつ。私は、意を決して金庫の扉を開けた。

「……えっと、これ……薬?」

 果たして、中に入っていたのは薬の束だった。サプリ上のそれはPTPシートに一枚六個入りで梱包されており、それが五枚程度、輪ゴムで束ねられている。

「見たところ普通の薬……あ、もしかして、これにも噂の『因果』ってやつが配合されているのでしょうか。この部屋にあるってことは、何か重要なものではあるんでしょうし。ね、本宮さんはこれ、何だと思いま――」

 言いかけて、絶句する。

 本宮さんは、刺すような視線で金庫を見ていた。その表情には普段の軽薄な笑顔が消え失せていて、どころか、私には、怒っているようにさえ見えた。

 燃えてしまいそうなほどの激情が、瞳に浮かぶ。

 ――ぞくりと、正体不明の感情に、心臓が震えた。

「多分、それ、普通の薬だよ」本宮さんは、ゆっくりと口を開く。「睡眠薬のたぐいだと思う。それも、すっごく強い種類。一錠だけで気絶するように眠りにつけて、仮に全部一気に飲もうものなら、痛みも感じず、死んでしまえるような」

「――――」

「きっとこの金庫、初めからこじ開けられることを前提に置かれてたんだよ。きみがどうしようも無くなったとき、どんな手段を使ってでも金庫を開けて、そのとき初めて、これを手に出来るように」

 本宮さんは気怠そうに頭を掻き、「僕、この部屋を脱出するための、何らかの手段だと予想してたんだけどな」と、忌々しげに呟いた。

「全く、なんてエゴだ。これじゃ偽善と呼ぶことすらおこがましい――三枝さん、この薬、必要かい? 用法容量を守れば普通の睡眠薬として使うことも出来るにしても、僕としては、これは回収させて欲しいんだけど……三枝さん?」

 そこでようやく、本宮さんは私が固まってしまったことに気付いたようだった。一方の私と言えば、未だに正体不明の感情に組み伏せられていた。

「ごめん、自分の世界に没頭しちゃってたね……あれ、三枝さん、本当に大丈夫?」

「あ……はい、うん……大丈夫です」遅れて復帰する。「あの、本宮さん。復讐系の映画って見たことありますか? 特に、とびっきりドロドロしてるやつ」

「うん……? 暗い作品は避けて来たから、見たことは無いかなぁ。……けど、それがどうかした?」

「……いえ、良いです。その薬は回収をお願いします。私、寝つきは良い方だと思うので」

 私の言葉に、本宮さんは首を傾げながらも頷き、その薬をドライバーの入った鞄へ投げ入れた。

 ともあれ、これで金庫の謎は解明された。私には不要なものだったけれど、私をここに幽閉した誰かさんなりの愛、或いは温情ではあったのだろう。

 自殺を許されたモルモット、か。

 なんだか、滑稽な話だ。

「さて。それじゃ、今日の講義に入ろうか。今日は食事のマナーについてだね。と言っても、貴族がどうたらの本格的なやつじゃなくて、もっと初歩的な、当たり前の再確認だ」

「……あの。前から思っていたのですけれど、これって本当に必要なんです?」

 眉をひそめる私へ、本宮さんは「もちろん必要だよ」と、いつも通りの笑顔で言う。

「だって、知っていた方が楽しいでしょ?」

「……楽しい、ですか」

 その言葉が示すところは、私にはよく分からない。

 分からないけれど、私は不思議と、その言葉が腑に落ちた。まるで、理屈ではなく心が、その意味を理解したような感覚。

 楽しいから、必要。

 それは、とても素敵な考えのように思えた。


 五日目


 最近、毎日が楽しかった。

 それまでの日々を楽しくないと思っていたわけでは無い。私という個人だけで完結した世界は、それはそれで満たされたものだったように思う。けれど、そんな閉塞に彼という風穴が開けられて、永遠に等しかった日常には、タイムリミットが生まれた。

 それが普通。それが、生きるということ。死を恐れ、人間関係に苦悩して、それでも何かを求めて明日へ進む。精一杯日々を生きている人からすれば怒りたくなるほど、私のそれは矮小で断片的なものかもしれないけれど……私は、生きることが、楽しかった。

 ――だから。

「そろそろ、当日の手順を確認しようか」

 改めて死を突き付けられても、私は動じずにいることが出来た。

「究極的には頭を撃ち抜かれるだけと言っても、きみには慣れないであろう、部屋の外で活動してもらうことになるわけだからね。それに、土壇場で手順を間違えて仕留め損ねたとあれば、苦しむのは三枝さんの方だ。僕としてはメモを取ることを推奨するけれど……どうかな?」

「……大丈夫です。記憶力には、自信があります」

 ……ちなみに、動じなかったというのは嘘だ。死ぬのは怖いし、それが痛みを伴うものであれば猶更だ。だから正しくは、動揺を外へ出さずにいられた、と表現すべきだろう。

 やせ我慢も時には大切だ。特に、この人相手には。

「その代わり、その説明、今日中に終わらせて下さい。他に勉強すべき一般常識があれば、それも可能な限り全部、です」

「……今日中に予定を全部終わらせて欲しいってこと? まあ、出来なく無いけど……どうして?」

「明日を完全フリーの日にしたいんです。すべきことも無く、ただお話しするだけの日に。……えっと、その、嫌なら、別に良いんですけど」

「……ああ、なるほど」にやりと笑う。「嫌なもんか。いいね、僕、そういうの大好きだ」

 本宮さんはぱしん、と手を叩き、「そういうことなら」と鞄から何冊かの冊子を取り出した。

「今日は超特急で行こう。三枝さんってば優秀だもんね。本当に要点だけ伝えるから、もしだったら、これ使って復習して」

 冊子を渡される。そこには幾つもの付箋が張り付けられており、彼の努力の跡が垣間見えた。

「ありがとうごさいます。大事にしますね、これ」

「いや、別に大事にする必要は無いんだけど……ま、いいや。うん、好きに使って――それじゃ、今日の講義に入ろっか」

 そう言って、本宮さんは例の笑顔を浮かべた。


 当日の工程とやらは、要約してしまえばそう難しいものでは無かった。究極的には、所定の場所へ行って突っ立っているだけの仕事だ。ただし、彼の言う通り私にとっては初めてとなる外の世界だし、加えて、僅かでも手順を間違えると取り返しのつかないものであるらしい。

「正確には、取り返しがつかないかどうかすら未知数なんだけどねー。僕たちも手探りでさ……三枝さんには、梱包された『因果』に沿った行動をとってもらうことになるわけだけど、どれだけ『因果』通りなら上書きが成立するのか、逆にどれだけ『因果』を外れてしまうと上書きが成立しないのか、これがまだ判明し切って無いんだ。前例から言えば、ある程度の逸脱は許容範囲みたいだから、そこまで気負う必要は無いけど……なるべく、手順通りの行動を心掛けて」

 彼の言葉に頷く。それで手順の確認は終わり、本宮さんは一般常識の講義に入った。私は集中してそれらを聞き、無駄口を挟むこともしなかった。

「……よし、こんなもんかな」腕時計を見る。「三時きっかり。うん、お疲れ様。それじゃ、そろそろ帰るね。明日、楽しみにしてるから」

「あ……ちょっと待って下さい」

 席を立ち、鞄を持ち上げた本宮さんを引き留める。疑問符を頭上へ浮かべる彼に、私は「本宮さん、好きな食べ物ってありますか?」と聞いた。

「明日、それを作っておきますので」

「――――」

 本宮さんは妙な表情を見せる。寝耳に水というか鳩に豆鉄砲というか、とにかくそんな表情だ。それを不思議に思うより早く、「そうだな……」と一瞬考えて、私に言った。

「ハンバーガーが好きだな。パティがぶ厚いと、尚のこと良い」

「分かりました。用意してお待ちしています」

「うん――はは、まいったな」

 本宮さんは、照れたように頭を掻いた。

「どうやら、明日はとても良い日になりそうだ」


 六日目


 その日は約束通り、雑談だけで一時間を過ごした。

 用意したハンバーガー(バンズは丸パンで代用した。我ながら、けっこう良い出来だと思う)と、ついでに作ったフライドポテトを肴にして、とりとめが無くて、下らない話をした。

 小説で言うところの行間、舞台だったら舞台袖、映画だったらカメラ外の会話だ。必要か不要かで言えば不要なのだろうけれど、そんな時間が、私にとってはたまらなく楽しかった。

「――へええ。映画って、暗い部屋に大人数で座って観るものなんですね」

「まあ、最近じゃ配信サービスの方が主流かもだけどね。三枝さん、映画館、知らなかったの?」

「ん……いえ、知識として知ってはいるのですけれど……こう、実感と結びつかなくて。私にとって映画って、明るい部屋で、一人で観るものでしたので」

 眼を悪くしてしまうかもしれないと思い、部屋の電気を落とすようなこともしなかった。テレビもそこまで大きいものじゃ無いし……いまいち想像できない。

「良いものだよ、映画館。拘束されて映画を観る以外出来なくなるってのが僕は好きでさ。家で観るのとは全然違う――それこそ、別格だ」

「別格……」

「面白くなくとも、まあ、誰かと感想を共有すれば楽しい思い出になるしさ。三枝さん、きみ、映画を観て泣いた経験ってあるかい?」

 彼の質問に、私は少し考えて、「……いえ、無いです」と正直に回答した。

 映画を観て、どころか。

 私には、泣いた経験が一度も無いのだけれど。

「そっか。僕もちょっと前まで……ええと、中学生くらいまではそうだったかな」

 本宮さんは、優しい表情で語る。

「それまでもちょこちょこ映画は見てたし、面白いとも感じていたけど……始めて映画で泣いたのは、高校一年生の、自分で選んだ作品を映画館で観たときだったなぁ。映画館だったからなのか、単にそれだけ情緒が育ったからなのかは分からないけど……うん、あれは、良いものだよ」

「――ですか」

 刹那。

 少しだけ、夢を見た。

 私は店員さんにチケットを見せ、指定した席へ向かう。場内にはまばらに人が居て、誰もが期待に胸を膨らませている。選んだ席はスクリーン正面の、少し後方に位置していて、どきどきしながらそこへと座る。やがて会場がにわかに暗くなり、スクリーンには映像が流れたして……

 それで妄想は終わり。これ以上は、私には、うまくイメージできない。

 ……全く、ずるい人だ。叶わないと知っていながら、私に、そんな夢を見させるなんて。

「……と、もう時間か」

 本宮さんは自身の腕時計を見て呟く。私も壁掛け時計を見ると、針は二時五十五分を示していた。

「むう、楽しい時間ってのはあっという間だ」

 名残惜しそうに言ってくれる本宮さん。その言葉は詐欺じゃないと、そう信じたいところだ。

「どうする? 折角だし、上に掛け合って時間、伸ばしてもらう? 説明に時間が掛かっているって名目でなら、通ると思うんだけど」

「あ……いえ、折角のお言葉ですけれど、遠慮しておきます」

「……あのね、前にも言ったかもだけど、遠慮する必要は無いんだよ? せっかくこんな楽しい日なんだ、気を遣ってたら勿体ないよ」

 善意の眼差しを向けられる。私は少し迷いながらも、「……そういうことでは無く」と続ける。

「……その。これ以上一緒に居ると、殺してでも、帰したくなくなってしまうと思うので」

「…………」

 ちらりとキッチンを見る。そこには、現れた包丁がきらりと光っている。テーブルからキッチンまでは私の方が近いし――玄関扉は、三時になるまでは決して開かない。

「……一応言っておくけど、僕を殺しても、ここから脱出は難しいからね? 外には何人ものむくつけきガードマンが居てだね……」

「……あの、冗談ですから。ですからその、あんまり身を引かないで頂けると嬉しいのですけれど」

 予想以上にびくびくと震えてしまった本宮さんに、私は慌てて弁明する。そりゃあこの密室状況だと冗談にならないのも分かるけれど、そこまで怯えることも無いと思う。

「……あのね、三枝さん。こういう状況で殺す、なんて言っちゃダメなんだよ? 僕みたいにハートの弱い人は、それだけで縮み上がっちゃうんだから」

「いえ、ですから冗談で……」

「ちゃんと反省してっ。でないと、このまま道徳のお勉強三時間コースだぞ!」

「……ち。反省してまーす」

 渋々謝る。本宮さんは苦々しげな表情で、「……うん、なんか、ようやく分かって来たぞ」と呟く。

「三枝さんってば肝が据わってるんじゃなくて、単にとんでもなく図太いんだな、さては」

「……図太い。それは、悪いことでしょうか?」

 気が緩んで、つい、そんな質問をしてしまう。本宮さんは「えー……それ、この状況で聞く?」と嫌そうな表情をしてから、

「まあ……悪くは無いと思うよ。むしろ味があって面白い。程々なら、素敵なきみらしさと言えるんじゃないかな」

 そう、真摯に回答してくれた。

「私、らしさ……」

「ただし、人を怖がらせるのはダメだからね! 何事もやりすぎは良くないってわけ、おーばー?」

「……ええ、はい。分かりました」

 今度は素直に頷く。本宮さんはようやく安心、とばかりに首を振り、そして立ち上がった。

「それじゃ、僕は帰るね。ハンバーガー、とっても美味しかったよ――また明日」

「――はい、また明日」

 にっこりと笑う本宮さん。彼はばいばい、と手を振って、玄関を出る。

 私は、その背中を見送った。


「……ふう」

 玄関扉が完全に閉まったことを確認し、私は緩く、息を吐く。馴染みのある天井を見上げ、今日の出来事を頭の中で反芻させた。

 これで、残るは明日だけになった。この部屋での日々も、本宮さんとの時間も、明日になってしまえばすべてが終わる。

 ……いや、そんな考え方は損だ。明日までしか無いんじゃなくて、まだ明日もある、と、そう考えた方が、きっと楽しい。せっかく生きる楽しさを知ることが出来たのだから、最後まで、楽しまないと。

 ――たとえ、この人生が偽物で。

 私が、世界の残像でしか、無かったとしても。

「『いまの私たちを、もしも何かに例えたなら――』」

 お気に入りの曲を口ずさむ。

 私は、天井を見上げ続けた。


 七日目


 沸騰させたお湯をポットとカップ、それからジャグへ注ぎ、容器を温める。やかんには再び火をかけて、温めたポッドへ茶葉を入れる。それから沸騰したてのお湯を注ぎ、スプーンで茶葉が開くまで軽くかき回してから、ふたをする。コージを覆いかぶせて、私はタイマーをセットした。

 茶葉が蒸れるまでの間、私は昨日も口ずさんだお気に入りの曲(『彼と彼女のソネット』。疲れた夜には、特に最高だ)をスピーカーから流し、耳を傾ける。この一週間ですっかりお馴染みとなった一連の動作は、けれど私を飽きさせず、変わらず温かな幸福を送り届けてくれた。

 私はこの時間が好きだった。孤独であることは変わらないはずなのに、なんだか、一人では無いような気がして。

 そろそろ時刻は二時になる。

 今日は、どんな話が出来るだろうか。


「突然だけど、三枝音葉さん。きみ、今日から自由になっていいことになったから」

 部屋に入るや否や、本宮さんはにこにことした笑顔で、カップへ紅茶を注ぐ私へそんな台詞を投げかけた。なんだか一日目を思い出すな、なんて下らないことを考える私をよそに、本宮さんはどっかりと椅子へ座る。遅れて私も席に着き、彼の言葉を待った。

「何でも、犠牲無しで世界を救う方法が発見されたとかで、きみがヘッドショットされる必要が無くなったんだってさ。というわけでちょっと性急だけど、この部屋を出払う必要があるから、荷物の準備をしてもらって……」

「……あの、嘘ならもうちょっと上手に吐いて下さい」台詞を遮る。「だいたい、用済みになった道具は仕舞い込むか棄てるのが筋でしょう。自由なんて、そんな私にだけ都合の良いこと、あるわけ無いですので」

「…………」

 本宮さんは気まずそうに視線を逸らし、「まいったな」と小さく呟く。それから誤魔化すように……というより、いっそ開き直った様子で、用意した紅茶を啜った。

「……美味しいね。なんだか、最初の日より更に美味しくなってる気がする」

「そですか? 茶葉も器具も、別に変えていないのですけれど」

「ふうん……そっか」

 少しの時間、静寂が訪れる。私も自身のカップに口を付け、紅茶を一口飲む。味は特別どうということも無く、飲み慣れたものだった。

「……きみが自由になれる、ってのは本当だ」やがて、本宮さんは静かに口を開く。「というか僕がきみを自由にする。そのために生活で必要な常識を叩き込んできたし、この一年間準備を重ねて来たんだからね」

「……え? 本宮さん、初めから私を逃がすつもりだったんです?」

 一般常識を教えていた真意もそうだけど……驚きの事実だ。一年前、ということは当然だけれど私と出会う前で、その頃から、本宮さんは三枝音葉を外の世界へ逃がそうと策略していたらしい。

「ぎりぎり準備が間に合ったんだ。当面は逃げ隠れが必要になるかもしれないけど……戸籍も問題無いようにしてあるし、生活費だって援助する」

「……ですが、私が死ななければ、私は生きても世界の方が滅びるのでは?」

「四十五パーセントで、ね。それに、実際に滅びるまでには何日か時間がある。その間だけでも自由に生きられるなら、悪くはない筈だよ――そもそもね、一人を犠牲に世界を救う、なんて考え方が間違っているんだよ」

 本宮さんの瞳に、いつか見た激情が宿る。表情は真剣なまま、じわりと怒りが滲む。それが世界へ向けられた感情なのだと、私は今になって気が付いた。

「いいかい。天秤というのは選ぶものでは無く、釣り合わせるものなんだ。世界は万人の絶え間ない努力によって天秤を釣り合わせ、いつだってぎりぎりで存続している。そうでなきゃ、僕たちが種であり群である意味が無いからね。そんな世界人口と同等に重く切要であるはずの世界が、たった一人の犠牲で救われるなんて、あってはならないし――そんな安い世界、滅んでしまった方が、ずっと良い」

「……それは」

 それが彼の本心。浅ましい人間社会への憎悪。

 本宮創が、この場所へ足を運んだ理由。

「出来の悪い創作シナリオ、という例えは正しかったね。僕としても、こんなことは間違っていると言う他無い。それが許せなくて準備し続けて来たし、九割以上成功するまでに漕ぎ着けた。自業自得で滅ぶ世界と、押し付けられた責任から逃げるきみ――それなら、天秤は釣り合う」

「……そう、ですか」

 恐らく本宮さんには、彼をそこまでの激情に駆り立てる程の何かがあったのだと思う。その贖罪か、或いは復讐か――そういった信念を果たすために、私は逃がされようとしている。

 ダシにされたとも言えるけれど……それが彼の善意であることも、また確かなのだろう。

「頼む、三枝さん。僕と一緒に、ここから逃げ出してくれ。それが僕のためにも、きみのためにもなる。ここを出れば、きみは他の人みたいに普通に暮らせるし、学校にも通えるし――映画館にだって、行けるんだ。せっかく映画が好きなのに、映画館に行ったこと無いなんて勿体ないよ。きみはもっと、生きる楽しさを知るべきだ」

「――――」

 奥の玄関扉は、今日だけは開かれている。予定ならば一人で出るはずだった、死へ向かうその扉は、けれど彼と二人で飛び出せば、新しい未来へと繋がっているらしい。

 ――普通の生活、かあ。

 私の肉体は成長しないから、他の人と全く同じとはいかないかもしれないけれど……勉強すれば大学には通えるだろうし、休日、友達と遊ぶ、なんてことも出来るかもしれない。理想通りとはいかなくたって、選択肢が用意されているというのは、素敵なことだ。

 それに、映画館にも。

 四十五パーセントと言ったって、世界は存続する可能性の方が高いのだ。だったらそれに賭けて、自分だけの人生を得ることだって、きっと、悪くない。

 それは、夢のような日々だと思う。

 ――けれど。

「……生憎ですが、お断りさせて頂きます」ゆっくりと、息を吐く。「私にだって、天秤はありますので」

 私の言葉に、本宮さんは驚かなかった。とっくに私の性格は割れていたのか、ただ、彼は納得と悲嘆がまぜこぜになったような表情を浮かべる。

「ここで逃げ出すことは、死を前提にしたこの七日間を否定してしまうことになります。終わりがあって、限られていたから楽しかった筈の日々を、汚してしまうことになる――それだけは、出来ません」

「……三枝さん」

「私のためでも、あなたのためでも、ましてや世界のためなんかじゃなくて――この七日間を否定しないために、私は命を使います。それならば、天秤は釣り合うでしょう?」

 世界を救うのなんて、そのついででしか無い。

 恐怖は拭えず足が震えそうで、夢の眩しさには泣いてしまいそうになる。けれど、それでも裏切ることの出来ない、何かがあった。

 ――たった七日間だったけれど。

 『因果』は、確かに積み重ねられたのだと思う。

「……はあ」本宮さんは首を振る。「何となく、こうなる気はしていたんだけどね。三枝さん、図太いから」

「図太いのは悪くないと言っていませんでしたか?」

「むう、物事には限度がある。やりたいことのために命すら投げ出せるってあれば、それは行きすぎだと思うな。こうなったらきみ、止まらないでしょ?」

「……ですね。というか、止まりたくないです。決心が鈍る前に、サプリ、渡して下さいますか」

 席を立つ。本宮さんは渋々といった風に鞄から薬入れを取り出し、私へ手渡そうとして……ぴたりと、その腕を止めた。

「……どうしても行くの? これまでだってきみは、ずっと孤独に過ごしてきたんだ。死ぬ瞬間まで孤独だなんて、そんな不幸……本当に、きみが背負う必要があるのかい?」

 彼の、恐らくは本心からの言葉に、けれど私は疑問符を浮かべ……そして納得する。

「……あのですねー」ふふ、と小さく笑う。「私はあなたと出会うまで、自身を孤独だと思ったことは、一度だってありませんでしたよ」

「――そっか」

 観念したように、彼は薬入れを渡してくれた。ケースから青みがかった錠剤を取り出し、紅茶で一息に飲み込む。本宮さんは何かを後悔するみたいに、椅子で頭を抱えている。私はその横をすり抜け、玄関へ向かおうとして……ふと、まだ彼へお礼を言っていないことを思い出した。

「――本宮さん」向き直り、頭を下げる。「寂しさを、ありがとうごさいました。あなたを待つ時間の私は、きっと、世界の誰より幸せでした」

「――――」

 彼は何も応えない。私はその様子に満足し、玄関の靴箱を開ける。そこに入っていた、一度も履いたこと無い無地の靴へスリッパから履き替え、とんとんと踵を合わせた。

「……ねえ、三枝さん」背中越しに、静かな声で話しかけられる。「きみはこの七日間で、どの日が一番好きだった?」

「――――」

「僕は五日目かな。六日目も捨てがたいけれど、そのきっかけを他ならぬきみがくれたことが、嬉しかった。きみと、仲良くなれた気がした」

「……私は」

 彼と初めて会った一日目。

 真実を知らされた二日目。

 私を知って貰った三日目。

 金庫をこじ開けた四日目。

 明日の準備をした五日目。

 ただお喋りをした六日目。

 そして、お別れの七日目。

「――すみません、私には決めらないです。どの日々も、私にとっては順位を付けられない程、きらきらと輝いた宝物です」

「……そっか。んじゃね、三枝さん。頑張って」

「――はい。本宮さんも、お疲れさまでした」

 それで会話は終わり。私は一度頬を叩き、外の世界へと踏み出した。

 涙は流さない。

 それが、私の人間としての、最後の意地と信じて。


 八日目


 三枝音葉は十七歳だった。

 そいつは僕の姉で、パワフルとかダイナミックとか、とにかくそんな言葉の似合う女性だった。

「――うわ。姉貴、またそれ読んでる」

 僕の部屋のベッドへ勝手に転がり、小説を読み耽る姉を、かつて十二歳だった僕は呆れた視線で見て、そしてため息を吐いた。

 僕の部屋へ侵入するのは、もはや恒例だから気にしないとして……姉の読んでいるそれは、二年前、同じようにベッドで転がり込んで読んでいたものと、全く同一のものだった。

 表紙には筆記体で何やら長文のタイトルが書き連ねられている。どうやら、ティーン向けの恋愛小説のようだった。

「もうそれで何週目? なんか、奇行過ぎて気持ち悪いから止めて欲しいんだけど」

「んだよ、人が何読んでようが勝手だろー。心を落ち着けたいときは新しい小説よりも、読み慣れた小説の方が適してんの」

「にしたって、一冊に固執すること無くない……? 世の中、小説なんて腐るほどあるでしょ」

「うっせーなー。ほら、勉強するんじゃなかったの。あたしはお前を放っておいてやるから、お前もあたしを放っとけよな」

「…………」

 憮然とした表情で、僕は勉強机に座る。けれど、どうも勉強する気になれず、僕は椅子を姉の方へ向けて、「……それ、そんなに面白い?」と聞いてみる。

「んー……びみょ。口コミなら星一つ」

「めちゃくちゃつまんないじゃん……」

「だって善人を殺せば読者は泣くだろ、ってーな薄っぺらい思考が透けて見えるんだもん。展開もガバいし、終盤やたら駆け足だし。それでも一応はお涙頂戴シーンで泣いてやったら、最後には謎パワーで生き返りやがるんだぜ? 行間で七つの玉でも集めてたんかっつーの」

 ものすごい罵詈雑言だった。批評と批判の境目、というか普通に悪口だ。

「はあ……だったら猶更、なんで何週もしてんのさ」

 すっかり呆れてしまった僕は、半ば投げやりにそんな質問をする。どうせ同じような口汚い言葉が飛び出すのだろう、と思っていたら、意外にも姉は「……どうしてだろうなー」と口ごもった。

「あたしにもよー分からん。初めて読んだ小説だから……あ、いや、最初に読んだのはハリポタだわ」

 姉は小説をぼーっと読みながら、「んー?」と考え込む。僕はどうしてかその様子から目を離せず、ただ、姉の次の言葉を待った。

「……そうだな」ぽつぽつと話し出す。「出来が悪いからこそ、かもしれん」

「……出来が悪いから、こそ?」

「ん。さっきも言ったけど、この作品、最後には死者が生き返るんだ。最初はあたしの感動を返しやがれって思ったけど……でも、やっぱりそいつが生き返ったことは、嬉しくてさ」

「…………」

「なんつーか、それを見て、『ああ、都合の良い夢を見るって素敵だな』、なんて思ったわけ。どれだけ不出来で、不明瞭で、不細工でも……人間は、好きに夢を見ていいんだって。それが作者の伝えたかったことかは知らねーけど……あたしは、それを教わった」

 かつて、そんな会話をした。

 当時は意味が分からなかったけれど……今なら、少しだけ、分かるような気がする。

 ――姉は村の巫女だった。

 年に一人、未成年の少女を蛇の神様へと捧げるという、下らない因習の残る村。姉は、そんな村における今年度の巫女として選ばれた。

 最悪なのが、その因習が政府公認である点だ。正確には公認ではなく黙認だが――『死体を政府へ引き渡す』という約束の下、この村ではずっと昔から続く因習が、現代でも行われていた。

 政府によって回収された死体がどうなっていたのか、今となってはよく分かる。科学、或いは医学の発展のために、自由にしていい人体実験素材として用いられてきたのだ。

 三枝さんは、そんな人体実験の結果として生まれた成長しないクローンだったってわけだ。クローンを成長させる手間がかからずお手軽、故に爆弾に最適、と。

「――姉貴は、このままで良いのか」

 僕は聞く。それでようやく、姉はぱたんと小説を閉じて、「良いも悪いもねーだろ」と頭を掻いた。

「これは単に、あたしが死ぬか別の女が死ぬかっつーだけの話だ。別に誰かを犠牲にしてまで生き永らえたい理由もねーしな」

「――僕と姉貴が居れば、逃げることだって」

「くはっ……村の奴らと政府の両方から逃げるって、お前正気か? 惨殺されるか地下で一生飼い殺されるかの地獄ロシアンルーレットなんて、あたしはやりたくねーの。おーばー?」

「…………」

 当時の僕は、何も言い返せなかった。その時は自身に力が無いからだと歯噛みしたけれど……こっちは、権力を得た今になっても変わらないかな。

 三枝音葉は、イヤになってしまうくらい強い姉だったのだ。今も昔も、僕は姉のそんなところが嫌いだったし……今でも、敵わないと思っている。

「ま、あたしが死んでも元気でやれよな。お前ならでっかく成功……は、出来るか知らねーけど、まあ人並みの幸せくらいなら手に入るだろ」

 そう言って、姉は読書へ戻った。

 ――そんな記憶を、僕は思い出した。


「ふう……」

 空を見上げ、僕はゆっくりと息を吐く。

 自宅のアパート横に併設された公園には、僕を除いて誰も居なかった。それが平日だからなのか、単に公園なんてもう流行らないからなのかは、知らないけれど……今の僕にとって、そこは最適な場所だった。

 ――三枝さんも、空を見ることが出来ただろうか。

 そんなことを考える。

「…………」

 別に、三枝さんと姉を重ねていたわけじゃ無い。相手が誰であろうと、仕事を聞かされた時点で逃がしてやろうと考えていたのだ。ただ、それが姉と同じ遺伝子を持つ子だった、というだけ。

 もっとも、結果は失敗だったが。

 三枝さんは見事役目を果たして頭を撃たれ、僕はその功績が認められて昇進が決まった。あれ程当時欲しかった筈の権力は、いざ得てみると、嬉しくもなんともないものだった。

 ――三枝さんが部屋を去った後、僕は彼女の部屋を少しだけ掃除した。ちょっとでも彼女の人生に報いたかったのかもしれないし、単に自身の気持ちに整理をつけたかっただけかもしれない。その際、枕元へ大切そうに置かれた、何冊かの冊子と飴玉を見て……その時の気持ちを、僕はこれから一生かけたって言葉にできる気がしない。

 彼女は僕の下らない話を、けれどいちいち瞳を輝かせて聞いていた。普通、という存在を空想し、嬉しそうな、哀しそうな表情を浮かべていた。仮に彼女を映画館へ連れて行ってあげたなら、どんな表情をしただろう、そう考えるだけで目頭が熱くなる。

 三枝音葉さん。姉とは、性格も話し方も価値観も似ても似つかなくて――その癖、人の尊厳に満ちた背中だけはそっくりだった、一人の女の子。

「――もっときみを知りたかったよ、三枝さん」

 呟いた言葉は遠く。

 太陽は、優しく世界を照らしていた。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

七日間のラプラス 水科若葉 @mizushina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ