第2話

さて、どうしたものか……。


目の前には白磁の器に注がれたお茶と、中学生ぐらいの白銀の髪の少女。互いに見つめ合うこと数刻、器から立ち上る湯気が、時がまだ動いていることを静かに示していた。


ぐるりと周囲を見渡す。……やはり、どこか違和感を感じる。木の造りも、室内の匂いも、何かが違う。


ふと、少女がすっ、と動いた。


少し戸惑うように視線を泳がせ、それから胸元をそっと指さして小さくつぶやく。


「……𐎧𐎠𐎶」


ノア、だろうか。確かにそう聞こえた。彼女の名前だろう。


繰り返すように俺が「ノア、ノアだな」と言うと、少女──ノアはパーッと顔を輝かせて何度も頷いた。


合っていた……よかった。胸の奥で安堵の波が静かに引いていく。


俺もまた、自己紹介すべきだと感じ、彼女の仕草を真似て自分を指さす。


「家栖霧兎……キリト。き、り、と」


ノアは一語ずつ確認するように復唱し、「きりと」と呟いた。


「ああ、そう、それだ」


お互いに「ノア」「キリト」と繰り返しながら、笑い合う。言葉が通じなくても、確かに何かが伝わった気がした。


やがて俺は、手近な床に指を伸ばし、川の流れをなぞるような線を描いた。その線の端に小さな円を描き、そこを指差す。


「ここに……来た。ここに、俺は……」


身振り手振りで伝えようとする。バイクの鍵を取り出して見せ、それが“移動”を意味していることを示すように地面の線を指で滑らせる。鍵が指に触れると、カチャリと金属音が小さく響いた。


ノアは真剣な表情でその様子を見守り、小さく息を呑んだ。


彼女は静かに立ち上がり、首をかしげながらも自分の胸を手で軽く叩き、俺を見つめる。


「…𐎸𐎠𐎶𐎠 𐎹𐎢𐎴𐎠𐎼𐎡𐎹𐎠 𐎢𐎴𐎠。𐎸𐎠𐎶𐎠 𐎠𐎼𐎹𐎠𐎫 𐎧𐎣𐎡𐎫𐎠𐎼。」


その目はまっすぐ俺を見つめ、決心に満ちていた。ああ、この幼き子は俺を励まそうとしているのか。


彼女の声は穏やかで、けれどどこか確かな響きを持っていた。


俺はその意図をくみ取るように、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとう、ノア」


ノアは少し恥ずかしそうに、けれども嬉しげに微笑んだ。


そのとき、ノアがすっ、と立ち上がる。棚の奥から、小さな木箱を取り出して戻ってくると、ふたを開け、中から銀細工の細い指輪を一つ取り出した。


それは装飾こそ控えめだが、独特の形状をしていた。表面には古めかしい文様が刻まれ、触れるとわずかにひんやりとした感触が伝わってくる。


ノアはその指輪を両手で包むように持ち、しばし俺の顔を見つめた。


そして、ゆっくりと俺の手を取ると、掌にそっと置くように丁寧にその指輪を渡してくる。


「𐎧𐎡𐎶𐎠 𐎹𐎢𐎴𐎠𐎼 𐎠𐎴𐎡𐎺𐎼𐎠𐎫」


その言葉の意味はわからない。それでも、彼女のまなざしからは明らかに“歓迎”の気持ちが読み取れた。


俺は少しだけ戸惑いながらも、指輪を受け取り、静かに頷いた。


「……ありがとう」


ノアは微笑みながら、また一つ息をついた。


そのまま彼女は、部屋の隅に置かれていた木製の台の前にしゃがみ込んだ。どうやら何かの作業を始めるらしい。


俺は気になって、そっとその傍らに腰を下ろす。


ノアは棚から薪のようなものをごそりと取り出し、石でこしらえた炉の前に座った。そっと目を閉じ、小さな声で何かを呟く。


そのまま両手をかざすようにして、薪に向かってそっと息を吹きかけた。


薪の隙間から淡い青白い光がにじむようにして広がり、乾いた音と共に火が自然に灯る。炎はゆっくりと揺れながら、まるで意志を持っているかのように整った形を保って燃え上がった。


ノアは炉の前に再び静かに膝を折った。細い指先で、今度は白鼠色の壺をそっと開ける。中には、小さな白花色の花弁のような乾いた植物が重ねられていた。彼女はその中からひとつ、そっと摘み取ると、それを両手のひらでふわりと覆い、目を閉じる。


部屋の中に、音が消えたような静寂が流れる。


ノアは囁くように呟いた。声はまるで空気の奥に沁みこむようで、言葉というよりも、風や水のさざめきに近い。彼女が掌を開くと、そこに光が滲むように浮かび上がった。


──光というにはあまりに柔らかく、白金色というにはあまりに澄みすぎていた。それは星明かりをすり潰して水に溶かしたような、ひと筋の光。


彼女が手を広げると、雫の形をしたそれは火に落ちる。


薪のあいだから、青銀に光る霧が花火のような明かりと共にと立ちのぼる。静かに波打つその霧は、見る角度によって深縹や瓶覗、そして青白金の光を織り交ぜるようにきらめいた。炎がつくり出すはずの温もりよりも、むしろどこか凛とした清冽さを伴う。


香りが、静かに満ちていく。


はじめに鼻先をかすめたのは、冷たい湖に落ちたばかりの白梅の花のような、澄んだ緊張感をたたえた水縹の香り。 続いて、寺の石庭に降ったばかりの雨の匂いに似た、濡羽色の苔の芳香がしっとりと漂い、 さらに奥からは、囲炉裏端で干された杉板に似た、陽を吸った樺茶色の木肌が立ち上らせる素朴なあたたかみが香る。 それらが重なり、微かに懐かしい空気を織り上げていく。 胸の奥で忘れていたぬくもりがそっと息を吹き返すようだった。


俺は、その空気を吸い込んだ瞬間、自分の中にあったものが音もなく崩れていくのを感じた。


胸の奥で絡まっていた不安が、するするとほどけていく。頭を絞めつけていた焦燥が、遠くへ流されていく。


見えていたはずの焚き火の輪郭がぼやけ、ノアの動きも緩やかな残像を引いた。耳元でささやく風の音が、どこか遠い場所からの子守唄のように響く。


理由もわからぬまま、まぶたが落ちていくような感覚。心の表面を撫でる光が、ゆっくりと深く、意識の奥へと染み込んでいく。


ただ、静かに、一雫ひとしずく、涙が零れた。


ノアは彼の変化に気づいたように、小さく瞬き、そっと微笑んだ。そして、再び柔らかな声で語りかける。


「𐎸𐎠𐎶𐎠 𐎹𐎢𐎴𐎠𐎼𐎡𐎹𐎠 𐎢𐎴𐎠。𐎸𐎠𐎶𐎠 𐎠𐎼𐎹𐎠𐎫 𐎧𐎣𐎡𐎫𐎠𐎼。」


──「迷える旅人よ、不安だったろう、疲れただろう。せめてここがあなたにとっての安息の地とならんことを。」


火の光が、彼女の銀の髪を淡く照らす。その瞳の縹色もまた、どこか遠い記憶のように滲んでいた。



*  *  *


――どれくらい、眠っていたのだろうか。


 まぶたの裏に残る蒼い光の残滓が、まだ心のどこかに柔らかく滲んでいた。ふと目を開けると、すでに夜の帳が静かに降り始めていた。


 薪の火は小さくなっていたが、まだわずかに残る橙の灯りが壁に揺れを映している。鼻先に届いたのは、乾いた薪の焦げる香りに混じって、ほのかに漂うやさしい匂い――何かが煮込まれている。


 耳を澄ますと、部屋の奥、仕切られた台所の方から、と小さな音が聞こえてきた。


 俺はゆっくりと腰を上げ、音のする方へと歩を進めた。


 台所の奥に、小さな鍋が掛けられていた。中から立ち上る湯気が、室内の空気にふんわりと溶け込む。その香りは――醤油にも味噌にも似ていない、けれどどこか穀物の甘みを思わせる、そんな匂いだった。


 そしてそこには、ノアがいた。


 彼女は背を向けたまま、火の加減を見ていた。鍋の中身を木の柄のスプーンで静かにかき混ぜ、ふとこちらに気づいて振り返る。


 彼女は驚いたように目を見開いたが、それは一瞬のこと。すぐに表情を緩め、小さく笑みを見せた。


 「𐎧𐎡𐎹𐎠𐎫𐎠 𐎧𐎠𐎹𐎡𐎶𐎠𐎫?」


 意味はわからない。でも、声の調子と瞳の柔らかさが、俺を気遣っている気配をはっきりと伝えていた。


 少し戸惑い名がらも、無意識下に俺も、小さく頷いて応える。


 ノアは小さく手を振り、鍋を指さしながらもう一度何かを言った。


 「𐎧𐎡𐎹𐎠𐎫𐎠 𐎮𐎢𐎼𐎠𐎫𐎡𐎴𐎠𐎶、𐎹𐎢𐎴𐎠𐎼𐎡𐎹𐎠?」


 その声はまるで、食べる?とでも言っているようだった。


 俺の腹がタイミングよく鳴った。


 ノアはくすりと笑い、器を手に取ると、慎重に鍋から中身をよそい始めた。器に注がれたそれは、淡く乳白色のとろみを帯び、何か根菜のようなものが小さく刻まれて浮かんでいる。湯気と共に立ち上る香りが、また少しだけ、俺の心をほどいていく気がした。


 香りに誘われるようにして、俺の腹がまた小さく鳴る。ノアはくすりと笑い、火にかけていた鍋を小さな木製の台に移すと、そっと器に注ぎ分けた。


 器の中には、薄い乳白色のとろみを帯びたスープのようなものが満ちていた。中には根菜のようなものや、小さな穀物らしき粒が浮いている。ほのかに甘く、土の匂いと似た温もりがあった。どこか、日本の雑炊にも近い、そんな印象。


 ノアはそのうちの一杯を俺に差し出し、柔らかく口を開いた。


 「𐎧𐎡𐎹𐎠𐎫𐎠……𐎧𐎡𐎹𐎠𐎫𐎠」


 指で器を指しながら、もう一度繰り返す。「𐎧𐎡𐎹𐎠𐎫𐎠」


 どうやらこの食べ物の名前を教えてくれているようだ。俺もそれに倣って、器を指しながら言葉を繰り返す。


 「マズフマミ……マズフマミ、で合ってるか?」


 ノアはうれしそうに頷いた。その笑みにつられるように、俺もつい笑ってしまう。


 俺もまた、何か言葉を教えられないかと考えた。器を指し、「これは、雑炊だ」と日本語で言ってみる。


 ノアはきょとんとしながらも、俺の口の動きを真剣に見つめる。そして、少しずつ唇を動かしてつぶやいた。


 「……ざ……すぃ?」


 「うん、まあ、そんな感じだ」


 笑いながらも、どこか不思議な気持ちが胸に広がった。ほんのわずかだけど、橋がかかったような気がした。


 ノアは今度はスプーンを持ち上げ、それを示しながら「𐎿𐎢𐎴𐎠𐎺𐎠」と小さく言った。


 「スナファマ……スナファマか、これは俺んとこじゃ、スプーンって言うんだ」


 「すぷ……ん」


 「惜しい、スプーン。……まあ、いいか」


 ふたりで小さく笑う。言葉が通じなくても、こんな風に笑い合えるなんて思ってもみなかった。


 外はすっかり夜に包まれていた。窓の外には星がまたたき、どこか遠くで小さな虫の声がかすかに聞こえる。


 言葉も習慣も何もかもが違う世界で、少しずつ、ほんの少しずつだけど、俺は確かに彼女と、ここに馴染みはじめていた。


 食事を終えると、ノアは小さく首を傾げながら、火のそばに置かれた長い棒のようなものを取り上げて火にくべた。再び薪がぱちりと音を立て、部屋の空気がほのかに温まる。


 そのとき、ふと俺の中に、疑問が湧いた。


 「なあ……さっきの、あれ……」


 俺はゆっくりと手を前に出し、ゆらぐ炎のように掌を動かしてみせた。


 ノアはしばらく俺の動きをじっと見つめていたが、やがて何かに思い至ったように、ぽんと手を打つと、静かに頷いた。


 そして、小さくつぶやく。


 「𐎧𐎡𐎹𐎠𐎫𐎠 𐎼𐎠𐎹𐎡𐎶𐎠𐎫?」


 言葉の意味は分からない。


 俺は再び問うように、首を傾げた。


 ノアはためらうことなく、自らの胸に手をあてた。そして、静かに目を閉じると、また、さっきのような柔らかな光が彼女の掌の中に灯った。


 それは、淡い青――まるで夜明けの空を溶かしたような色だった。


 この世界には、魔法がある。 俺は、目の前の現実を、ようやくそう受け止めはじめていた。


 ……いや、それだけじゃない。  言葉が通じず、文化も違う。それでも彼女は俺に微笑み、名を呼び、食事を分け与えてくれる。


 そうか、やっぱり俺は――異世界に来たんだ。  異邦人として、どこかの、知らない誰かの世界に。


 炎のゆらぎとともに、認めがたい現実と認めざるを得ない現実が混ざり合うのを感じた。




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異界走行黙示録 芋粥うどん @Tsunedrayama

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