一夜の過ち

クロノヒョウ

第1話




 この晴れ渡った空が憎らしい。

 休日の心地よいお日様も、公園で楽しそうに遊んでいる子ども連れの家族も、芝生の上で幸せそうに寝転んでいる夫も、そして私自身も、全てが消えてなくなってしまえばいいと思っていた。



 結婚して五年。

 子ども好きな夫は赤ちゃんを授かることをずっと心待ちにしていた。

 毎日基礎体温を計り排卵日にがんばり続けてもなかなか妊娠できなかった。

 お互いに検査もして何も異常はなかった。

『授かり物だから仕方ないよ』

 そう言ってはくれるものの、夫はいつも残念そうな顔をしていた。

 私だって夫を喜ばせてあげたいし、お互いの両親に孫の顔を見せてあげたい。

 申し訳なさと見えないプレッシャーで押しつぶされそうになっていた。

 それに伴い溢れてくる不満。

 子どもを作るためだけのセックス。

 排卵日に入れて出すだけのセックスはただの作業と化していた。

 排卵日以外は私に触れることもなく背中を向けて眠る夫。

 ほてった体をどうすることもできずにもてあましていた私は限界をむかえていたのかもしれない。



「春川?」

 街で通りすがりに声をかけられた。

 旧姓、懐かしい名前だった。

「先輩!?」

 立ち止まって振り向くと、高校生の頃の先輩が私を見下ろしていた。

「やっぱり春川だ。すげえ偶然」

「本当だ、えっ、先輩もこっちに?」

 偶然にもまさか地元の知り合いに会うとは思ってもみなかった。

「いや、出張。春川は?」

「私は大学からこっちです。あ、もう春川じゃなくて高橋ですけど」

「あ、そうか、ごめんごめん」

「いえ」

 先輩の残念そうな顔が私の心をあたたかくしてくれた。

「でも全然変わってないな春川、じゃなくて、高橋」

「あはっ、すみません、春川で大丈夫ですよ」

 高校生の頃、先輩に猛アタックされたことを思い出していた。

「先輩も変わってないです。てか、またカッコよくなってません?」

 あの頃より背は伸びているし相変わらずスタイルもいい。

 私が先輩の告白を断わったのは、先輩があまりにもカッコよくてモテていたからだ。

 そんな先輩が私を好きだなんて信じられるわけがなかった。

 きっと罰ゲームか何かだと疑っていたし、もしも付き合ったとしても女の先輩の目が恐ろしくて私には無理だと判断したのだ。

「そんなことないよ。春川も相変わらず可愛いな」

「か、可愛い!? いやいや」

 可愛いなんて言われたのはいつぶりだろうか。

 大学で知り合った夫にも言われていたが、結婚してからそう言われることはなくなった気がする。

「ちょっとお茶しない?」

 懐かしさと嬉しさと、私を見る先輩の優しい目に流されていたのは間違いない。

 私たちはカフェで思い出話に夢中になっていた。

「俺さ、あと三日こっちにいるんだけど、また会えないかな」

 楽しい時間はあっという間だった。

 そろそろ仕事に戻らなきゃと言った先輩は私の手を強く握った。

「はい」



 次の日、私は先輩が泊まっているホテルの部屋のドアをノックした。

 家をあけるのは簡単だった。

 急な同窓会で実家に帰ると言った私に夫は「たまにはゆっくりするといいよ」と言って笑顔で送り出してくれた。

「春川、本当にいいの?」

 私を見て嬉しそうな顔をしてくれる先輩。

 私たちはもう大人だ。

 こうやって部屋にくるということがどういうことか、わかっていたし覚悟はできていた。

 うなずいた私に優しくキスをする先輩。

 もうずいぶんと久しい緊張感と高揚感。

 それが私だってまだ二十七歳だということを思い出させてくれていた。

「綺麗だよ、春川」

 私の体を見つめる先輩。

「もっと、言って」

 何度も「綺麗だ」「可愛い」と言ってくれる先輩に私は一晩中必死でしがみついていた。



 一夜の過ちとはよく言ったものだ。

 あれから二ヶ月経って、私は妊娠した。

 夫の子か先輩の子か。

 欲望に逆らえなかった私に神は罰を与えたのか。

「天気いいからさ、公園にでもいかない?」

 妊娠を告げた時の夫の喜びようはすさまじかった。

 顔を赤らめ泣きそうになりながら私を抱きしめてくれた。

 一日中私の体を気づかってくれる優しい夫。

 公園に来て幸せそうに日向ぼっこをする夫。

 私だけが今、後悔と恐怖の闇にのみこまれようとしている。

 もしもこの子が夫の子ではなかったら。

 私はどんどん闇の中に引きずり込まれてゆく。

 全て私の過ちだ。

 もうこの世から消えてなくなってしまいたい。

 お日様と子どもたちの笑い声で輝く公園。

 隣で眠る夫を見ながら、私は静かに涙を流した。



           完




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