第28話 アリスー③
結局、新たな部屋でそれぞれ朝を迎えた。
(あんまり寝れなかった気がする。)
「…寝れなかったのか。そんな繊細な玉じゃないだろう。」
挨拶も無しにかけられた言葉は、以前だったら軽く流していたと思う。
しかし、ジャックも自分と同じように昨日のリリスの発言で悩んだのではないか、そんな自分を気遣っているのではないかと余計な勘繰りをしてしまった。
無言でリリスの部屋へと向かいながら、昨日、ロビーでの姿を思い起こす。
リリスの言葉に、リツは、息を呑んだまま、視線を逸らせなかった。
その言葉は、冷たく響いたはずだった。
計算高く、無慈悲な意味として受け取ることもできた。
なのに、どこか、胸の奥が騒めく。
<命は尊い。だから、いちばん無駄にならないところに置く。>
(違う…いや、違うのか?)
あの言葉は、命を切り捨てる論理じゃない。一晩悩んだ結果、そうリツは確信していた。
戦場で命を雑に扱う連中とは違う。
もっと、世界の不条理を理解した上で、それでもなお立ち向かおうとする者の声。
(……あの人、捨ててないんだ。命も、希望も。)
リツは、リリスという人間の“中身”に一瞬だけ触れた気がして、
それが不思議なほど、胸に引っかかった。
(あの人に……情があるなんて、思いたくなかった。)
いつも冷酷無慈悲に薄い微笑みを称えている彼女の人間の部分。
彼女は、平然と他人の命を道具にするように見えて、それ以上に自分を軽んじていたのだ。
自分という存在を、ただの駒として最大限に使うために、命すらも計算に組み込んでいる。
それでいて、彼女は、命を道具として使うという責任から逃げずに向き合っている。
だからこそ、最大限活用するとの決意から溢れ出た言葉だったのではのではないだろうか。
フェッレット事務官に会って、彼の純粋さを眩しいと思っている自分に気が付いた。
だが、彼女はその眩しさに背を向けることなく、正面から受け止め、覚悟で応えた。
彼女の言葉に応えるように、ロビーから戻るフェレット事務官の表情は緊張だけでなく、決意のようなものが滲んでいたように思う。
リツも同じだった。
人として、惹かれてしまう。
信じてしまう。無意識に。彼女の信じるものを。
(……僕は、やっぱりリリスさんを信じてみたい。)
それが、一晩悩んだ末のリツの結論だった。
何も言わないリツの様子に、珍しくこちらを伺うようなジャックと目が合う。
「…ちょっとだけだよ。でも、ジャックも昨日は遅かったんじゃないのか?」
「ああ、少しな。」
フェレットが貴族議員会館に戻ってから、リリスはジャックにだけ個別の依頼を行っていた。
「結局、何だったんだ?」
ジャックは肩をすくめる。
「……ああ、最近は色んな人間とよく会うな。」
「え?」
意味深な言い方だった。
リリスの部屋へと向かう朝の廊下には、ホテル従業員が各部屋に届けていた朝刊がずらりと並んでいた。
「レディーリリスから朝刊を持ってくるよう言われているから先に行け。」
「ああ。」
ジャックの後ろ姿を追ってチラリと表紙を見る。
そこには、衝撃的な見出しが躍る。
<自国民を巻き込んだテロ ― ホテル爆破事件>
思わず眉をひそめ、ジャックを押しのけるように新聞を手に取る。
見開きの記事には、ホテルでの爆発事件の詳細が、あたかもヴェストリア連邦国内の強硬派による“内乱的テロ”であるかのようにセンセーショナルに記されていた。
「……嘘だろ。」
リツは唇を噛みながら紙面を繰る。
爆破の背景には、戦争を助長するような破壊活動があるという憶測、さらに今後市民にまで被害が及ぶ危険があったことが強調されていた。
だが、そこに“アリス”の名は、一切記されていない。
事件の被害者としてさえ、彼女は存在していなかった。
(徹底的に、痕跡を消してる。)
まるで、彼女が“最初から存在しなかった”かのようだった。
そして代わりに紙面を覆っているのは、 「強硬派=国民を狙う危険思想集団」という、あまりにもわかりやすいレッテルだった。
記事によれば、声明文等があるわけではないが、複数の遺体それもヴェストリア連邦を過度に称える際に使われる旗のシンボルが目撃されたとされている。
(情報戦……いや、“印象戦”だ。)
「昨日の成果だな。」
ジャックの顔に美しい微笑みが浮かぶ。
どうやったかは分からない。しかし、反逆者狩りに対しての脅しは、リリスが物理的に彼らを返り討ちにすることだけではなかったのだ。
ヴェストリア連邦国内で進行する“反逆者狩り”を主導している”強硬派に対して、その正当性を崩し、世論の不信感を植え付ける。
強硬派とは、市民を巻き込むような勢力であり、国民を傷つける危険思想だと知らしめたのだ。
(……他国であっても、
リツは手に持った新聞を畳む。その顔にはうっすらと微笑みが浮かんでいた。
やり方は冷酷だ。
たった一夜で、悪意の対象をたった一人の命から”国民全体”へとすり替えたのだ。
「リリスさん……。」
小さく呟いた名は、新聞には一文字も存在していなかい。
しかし、ヴェストリア連邦の歴史の一頁が、確かにその手で書き込まれていた。
朝刊を持ってリリスの部屋の扉を開ける。
「あら、リツ君、少しいい顔をするようになったわね。」
アリスの表情の奥に、見慣れた微笑みが見えた。
§
昼下がりの陽光が廊下の壁に差し込むころ、ホテルの内線に一報が入った。
リツがロビーまで降りると、そこには昨夜よりもさらにやつれた顔のフェレット事務官の姿があった。
ワイシャツの襟元は乱れ、眼の下にはくっきりとした隈。
一晩中、ほとんど眠らなかったのだとすぐにわかる。
「……ご無沙汰しています。アリス臨時顧問と、リツさん、ジャックさんにも。」
いつもの丁寧な口調を保ってはいるが、声にかすれがあった。
「お疲れですね。」
リツが声をかけると、フェレットは苦笑した。
「ええ、徹夜です。……というより、昨日から、その騒然としていて、寝る空気でもなくて。」
小さなため息と共に、フェレットの手には折りたたまれた新聞があった。
椅子を薦めると、ゆっくりとそれを広げる。
「……こちらの記事ですが……今、タレコミ先を軍が血眼になって探しています。我々としても流石に事件自体を隠せるとは思っていませんでした。その、ですが、こういった形で出るとは完全に予想外です。」
呆然としたまま、彼は記事の見出しに目をやる。
「皆さんは、その、関わっていないですよね。」
「…。」
リリス―――アリスは当然応えようとしない。
沈黙に耐えかねたフェレットが唾を飲み込む音がやけに響いた。
「………大丈夫です。一応、確認して来いとは言われましたが、国賓に簡単には手出しできないので。」
その声には、驚愕よりも、どこか諦めにも似た感情が滲んでいた。
(疑ってはいる…けど、こっちの味方?いや同士ぐらいには思ってくれているのかもな。)
昨日の様子もそうだが、フェレットは今回の協定に対して前向きであるのは変わっていないようだ。ホッと胸を撫でおろす。
だが、次の瞬間、彼は気を取り直すように顔を上げた。
「ただ、皆さんには明日までヴェストリア連邦側の護衛も付くことになったので、それだけご了承ください。」
「”護衛”ね…。」
ジャックの疑いを隠そうともしない態度にフェレットが冷や汗を流す。
「あの、実は、今回の記事も踏まえて……議員の方がも含め、空気が変わりまして。」
リツが目を見張る。「ほう?」とジャックが片眉を上げた。
「何人か、昨夜まで腰が引けていた議員の方々が、今朝になって自分も出席すると態度を変え始めたんです。」
「明日の件か?」
「はい。非公式対話の場の設置、現実的な見込みが立ってきました。」
声は疲れていたが、その目には確かに光が宿っていた。
「…効いているな。」
ジャックが口角を上げる。
アリスが口を開いく。
「感謝します。フェレット事務官。」
フェレットに対して初めての笑みだった。
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