さよならの温度
雨宮悠理
さよならの温度
夕暮れの光が、教室の窓ガラスを淡く染めていた。
黒板には卒業を祝うメッセージの痕跡が薄く残っていて、机の間をすり抜ける風が、紙を一枚、ひらりと床へ落とす。
「先生」
そう呼ぶと、彼女は振り向いた。
俺が高校に入学した春に、赴任してきた先生。初めて見た瞬間、胸が強く跳ねたのを覚えている。
透き通るような静かな雰囲気と、白い肌に黒髪のコントラスト。話す声は落ち着いていて、どこか冷たそうなのに、笑うとふわりと空気が柔らかくなる。
……そんな先生に、一目惚れした。
それからというもの英語の質問、授業の感想を伝えることを理由に、何度も職員室を訪れた。先生は俺の拙い英語を笑いもせずに聞いてくれて、どんな質問にも根気よく答えてくれた。時には他愛のない世間話まで付き合ってくれた。
そんな時間が、心地よかった。
「どうしたの? 卒業前の補習?」
澪先生が微笑む。その表情を見て、俺は改めて実感する。
これは、もう最後の時間なのだと。
「……先生、結婚するんですね」
その言葉に、先生の表情がわずかに揺れた。
「……誰に聞いたの?」
「職員室で話してるのを、たまたま」
「そっか」
澪先生は、窓の外へと目を向ける。
赤く染まる校庭、長く伸びた鉄門の影。門限まで、あと少し。
「……先生、」
俺は、どうしても言わずにはいられなかった。
「行かないでほしい」
澪先生は、何も言わなかった。
俺の言葉を否定することも、肯定することもなく、ただ、そこに立っていた。
「先生が好きです」
声が震えそうになるのを、必死にこらえた。
「ずっと、先生のことが好きでした」
あの職員室の小さな机で、先生が仕事をしている横顔を、何度も目に焼き付けた。
思い切り笑うときの、くしゃっとした表情も、悲しそうに窓の外を見る横顔も、全部。
でも、俺の気持ちがどれだけ募っても、先生はきっと振り向かない。
だって――
「……ふふっ」
小さく、笑い声がした。
澪先生が、ふっと肩をすくめる。
「まいったなあ」
冗談めかした口調なのに、どこか寂しそうな声だった。
「こういうこと、もっと早く言ってくれたらよかったのに」
心臓が跳ねる。
そんなの、無理だ。
先生と生徒という関係があったから、ずっと言えなかった。
でも、今なら――。
言葉を探していると、先生は少し視線を落としながら、かすかに微笑んだ。
「……こんなこと言うなんて、すごくずるいよね」
申し訳なさそうにそう言う先生の声が、心に絡みつく。
「ごめんね」
そんな顔をされたら、何も言えなくなる。
あと一歩、近づく。
澪先生は動かない。
それを拒まないなら、俺は――。
その瞬間。
校内放送のスピーカーが音を立て、門限を知らせるチャイムが鳴った。
足が、止まる。
澪先生は、ふっと目を伏せて、かすかに微笑んだ。
「……もう行かなきゃ」
このまま先生が去ってしまえば、二度とこの距離には戻れない。
そんな気がして、思わず手を伸ばす。
本当は、抱きしめたかった。
この温もりを、一度だけでも確かめたかった。
でも、それは許されない。
だから、俺は。
「……先生」
伸ばした手で先生の手を、そっと握りしめる。
先生が驚いたように目を丸くした。
「……篠宮くん?」
「せめて、握手だけでも」
ほんの一瞬、先生の表情が揺れる。
だけど、すぐに優しく微笑んで、俺の手を握り返してくれた。
先生の手は、思ったよりも冷たかった。
春先とはいえ、まだ肌寒い風が吹く。
それでも、触れた指先から、確かに温度を感じた。
「先生」
「うん?」
「……ずっと、そのままでいてください」
澪先生は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それから――。
「ありがとう」
静かに微笑んだ。
手を離した瞬間、冷たい風が指先をかすめる。
俺は、何も言えずに見送る。
先生が消えていく、夕暮れの中を。
わかっていたのに。
涙が、止まらなかった。
さよならの温度 雨宮悠理 @YuriAmemiya
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