さよならの温度

雨宮悠理

さよならの温度

 夕暮れの光が、教室の窓ガラスを淡く染めていた。


 黒板には卒業を祝うメッセージの痕跡が薄く残っていて、机の間をすり抜ける風が、紙を一枚、ひらりと床へ落とす。


「先生」


 そう呼ぶと、彼女は振り向いた。


 氷川ひかわみお、二十六歳。

 俺が高校に入学した春に、赴任してきた先生。初めて見た瞬間、胸が強く跳ねたのを覚えている。


 透き通るような静かな雰囲気と、白い肌に黒髪のコントラスト。話す声は落ち着いていて、どこか冷たそうなのに、笑うとふわりと空気が柔らかくなる。


 ……そんな先生に、一目惚れした。


 それからというもの英語の質問、授業の感想を伝えることを理由に、何度も職員室を訪れた。先生は俺の拙い英語を笑いもせずに聞いてくれて、どんな質問にも根気よく答えてくれた。時には他愛のない世間話まで付き合ってくれた。


 そんな時間が、心地よかった。


「どうしたの? 卒業前の補習?」


 澪先生が微笑む。その表情を見て、俺は改めて実感する。

 これは、もう最後の時間なのだと。


「……先生、結婚するんですね」


 その言葉に、先生の表情がわずかに揺れた。


「……誰に聞いたの?」


「職員室で話してるのを、たまたま」


「そっか」


 澪先生は、窓の外へと目を向ける。

 赤く染まる校庭、長く伸びた鉄門の影。門限まで、あと少し。


「……先生、」


 俺は、どうしても言わずにはいられなかった。


「行かないでほしい」


 澪先生は、何も言わなかった。


 俺の言葉を否定することも、肯定することもなく、ただ、そこに立っていた。


「先生が好きです」


 声が震えそうになるのを、必死にこらえた。


「ずっと、先生のことが好きでした」


 あの職員室の小さな机で、先生が仕事をしている横顔を、何度も目に焼き付けた。

 思い切り笑うときの、くしゃっとした表情も、悲しそうに窓の外を見る横顔も、全部。


 でも、俺の気持ちがどれだけ募っても、先生はきっと振り向かない。


 だって――


「……ふふっ」


 小さく、笑い声がした。


 澪先生が、ふっと肩をすくめる。


「まいったなあ」


 冗談めかした口調なのに、どこか寂しそうな声だった。


「こういうこと、もっと早く言ってくれたらよかったのに」


 心臓が跳ねる。


 そんなの、無理だ。


 先生と生徒という関係があったから、ずっと言えなかった。

 でも、今なら――。


 言葉を探していると、先生は少し視線を落としながら、かすかに微笑んだ。


「……こんなこと言うなんて、すごくずるいよね」


 申し訳なさそうにそう言う先生の声が、心に絡みつく。


「ごめんね」


 そんな顔をされたら、何も言えなくなる。


 あと一歩、近づく。


 澪先生は動かない。


 それを拒まないなら、俺は――。


 その瞬間。


 校内放送のスピーカーが音を立て、門限を知らせるチャイムが鳴った。


 足が、止まる。


 澪先生は、ふっと目を伏せて、かすかに微笑んだ。


「……もう行かなきゃ」


 このまま先生が去ってしまえば、二度とこの距離には戻れない。

 そんな気がして、思わず手を伸ばす。


 本当は、抱きしめたかった。


 この温もりを、一度だけでも確かめたかった。


 でも、それは許されない。


 だから、俺は。


「……先生」


 伸ばした手で先生の手を、そっと握りしめる。


 先生が驚いたように目を丸くした。


「……篠宮くん?」


「せめて、握手だけでも」


 ほんの一瞬、先生の表情が揺れる。


 だけど、すぐに優しく微笑んで、俺の手を握り返してくれた。


 先生の手は、思ったよりも冷たかった。


 春先とはいえ、まだ肌寒い風が吹く。


 それでも、触れた指先から、確かに温度を感じた。


「先生」


「うん?」


「……ずっと、そのままでいてください」


 澪先生は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それから――。


「ありがとう」


 静かに微笑んだ。


 手を離した瞬間、冷たい風が指先をかすめる。


 俺は、何も言えずに見送る。


 先生が消えていく、夕暮れの中を。


 わかっていたのに。


 涙が、止まらなかった。

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さよならの温度 雨宮悠理 @YuriAmemiya

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