第2話 授業 (調所広郷の業績を生徒たちと検討)
先ほどは一方的に私の口演をお聞きいただきました。第2部は、学生・生徒の皆様と意見交換しながら、実際の調所の薩摩藩財政改革の中身について、話を進めていきたいと思っております。
いつでも手を上げて疑問・質問、「自分はこう思う」を歓迎しますし、むしろ話の中断があったほうが皆様も分かりやすいし、面白いはずですから、遠慮なく自分の意見を述べて下さい。
これにより3年後の天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に50万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復したのであります。
これが藩主業興からの調所への厳命であった「何としても50万両の蓄財を果たせ」という2番目の指令に成功した瞬間で有りました。
これから実際の調所の財政立て直しの具体策をお話しいたします。
この借金踏み倒しの他に調所の財政改革の取組みとして、調所が最初に手掛けたのが、奄美大島・徳之島・喜界島から取れる黒砂糖の生産において、大坂の砂糖問屋を通さずに薩摩藩の専売制にしてもらいました。
これが大きかったのですよ。
薩摩の砂糖は高値で取引された。一方で奄美大島や徳之島では田や畑一枚に至るまで全島サトウキビ畑に作り変えさせられ、コメもサツマイモもとれない島となり島民たちは蘇鉄の実を砕いて粥にして主食にしたという悲しい物語がございます。そして黒砂糖生産と共に取り組んだのが、琉球や清との密貿易で有りました。
やがて、薩摩藩では斉興の後継を巡る島津斉彬と異母弟である島津久光による争いお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に組することとなります。
これは、聡明だがかつての重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであると言われております。
一方、長男で江戸住まいの斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図るのでございます。
ここは大事ですから記憶の隅にとどめておいて下さいね。
斉彬が父業興と調所の密貿易を幕府に密告した張本人ですよ、そしてそれを知った弟久光は何を思ったのでしょうか。
ここに明治維新の真実を知る鍵が隠されておりますが、それはおいおいお話しいたします。
●「先生、江戸時代は藩主の正室と跡継ぎの長男は江戸住まいだったのですよね
ということは『薩摩のことは弟の久光の方が、実情をよく知っていた』ということですよね。」
「いい質問です。その通り、だから『薩摩の次の藩主には長男の斉彬より次男の久光の方がふさわしい』と考える人たちもいたのです。君たちはどっちが相応しいと思いますか、考えて御覧なさい。・・・・・・
実は奄美大島や徳之島の黒砂糖生産は調所が考える薩摩藩財政立て直しの表の政策で御座いました。
これにより黒砂糖だけで、3年後には50万両以上の貯えが出来たのですから、効果大で有りました。
しかし元本250年払いの利息なしにしなかったら、今まで通りに毎年利息を80万両ずつ支払っていたら、黒砂糖の利益が毎年20万両近く出ても、利息だけで3年間で240万両支払いますから、相変わらず薩摩藩は借金地獄から抜け出せなかったはずで御座います。
だから今までお話しした『借金踏み倒し事件』は調所の考える財政改革の成功のための必要不可欠の前提条件だったのです。
●「先生、財政立て直しの具体策を考えるだけでなく、「それが成功するための障害も事前に取り除かなくてはいけない」ということですね。」
「百点以上の良い質問です。将にその通り、さすがに皆さんは優秀な学生さん方だ。
学校の知識のテストでは正解の答は一つですが、社会人として働くようになると、正解は2つも3つも有るのです。
調所は財政立て直し策は黒砂糖の薩摩藩専売制と清との密貿易との答えを出した。
但しこれが正解になり結果が出るためには
「今までの借金を踏み倒さなければ、少なくとも16%の利息を何とかしないと、黒砂糖の専売も密貿易の利益も財政改革の正解にはならない」と考えたのです。
ここなのですよ、この多面的な考え方が出来ないと社会人としては不十分なのです。
政治家を目指す人、リーダーになる人はこのように多面的に総合的にその問題の正解を考える。
この考え方の基本を今日の授業で是非身に付けて下さいね。
●「先生、今まではテストの問題が出された場合、普通は正解は一つと思うのですが、そこをもう少し詳しく説明して下さい」
なるほどこれは私の言い方が悪かったですね。では次の問題を考えて見ましょう。
3+6=□ 2+7=□という問題が出されたら、小学1年生でも9という正解が書けますよね。これが日本の現在の小学一年生の算数のテスト問題です。
ではこの問題を少し変えますよ。
□+□=9という算数の問題が一年生に出されたら、どういう答えが出てくるでしょうか?
上に書いたように3と6とか2十7とかの数字のほかに4と5とか1と8の答も出てくるでしようね。
ここでもし、最初の□の中に2×2と書いて次の□の中に5と書いた小学1年生がいたら、皆さんが先生の立場だったら、どうしますか。
はいグループで話し合って下さい。
ちなみにこの問題は現在の欧米の学校の小学一年生の算数問題なのですよ。・・
・・・沢山のご意見有難う。
この問題には大きな二つの課題が隠されています。
1つは日本式教育は正解は一つと教えるから、生徒は正解を記憶することに全精力を使うようになります、つまり記憶力重視の勉強になり、正解を記憶すればそのほかは考えない人間として成長していきます。
一方欧米の「正解にたどり着く道は無数にある」と子供のころから教えますと自分たちが信じている9という正解への道は「もっと早く、もっと簡単に正解にたどり着く別の道はないのか」と絶えず考える人間に成長していきます。
20年30年後にどちらが人間の成長にとってベストかは説明の必要はありませんよね。ここが日本の教育の大きな問題点の1つなのですよ、そしてこれはアメリカによって、戦後仕掛けられた日本教育の植民地化という政策でした。
2つ目は
皆さんが吃驚した様に現実の世界では、小学一年生でもすでに掛け算をマスターしている子がいても不思議ではありません。
そういう子には担任の先生は「放課後にこの子には別のカリキュラムで算数を教えないといけないな」と考えるか、「算数の授業だけは小学3年生のクラスに参加させよう」とか考えるはずですよね。
そうしなければこの子の能力は伸びませんよね。
つまりスポーツなら日常普通に行われている英才教育が何故知識教育ではそれが実施されないのかかが、不思議なのです。
つまり英才教育をすれば、中学3年間で高校三年間の知識教育の全部門をマスターしてしまって、中学三年生の卒業時に東大に合格する子が出てきても不思議ではないということなのです。
世界では飛び級が普通なのに、「何故日本ではこういう教育が無いのでしょうか、おかしい」とは思いませんか。
之では本当の天才は日本では育たない。
調所の話から逸脱しそうだから、以下は省略
ここでもう一つの調所の財政立て直し政策に注目していただきましょう。
冒頭の「儂は薩摩の極悪人になる」という調所の並々ならぬ決意・腹の括り方が出てくるのは、『清との密貿易でお金を儲けて薩摩藩の財政を立てなおす』という調所の表に出せない本当の意味でのメインの財政立て直し策がこれだったのです。
だからこそ、黒砂糖による薩摩藩の収入はどうどうと表に出せる金であったことが大きいのです。
つまり密貿易の利益は表に出せない金、取り敢えずまともな黒砂糖の利益を計上できれば、表に出せない金はどうにでも裏で処理できると、ここまで計算した調所の考えはすごいの一言でございます。
一方で島内の全ての田や畑がサトウキビ畑に作り変えさせられた奄美や徳之島の人々からは、薩摩藩の人間がいかに嫌われていたか、想像が出来ますよね。
又、薩摩藩の専売に変更させられた大阪の砂糖問屋は権利を取り上げられて調所を恨みに思ったでしょうね。
そこをすべて飲み込んで、「おれが悪者・嫌われ者にならない限り、薩摩藩の財政は絶対に改善できない、これ以外に財政立て直し案は思い浮かばない」と腹をくくった男の財政立て直し策だったのであります。
●「先生、黒砂糖のやり方はひどいと思いますが、財政立て直しのために仕方がないかも知れませんが、密貿易は幕府に禁止されている事柄ですよね、つまり調所が言う所の『ご法度破り」ではありませんか。』
実はそうなんですよ、今日これから皆様にお話します調所の財政立てなおし策は、必ずしもまともな正しいやり方で財政を立て直した訳ではありません。
敢えて優秀な君たちに正しくないご法度破りの調所の財政立て直し策をお話しするのは、「人間は正しいこともするが、悪いこともする。人の評価はその両方を見比べて、最終の評価を決めるべきだ」という欧米式の人物評価の仕方もお話したくて、この特別授業の講師を引き受けたのです。
授業が終わった後に「私は調所のやり方は絶対許せない」と考えたら、それも今日の授業の貴方の受け取り方として、正解なのです。
あるいはきれいごと、正しいことだけでは世の中は回らないと考えるのも、ある意味で正しいかも知れないのです。
今はここまでにしておいて、授業を続けます。最後にこの件は又話し合いましょう。
若い人に知っておいて欲しいことは、きれいごと、理想論、「頑張ります、鋭意取り組みます、前向きに検討致します」だけの現代の政治家の改革案や決意だけなら誰にでも作れますが、成果はほとんど期待できません。
難しいのは、自分が悪者になっても、いや自分の命が無くなっても、藩のため、会社や国のため国民のために結果の出る政策を実際にやる覚悟が担当者に有るのかというこれだけのことなのです。
研修等や講演会では「君たちは次代を担う会社や国の幹部ですから、絶対に調所のこういう生き方も知らなければ行けません。
又将来政治家を目指す中学生高校生の諸君も「ここを学ばなければいけない」と私は教えます。
そして「さあ、君たちは第2の調所を目指しますか」と迫る訳です。
調所のような、こういう人間が出てこない限り、これからの日本の国は良くはなりません、後輩である学生諸君に断言しておきます。つまりこういう分野の学問や仕事も有るのだということなのです。
借金踏み倒し事件から10年後、嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、老中・阿部正弘に薩摩藩の密貿易の件を糾問されます。
同年12月、薩摩藩上屋敷・芝藩邸にて調所は急死、享年73。
死因は責任追及が藩主・斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。この時に薩摩藩の金蔵には正式な貯えが約300万両、清との密貿易の利益が500万両以上あったとか。
広郷の死から3年後、1851年になって、ようやく斉彬は晴れて薩摩藩藩主として薩摩へお国入り、この時斉彬は43歳でありました。
そして広郷の死後、遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられ徹底的に迫害を受け続けたのであります。
その島津斉彬は調所広郷が死んだ10年後1858年に49歳で亡くなっております。僅か7年弱の藩主生活で有りました。
その斉彬は鹿児島にある天保山という錦江湾に面した広場で西洋式の軍事訓練の指揮を取った後、夕方からにわかに腹痛・発熱、僅か一週間ぐらいで急死しております、死因は新型コロナウイルスだったとか。
それは冗談ですが、おそらく昼食に食べた魚が原因のコレラか腸チフスが原因ではなかったかと言われておりますが・・・。
ただ不思議なのは、斉彬は伝染病で死んだのに、何故か斉彬一人だけが死んだだけで周りの家来たちは誰一人亡くなってはおりません。
疑問は出てきませんか。ここに久光の影が薄らと出てきませんか。
●「先生、久光が毒殺したのですか?」
さあ、どうでしょう、それを研究するのは貴女の仕事かもしれませんよ。
斉彬の子供たちも全員夭折していますよ、ここも研究してご覧。
斉彬が死んだのは広郷が亡くなった10年後、まだ江戸時代ですよ、くしくも明治維新の10年前でも有りました。
この時期に薩摩では毎日のように実弾を使った西洋式の実戦の軍事訓練をしていたのです。
これには調所の貯めたお金が役立ったのは言うまでもありません、天保山で実弾射撃訓練、薩摩にはお金があったから坂本龍馬を窓口に長崎のグラバーを使ってイギリスからジャンジャン武器や大砲や軍艦まで購入することが出来たのです。
長崎ではグラバーやグラバー亭は超有名な観光地であり、グラバーは貿易商となっておりますが実態は江戸末期のイギリスの武器商人であったことも又事実であります。
斉彬は「銃を手に入れても弾丸がなければ無用の長物、何の役にも立たぬ」と知っておりましたから「銃の弾丸製造機」まで購入して備え付けた。
自分たちで弾丸が作れるからこそ、江戸時代末期に毎日実射訓練が出来たのです。
ですから明治維新前後の軍隊と言えば、フランス国が応援していた幕府の軍隊とイギリスへ留学させ直接英国の軍事学を学んだ薩摩の軍の二つが飛びぬけて性能の良い大量の武器を持ち、とりわけ実弾発射訓練を毎日のようにやっていた薩摩の軍がピカイチであったのです。
やがてこれが明治維新の初戦である戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いの勝敗を決することになったのです。
繰り返しますが、斉彬は調所が財政改革に取り組んた13年後に薩摩に藩主としてお国入りしましたから、その時にはもう薩摩藩には十分なお金が貯まつていたので、斉彬は礒一帯に反射炉、溶鉱炉、紡績工場、ガラス製造所等の近代工業地帯を建設出来たのです。
蒸気船や軍艦までも購入できたのですよ。
つまり斉彬は好きなこと、やりたいことが出来たのです。
斉彬が43ではなく、30歳で藩主としてお国入りしていたとしたら、借金地獄の薩摩藩の実態では斉彬は何も出来なかったと断言出来ます。
当時の斉彬では重豪の様に莫大な借金なんて絶対にできなかったと断言しておきます。
質問:この事実に対して貴方はどう思いますか?・・・
●斉彬公は名君だと思っていましたが、案外暗君だったのでは・・・ 43歳まで藩主になるのが遅れたことは、結果的には、斉彬にも西郷や大久保たちにもラッキーだったのです。
そういう意味では、斉彬も西郷も大久保たちも調所に足を向けて寝ることは出来なかったはずなのですが・・・。
この辺の所を知らないと何で明治維新が成功したのかの謎は永久に解けないのであります。エツ、そんな疑問の一つも持たなかった?
●「先生、お金がなければ何も出来ないということですね」
「その通りです、歴史の真実は小説のように簡単で美しいものでは決してありません。
本当に歴史を動かした歴史の真実や存在は決して歴史の表舞台には登場しないものでございます。
「歴史の真実は大きなお金の流れを追えば分ってくる」
と言った学者がおりましたがまさに名言であります。
大金が動かなければ歴史を変えるような大きなことは何一つ出来ないということが真実なのでございます。
繰り返しますが、特殊な場合を除いて、国を変えるような大きなことは金持ちにしか出来ないのですよ、少なくとも大金を動かせる人の力が必要なのです。
歴史の真実は大きなお金の流れの裏にあるのです。
ですから逆な言い方を致しますと、大金持ちは国の歴史を変える責任と義務があるのです、松下幸之助は60歳の時の年収が今のお金で60億円で有りました。
「金持ちになって、美味しいものを食って高いホテルに泊まッて世界中を旅行するだけじゃ人間としての価値が無い、金持ちとしての義務を果たしていない」との考え方から、松下幸之助は『松下政経塾』を1979年に設立致しました。
決して政治家養成の塾ではありませんが、約30年後2010年の菅直人政権の時に政権中枢の主要ポストに前原・原口・玄葉光一郎・樽床伸二・福山哲郎・野田佳彦ら松下政経塾の初期の卒業生がズラリと顔を並べたぐらいで、設立から現在まで約45年、国民が納得するほどの活躍をした松下政経塾出身の政治家はおりません。
質問:なぜだか理由が分る人は手を上げて・・・・いませんか?
分かりやすく簡単に説明しますと、
「政治家になったら国のため、郷土のため国民のために良いと思うことは、悪いことでもやれ、但し悪事が露見したら、自分一人でその責任を取って幕引きを測れ、そして君の名前は日本の政治史には永久に残らない、それでも国のために政治家になりたいものは此処に集まれ、金銭的に君が政治家として活躍できるまで応援する」という政治家の表に出せない根本原理・根本思想を幸之助自身が知らなかったから、当然政治家の表の理想論しか教えられなかった。
だから理屈・理想論だけの政治家しか育てられなかったのです。と私は思いますが。
幸之助は真面目な商人でしたから、悪いことまでして、自社が自分が儲けることはしない人でしたよネ、だから
「政治家は、国のため郷土のため、国民のためになるなら悪いこともする」という哲学は理解できなかったのです。
同じように、島津重豪や斉彬は藩の子供たちのために藩校である造士館や近代工業地帯を作るのだという理想や開明思想は持っていて、実行も出来ましたが、それには莫大な金がかかり、金が無いとそれはできないのだという、貧乏人なら身に染みてわかっていることの常識が二人には欠けていたのです。
育ちと言いますか、藩主として何不自由なく暮らす人間には、お金がなければ何も出来ないということは理解できないのであります。
ここで皆様に質問です。
質問:調所がやった幕末期の清との密貿易は、本当に悪いことでしたか?、
各自の考えを聞かせて下さい。・・・・・・以下省略
時の権力者である徳川幕府が禁止していた政策でありますが、今なら何もとがめられるようなことではありませんよね。
つまり、政治家の悪いこととは、国のため、国民のためになるなら、時の権力者が禁止している悪いことも、敢えてそれをやるという腹のくくり方が出来るかということなのです、悪いことでもやりきる勇気の本当の意味はここに有るのです。
私が調所なら、こう考えたと思うのです。
「薩摩は中世から清国と交易があった。
それを今頃になって、禁止する徳川幕府の方が悪いのではないのか。」
という考えで、悪いことと言われる密貿易を
「これは悪いことでは無い」と命をかけてでもやったということなのです。
勘違いしないように繰り返しますよ、太平洋戦争後に米国が言った
「早期にこの戦争を終わりにするために、原爆投下は正しかった」
などの詭弁で日本国民の大量無差別殺人を正当化する屁理屈とは、調所の考える悪いことは根本的に意味が違うのですよ。
●「先生のおっしゃることは分かるけど、本当に調所のやったことが正しいか僕にはわかりません。」
「正直な疑問ですね、それで良いのですよ、私の言う事が本当に正しいのか、それに疑問を持ち自分自身で考え・自分のじぇつ論を持つことが一番大切なのです。」
今までの日本人は大人も子供も「先生の言う事は正しい、大学教授や偉い人の言う事は正しい」で、その人たちのいうことは全て正しいと無条件に信じて、その人の言ったことを正解と信じてそれを記憶することばかりをやってきた。
実はそれは間違いなのです。
自分の頭で考えて、
「この人の言っていることは正しい」
でないといけません。
明治維新の実現は薩摩藩の軍事力に負うところが大である。
幕末期に薩摩藩が他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有するなどできたのは、薩摩藩の財政を再建した広郷の功績が大と言える。
調所広郷が死んだのがあの借金踏倒しから10年後の1848年、明治維新が丁度その20年後の1868年、借金踏み倒しから30年間で薩摩藩の金蔵には700から1000万両を超えるお金があった。
しかもこの金には当時清との密貿易で得たお金は入っておりません、表に出せないお金のことは薩摩藩正史と言う歴史文書には何も書かれてはおりません、嫌、書くはずも書けるはずもございませんよねえ。
これは今の自民党政治も同じこと。そういう文章は存在しません記憶にございませんでチョン。
ですから調所が薩摩藩財政改革に着手してから30年後の明治維新の頃には薩摩藩の金蔵には正式な金が1000万両近く、密貿易の利益の金も4000万両か、それ以上の貯えがあったと推察されるのであります。
この5000万両以上のおカネが薩摩に無かったならば明治維新は成功していなかった。
成功したとしても、我々の知っている明治維新とはずいぶんと変わった形で有ったはずでございます。
いや明治維新そのものが無かったかもしれません。
この辺が明治維新の真実なのですよ。
金の流れを追って行けば、ほら真実が見えて来たでしょう。
この後、いよいよお話は皆さまが良くご存じの明治維新の山場へと入っていきます。
では皆様に事前にお配りしたシートの①から⑦の項目に自分の考えをお書きください。
興味のあるところ、書ける所だけで良いですよ。
シートの内容 ・・貴方のお考えを記入して下さい。
① 明治維新の初戦ともいえる鳥羽伏見の戦いで、負けるはずのない幕府軍1万
5千は何故薩摩の軍隊五千に敗れたのか。
②何故、西郷は鳥羽伏見の戦いから北海道・五稜郭の戦いまで一年余、敵の総大将徳川慶喜のいない戦いを続けたのでしょうか?
② 何故百万の大軍を動員できる徳川幕府が江戸城「無血開城」だったのか、
そもそもあの時は西郷と勝で何が話し合われたのか。江戸の総攻撃の話なんて本筋では無かったのですよ。徳川慶喜を生かすか殺すかが本題だったのですが、
④そしてあの調所の借金踏み倒し事件の後の江戸や大阪の商人たちの運命はどうなったのか、ここにも面白い話がございますが。
⑤一番大事な明治維新は何故ああいう形で起こったのかの謎・・・ここには歴史の黒幕で有る島津久光が関わってきます。実は島津久光は明治維新後に徳川幕府に代わる薩摩幕府の設立を考えていたのであります。
⑥明治維新になってからの西郷と大久保のボタンのかけ違いは何だったのか
⑦西郷は何故、西南戦争を起こしたのか。何故負けると分かっている戦いに若者を巻き込んだのか。
西郷ほどの男なら「ちょっと待て、おいどんが単身で東京の大久保どんに会ってくっから、それまではおとなしく鹿児島で待っちょれ。もしおいが殺されたら、その時は、好きにしなさい」と「何故言えなかったのか」は永遠の謎であります。
こうして物語はこれからいよいよ佳境に入り、色々な謎解きに入って参りますが、この物語の主人公・調所広郷が死んでしまいましたので、これらの話は第3部番外編でお話させていただくことにいたしまして、ここからは、果たして調所のやった「薩摩藩財政改革」別名『薩摩藩借金踏み倒し事件の顛末を明治維新と絡ませて調所の役割について触れておきませんと、このお話は終わりになりませんので、話は一足飛びに1868年の明治維新後のお話になります。
調所の財政改革が実際に始まったのが1838年から、明治維新がその30年後の1868年ですから、話は30年以上飛びます。
明治政府は明治4年に廃藩置県をやり、明治5年には旧藩の債務の無効を宣言して、全国の大名たちの借金を棒引きにしてしまった。
我々もその昔、廃藩置県などと言う言葉は歴史の授業で習った覚えがありますが、薩摩藩が鹿児島県に名前が変わったぐらいにしか記憶しておりません、なんで廃藩置県をやらねばならなかったかの説明は先生にも教えてもらえなかった。
簡単に言えば「薩摩藩主島津忠義が鹿児島県知事島津忠義に代わっても何も変わらない一緒だ」と思ったけれど 実はそうじゃなかったのですね。
本当の狙いは、全国の旧藩主が背負いこんでいた莫大な借金を0にするための方法が廃藩置県だったと聞けば納得しますよね。
『歴史の真実は決して表に出ない』が理解できましたか。
この廃藩置県はやがて旧藩の債務無効という一連の流れの始まりでありました。明治の初期に全国の大名たちが抱えていた借金の合計額7400万両(3兆7千億円)、、これを明治政府が「旧藩が無くなった以上、旧藩の借金も当然に無くなった」という屁理屈で借金を棒引きにしたのであります。
これで全国の貸金業者はほとんど潰れてしまったのであります。
●先生、政権が代わるということは、想像もつかないことが起こるということですか
そういうことだと考えてもらっても、良いと思います。思いもしなかった事が変わるということもあるということです。
ただし薩摩藩からは明治5年(1872年)までの35年間、調所の取り決めた通りに実際に毎年2万両ずつの元本返済が行われておりました。
明治維新になっても、薩摩藩は約束は守っていたのであります。
しかも調所はあの時、江戸や大阪の債権主である商人たちに、琉球、清との密貿易の利権も与えたのでありました。
あの借金踏み倒し事件には後日談がございまして、調所はあの時、借金の約定書の書き換えが完了したのち、
「のう越後屋、江戸屋、そなたたちも金を貸して利息だけで食う商売から、自分の金と才覚を使って、自分の腕で金を儲けてみよ、これからは本業は金貸し業で、副業にもう一つの商売を持つことこそが商人の生き残る道よ」と言いまして、手始めに薩摩の貿易業に金を投資することを熱心に説いたのであります。
そして希望する商人たちに薩摩藩の密貿易の利権を与えたのですよ。
つまり薩摩藩の密貿易に5万両・10万両の投資をさせ、これに1割の高配当を付けて、自分の密貿易に巻き込んだのであります。
調所としても借金は踏み倒したとしても、清との密貿易の元手となる資金がなければどうにもなりません。
ここまで考えての彼の戦略だったのであります。
●そこの君、この調所のやり方をどう思いますか?・・・・、
この時、貸し金業だけでなくて運送業や材木商・あるいは貿易業に足を踏み込んだ江戸や大阪の金貸し業の連中は廃藩置県後も生き延びたのであります。・・・
まあこの話の顛末が、大阪の豪商である鴻池善右衛門の財力を元に日本生命という保険会社が明治22年に誕生するのでございますがその辺の話は飛び過ぎますので、また別の機会に。
極悪人・調所広郷はここまでの男だったのです。
だから薩摩藩の密貿易の利益はどんどんどんどん膨れ上がっていったのです。
しかも江戸や大阪の金貸し業の面々も、全国の大名たちにお金を貸していても、年貢米を質草に抑えておればなんとか回収できておりましたが、大藩の借金はほとんどが薩摩と同じで、大名貸しで、何も担保や保証人を取っていませんでしたから、江戸の末期になりますと回収できない金が膨らんでおりましたから、この話に乗った連中もいたのであります。
勿論、あの時に調所に反発して、後日、江戸幕府に訴えた出た金貸し業も実際にはいたのでありますが、幕府は相手にもしてくれなかったのであります、「何故か」はもうお分かりですね、
●「先生、調所は賄賂を渡した」「正解です」
調所は薩摩藩の財政苦しい中で10万両という大金を幕府のしかるべきポストの役人たちにバラまいて、「何とぞ良しなに」と事前に根回ししていたのでありました。
薩摩の極悪人調所広郷は自らの命を懸けて国の為、郷土のため国民の為に借金踏倒しという財政立て直しを強行しました。
そして悪事が露見したら、誰にも迷惑をかけないように自分一人が命を絶つことで幕を引いた。
すべからく政治家はこうでなくちゃあいけない。
こういう男が政治家にならなくてはいけない。
これであれば貧乏人でも、ずぶの政治の素人でも「国や国民の為なら悪いこともやる」「国のためなら俺は死す」という哲学さえ在れば政治家になれる。
そして我々老人は子供たちにこういう生き方もあると教えなければいけない
と私は考えます。
大河ドラマで描かれた西郷のように 正義感が強くて弱い者可哀そうな者をほっておけない、涙もろくて、男にも女にも人気があるだけの男は本当の偉人には決してなれません。
『国のためになら悪事もする、露見したら、そのすべての責任は自分一人でとる』という調所のような人こそが本当の偉人なのです。
ただし、これらの人は歴史の表舞台には決して登場しないことも又、真実でありますが
●だから今日、私たちが知らなかった調所広郷の勉強をするのですね。
「そうですよ、極悪人と呼ばれた男が明治維新の真の立役者だったなどという話はにわかには、信じられないでしょうから、ゆっくり自分で考えればいいのですよ。
逆にあなた方が信じている、島津斉彬公や西郷隆盛は本当に明治維新の立役者だったのでしょうかということも考えて欲しいのです。
社会人研修では、次のように受講生に尋ねます。
「貴方は『調所のような人間になって、日本の本当の政治家を目指せ』と子供や孫に言えますか。少なくとも今日のこの話を「お前たちの将来のために、この話を絶対に聞いておけ」と孫たちに言い切れますか。」と尋ねるのです。
諸君は今日は先生に「出席しなさい」といわれて、どんな授業なのかもわからずにこの場にいる人が大部分だと思います。
ここまでの話を聞いて「自分には関係ない話だ」とか、「私はこういう話は聞きたくない、興味がない」と思った方は退席を認めます。・・・・・・・
この調所の行動と比較すると、大久保、伊藤博文や岩倉具視らは「廃藩置県」と言う法律改正一つで全国の大名たちの借金を棒引きにして、ある意味で英雄になった。
一言でいえば、かって仕えた藩主たちの機嫌を取っただけではありませんか。
自分の友人知人の便宜を図る今の自民党の政治家とどこか似ていませんか?いやそのモデルが既に明治時代のここにあったのであります。
果たして調所と西郷たちとどちらが偉人であり、どちらが大悪人なのでしょうか?当時の西郷たちに民主主義とりわけ多数決の論理を教えたのはイギリス、西郷たちはまんまとこれに騙された。
もし、西郷たちが自分たちの政治家としての生きざまの手本を明治維新の20年前に死んだ調所の事件に学んだならば、その後の日本の政治家の姿はずいぶん変わっていたことでありましょう。
そして今の日本の政治家の姿は、この明治維新の時の長州の伊藤博文たちの姿が見事に踏襲されているのです。
何かがあれば、法律を変えればいい、税金が足りなくなれば5%の消費税を8パーセントに10%に上げればいい、多数の議席を持つ政党のやることはすべて正しいではあまりに短絡的すぎる。簡単すぎる。
しかも下級武士出身の明治維新の志士たちが、出世したらイギリスの勧めで貴族制度を導入して、侯爵や男爵や子爵になって、かっての藩主より偉い身分になった。
これなどはまさに「自分は偉くなって金と女と地位を手に入れたい」という貧乏人の成り上がり願望を政治家になって手に入れただけで、どこにも国のため、将来の子供たちのためにという考えは無いですよね。
だから日本は良くならない。
今後はだんだんだんだん悪くなる、それこそが当時のイギリスと今のアメリカの狙いなので御座います。
最後に調所の政治家としての話に戻りましょう。
借金踏み倒し策ばかりでなく、広郷はそれに続く薩摩藩の財政と経済の建て直しにも成功しております。
借金体質の改善に注力する一方、甲突川五石橋建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行い、殖産や農業改革も実施しました。
専売化した黒糖のみで、230万両超の利益を出したり。並行して、高島流砲術採用など軍制改革にも成功している。
また苗代川地区(現在の日置市東市来町美山)では、調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられて、密かに祀られ続けていたという。
こういう事実に接すると、調所を極悪人と決め付けて、調所家一族を排斥してきた我々の先祖と、美山に現在も残る陳寿官窯を筆頭に調所の墓を建て、密かに祀り続けてきた朝鮮人陶工たちの子孫たちと、どちらが人間として正しい生き方だったのでしょうか。
考えさせられますよね。
広郷は、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。
一方、広郷の死後藩主となった名君とされる斉彬であるが、実は斉彬時代になってからの方が、領民に対する税率は上げられていたのです。
広郷や斉彬の死後、斉彬派の西郷隆盛や大久保利通が明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け一家は離散する。
斉彬排斥の首謀者は父・斉興とその側室のお由羅の方だったが、この2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり、明治政府も直接弾劾出来なかったので、調所家への風当たりが一層強くなったものと考えられる。
西郷は明治10年西南の役で自害、一時賊軍として名誉をはく奪されたものの、明治22年大日本帝国憲法の発布の折に正3位を追贈され復権、明治31年には上野に銅像まで建てられているが 調所の方は何もなし、その迫害は大正・昭和の敗戦後まで続き、子孫は調所の名字を『ちょうしょ』という読み名で役所に届けて、調所家との関わりを否定したりと それはそれは苦労したとか。
『子孫に迷惑がかかるということを覚悟してもなお、国のため郷土のため国民の為に自分一人で悪事を背負いこみ、露見すれば自分一人で責任を取る』、これだけの肝の座った政治家が現在の日本に何人いるでしょうか。
この点ではいやここを教えなかった松下政経塾も政治家育成では失敗かもしれません。
藩のため自らの命を懸けて借金を事実上踏み倒し、財政改善計画を成し遂げ、極悪人の名を一人で背負いこんで73歳で死んでいった明治維新の影の立役者、調所広郷、通称笑左エ門の銅像はわずか1メートル余の大きさで甲突川のほとり、天保山公園入口に立っております。
鹿児島観光に来られた方々もまず訪れ無いという明治維新の立役者調所広郷の一席、ちょうど時間となりました。また口演いたします。 16280文字
葬所は養父清悦と同じ江戸芝の泉谷山大円寺。法号は全機院殿敷績顕功大居士。現在の墓所は鹿児島市内の福昌寺跡にございます。
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尚、大学生や・社会人向けの幹部候補生用の第3部はこの後続きますが、それは又、別の機会に。
ちょっとだけ調所広郷の第3部を覗いてみますと、
情報
1848年、江戸の薩摩藩江戸屋敷で服毒自殺をはかった調所のその時の気持ちはどうだったのでしょうか。斉興の命で財政立て直しに着手したものの「そのうち、蘭癖の強い息子斉彬が藩主になるだろう」という予測は十二分にたっていての調所の財政立て直し策ですよ。
ここなのです「お金を湯水のように使って好き放題のことをやるバカ息子斉彬のために何で私が命をかけて財政立て直しをやらねばいけないのだろうか」とは調所は一度も思わなかったのでしょうか。この真実は今では誰にも判りません。
問:このような状況下で、君なら命を懸けて薩摩藩財政立て直しをやりますか?
尚、服毒自殺した調所の部屋の文机には調所の直筆で「わが胸の熱き想いは叶いたり 静かに眠れ桜島山」の一首が残されていたとか?
明治維新の真の清の立役者 調所広郷 @m278m2304
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