アラフィフマダムの暴走
青空一夏
第1話 アラフィフマダムの暴走
――昔は素敵だった正樹……。今では、ただの疲れたオジサンになってしまったわ。
和美はソファにだらしなく身を沈める夫を見つめながら、深いため息をついた。結婚した当初、夫はシャープな輪郭に涼やかな目元、整った鼻筋を持ち、どこか洗練された色気を漂わせていた。
しかし、今やその色気は完全に失われ、頬や顎下に余計な贅肉がつき、以前の輪郭はかき消されてしまった。目の下に深く刻まれた皺、
ときめきは日常に埋もれ、恋情は家族愛へと変わり、それさえも今では当たり前になりすぎて、すっかり薄らいでしまった。長い間、夫婦の営みは途絶えており、このまま女として枯れ果てていく自分に、和美はどこかで抑えきれない焦燥感を抱えていた。
和美は鏡の前でしばらく自分を見つめる。ほうれい線の窪みが目立ち、目尻の皺も気になる。それでも毎日のスキンケアを欠かさず、丁寧にメイクを仕上げ、出来る限り若々しく見せていた。
――まだまだ、いける!
若い頃、自分がかなりの美人だったことを和美は自覚していた。今でも、美魔女と呼ばれることがあり、彼女はその言葉に自らを鼓舞し、まだまだ魅力を失っていないと信じている。
スリムな体型と健康維持のため、スポーツジムにも通いだした。
慎也は、和美がジムに入会した際、最初に担当してくれたインストラクターだった。彼は優しい笑みを浮かべながら、ひとつひとつの動きを確認し、丁寧に指導を行う。その指導は細やかで、愛想もとても良い。何より慎也の若々しく引き締まった体つきは和美の目を引き、顔立ちも整っていてまるで彫刻のように美しかった。
「その調子ですよ。一条さん! もう少しだけ肩をリラックスさせて、腕を伸ばして――いいですね、完璧です!」
指導中、慎也の手が腰や腕に軽く添えられる。その瞬間、和美の中に忘れかけていた感情が蘇った。
心の中で花開いた
「新しいトレーニングウェア、よくお似合いです」
「髪型を変えたんですね。今のかんじ、とても素敵です」
和美の変化に夫よりも敏感に反応し、繊細な気配りをしてくれる。
次第に、和美のジム通いの目的は「健康作り」から「慎也に会うこと」に変わっていった。運動をしている自分が好きというよりも、彼と一緒にいる時間が心地よく、ジムに通う理由がそれに変わっていったのだ。
ある日、いつものパーソナルトレーニング後、休憩時間に慎也は水を差し出し、和美が息を整えるのを静かに待ちながら言った。
「一条さん、今日も素晴らしい出来でしたよ。これなら、僕がいなくなった後もトレーニングを続けられそうですね」
慎也の言葉に、和美は一瞬、戸惑いを覚える。
「いなくなる?」
「はい。長野店へ移動になりました。実は、あっちが地元なんです。両親も年を取ってきたので、長野で落ち着こうと思っています。将来的には、地元の方々が気軽に通えるような、こぢんまりとした健康施設を運営できたらいいな、なんて考えているんです」
「長野か……いいところよね。私も長野に住みたいなぁ」
「良い考えですね。長野は日本アルプスをはじめとする美しい山々に囲まれて、四季折々の景色が楽しめますから、お勧めですよ。僕のパーソナルトレーニング会員第一号になってほしいなぁ」
慎也は、ほんの冗談のつもりで言ったに過ぎなかった。和美は彼が担当する30人ほどの会員の中のひとりに過ぎず、年齢もかなり上で、人妻であることも知っている。慎也は和美をお客様として大切に扱っていたが、女性として意識したことは一度もなかった。
ところが、慎也が長野店での初勤務の日、パーソナルトレーナーとして受け持つ会員の中に、和美の姿を見つけた。
「本当にこちらに引っ越してきたんですか? 驚いたなぁ」
「ううん、違うわ。特急電車で来たのよ。自宅からここに着くまで3時間以上かかっちゃった」
和美は平然と笑いながらそう言うが、慎也はその言葉に驚き、耳を疑った。わずか45分のパーソナルトレーニングのために、片道3時間以上かけて来るなんて考えられない。
「毎日、パーソナルトレーナーとして指名してあげる。だって、私あなたの一番になりたいもの。それから、今度から下の名前で呼んでちょうだい」
恋人のように愼也を見つめながら、手作りの料理も持ってきたと微笑んだ和美。その狂気を孕んだ眼差しに、愼也は背筋が凍るような感覚に襲われたのだった。
完
アラフィフマダムの暴走 青空一夏 @sachimaru
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