オオカミ少年ブッダさん

黒澤 主計

前編:すまない! ただの事故なんだ!

 悪いのは、私ではない。

蜘蛛くもの糸』が切れてしまったのは、あくまでも彼の問題だ。


 カンダタ。生前は大泥棒として名をなした男。

 どうにか、救ってやりたいと思ったのだが。


 亡者というのは、実にあさましいものだ。





 私はブッダ。


 生まれてすぐに『天上天下てんじょうてんげ唯我独尊ゆいがどくそん』と唱えたことで有名だ。王子としての地位を捨て、後に出家の旅に出る。修行に明けくれ、様々な苦行に身を投じた。


 やがて私は、菩提樹ぼだいじゅの下で『悟り』を得た。

 今では『お釈迦しゃか様』とも呼ばれ、仏の世界の中心的存在と見られている。


 そんな私が、文字通りに『仏心ぶっしん』を抱いた。


 あのカンダタという男。

 人を殺し、家を燃やし、非道の限りを尽くした男ではあった。だが、一度だけ道端にいる蜘蛛を殺さずに逃がしてやったのを私は知った。


 だから私は、『蜘蛛の糸』を垂らしてやった。それを掴み、この極楽浄土へ上るよう。


「邪魔だ! この蜘蛛の糸は俺のもんだ!」


 カンダタが上ろうとすると、他の亡者たちも蜘蛛の糸へと群がった。それを懸念したカンダタは亡者たちを蹴落とそうとした。


 その瞬間、蜘蛛の糸はプツリと切れた。





「もう一度、チャンスをやることにしよう」


 どうも、後味が良くない。

 蜘蛛の糸を上るだけでも、相当な勇気が必要だったろう。せっかく私を信じてくれたのに、たった一回で地獄に落とすのはあまりにも冷淡ではないか。


 カンダタのいる場所へ、私は再び蜘蛛の糸を垂らした。


「カンダタよ。今度こそ、蜘蛛の糸を上ってくるのだ」





 俺はカンダタ。かつては泥棒として有名だった。


 まさかブッダの奴が、もう一度俺にチャンスをくれるとは。


 もちろん、反省したさ。蜘蛛の糸なんて弱そうなものだからな。俺一人ですら体重を支えられるかもわからない。そこに大量の亡者が群がるなんて、どう見ても危険だろう。


 でも、それが失敗だった。もしも、あそこで奴らを蹴落とさなければ。


「お前ら、とにかく俺が先頭だからな」


 ついて来たければ来るといい。俺が優しさを見せる限り、この糸は絶対に切れない。

 そう思って俺は、蜘蛛の糸を必死に掴む。


 ブッダの顔がはっきり見える。俺は静かに笑いかけた。


 その直後、糸がプツリと切れてしまった。





「やっぱり、強度に難があったのか」


 これは失敗、と私は胸がチクリと痛む。


「なぜだ!」とカンダタは地面に直撃し、すぐに亡者たちが周囲に集まってくる。

 痩せた馬もやってきていた。二頭並んで姿を現し、心配そうな顔をする。


「どうした? 何があった?」

 赤鬼も駆け寄り、カンダタに様子を聞く。


「わからん! 前回の反省を生かして、俺はみんなで一緒に上ろうって思ったのに」


 気まずい。


「一体、何が正解だったんだ? 亡者を蹴落としたらダメだった。次はみんなで仲良く上ろうとしたのに。どうして俺は落下したんだ」


 痛みに呻くカンダタを、鬼や亡者が憐れそうに見る。


「俺、今度は何を間違った? どうすれば良かったんだ?」


 カンダタの嘆きを聞き、鬼たちが私を見上げる。


 う、と息を呑みそうになった。

 はっきりと、何を思っているかが伝わってきた。


『ドン引き』と、鬼たちが口を開けている。


 違うんだ、と私は心の中で必死に叫んだ。





「蜘蛛よ。次はもっと強い糸を出しなさい」

 

とりあえず、蜘蛛が悪かったことにしてしまおう。


「カンダタよ。もう一度、チャンスをあげましょう」

 地獄にいる亡者のもとへ、私は再度糸を垂らす。


 不安そうに、カンダタは周囲の亡者と目配せをする。

 やがて、恐る恐ると糸を引っ張った。


「じゃあ、とりあえず俺が最初に上る。俺が上りきるまで、絶対にみんなは上るなよ。俺が上り終わってからな」


 あ、と私は声を上げそうになる。

 ダメだぞ、カンダタ。その発言はまずい。


 直後に、蜘蛛の糸がプツリと切れる。

 再び、鋭い悲鳴が響き渡った。





 本人は、ただ安全確認をしただけだったのかもしれない。


 だが、これがこの地獄でのルール。カンダタが糸を独り占めしているように見え、蜘蛛の糸は自動で切れてしまった。


「もしかして、俺は弄ばれているのか?」

 カンダタが恨めしそうに私を見上げる。


 違うんだ。私のせいじゃない。


 私は隣のハエトリグモを睨む。今度はちゃんと、切れない糸を出しなさい。何十人でも支えられて、変なルールで切れないような代物を。


「よし、今度こそ」

 スルスルっと、私は蜘蛛の糸を垂らしていく。


 だが、カンダタは反応しない。

 光のない目で私を見つめ、蜘蛛の糸には手を触れようともしない。

 もしかして、疑っているのか。


 大丈夫だぞ、カンダタ。今度こそ信じなさい。

 ゆらゆらと、思わせぶりに糸を揺らす。


 だが、手ごたえはなかった。





 仕方ない。まずは『実績』を稼ぐとしよう。


 カンダタが私を疑うのなら、他の亡者にチャンスを与える。彼らが無事に極楽へ上れるのを見れば、カンダタも考えを変えるはず。


 そう思い、適当な亡者の元へと糸を垂らした。





 拙者は『下人げにん』。特に名乗るほどの名前もない。


 生前、拙者は『羅生門らしょうもん』にて遺体の髪を抜く老婆を目撃した。悪行をなしていた人間だから、死後に髪の毛を奪っても問題ない。老婆はそんな風に行為を正当化していた。


「だったら、貴様も同じことをされても文句は言うまいな!」


 そう言って、拙者は老婆から衣服を奪った。


 今、蜘蛛の糸が目の前にある。

 でも、途中で切れるに決まっている。


 人を痛めつけた者は、痛めつけても構わない。


 そんな理屈に従って、ブッダ様は拙者を突き落とすに決まっている。





「く、またしても無視された」


 私は悲しみを覚えつつ、別の亡者を見繕う。





 オイラは『土工どこう』。特に名乗るほどの名前もない。


 生前、オイラは『トロッコ』に子供を乗せた。そして遠くまで運んだ後、「あとは自分で帰れるな」と山奥に置き去りにしてしまった。


 今、蜘蛛の糸が目の前にある。

 でも、途中で切れるに決まっている。


 オイラは、中途半端に子供を突き放すような人間だ。ブッダ様はきっと、そんな罪を思い出させようとしてくるはずだ。


 この糸を掴んだら、間違いなくオイラは落とされる。





「なぜ、誰も私を信じない?」


 他の亡者の元にも糸を垂らすが、やっぱり掴んでくれる者はなかった。


 屏風に地獄の絵を描かせようとした男。藪の中で人を殺した者。

 掴めば極楽へ行けるというのに、誰一人として心を動かそうとしてくれない。


「亡者たち、私に不信感を抱いているのか?」


 理不尽に亡者を弄ぶ、傲慢な仏。そういう目で見ているのか。


「どうにか、方法はないものか」

 周辺を見回す。傍らのハエトリグモは、恐縮したように身を縮めた。


「そうだ。これを使えばいい」


 手近なところに、紙で出来た『おわん』があった。

 地獄の方にも目をやる。血の池のすぐ脇に、同じく紙製のお椀が転がっていた。


「蜘蛛よ。糸を出しなさい。このお椀とあのお椀をそれで繋ぐのだ」


 仏とは、黙して語らぬもの。大々的に亡者と語らうのは威厳に関わる。


 だが、この紙で出来たお椀を使えば、『糸電話』が完成する。


「みんな、知ってるか? ブッダ様の蜘蛛の糸の件だけどよ」

 裏声を使い、私はお椀に向かって声を発する。


「あの糸を上って、本当に極楽に行けた奴がいるんだってよ!」


 大切なのは実績。私が蜘蛛の糸を垂らしても、確実に切れるものだと思われている。

 だったら、極楽に上がれた例があったと知らしめればいい。


 実際、『そういう例』はあったはず。


 少し前に、『ある夫婦』を極楽に引き上げた記憶がある。





 亡者たちがどよめいている。

 声の出所はどこだろうかと、鬼がきょろきょろと首をめぐらす。眠っている老人の亡者の後ろに糸電話を隠し、私はあくまで仏頂面を通す。


「極楽に上がった者? たしかに、そういう例はあったが」


 間もなく、エンマ大王が呼ばれてきた。鬼や亡者たちに囲まれて、「ふむ」と私の方をしっかりと見上げる。


「それは、どんな奴だったんですか」カンダタが聞く。


「とある夫婦だった。医者をしている男とその妻だったのだが」

 エンマ大王は髭をいじりつつ、記憶を模索していた。


 いいぞ、そのまま私の慈悲を喧伝しなさい。





 かつて、ある男がいた。


「私は『仙人』になりたいんです!」


 よろず口入屋に現れたそんな男を、ある医者の夫婦が受け入れた。


「仙人になる方法なら、私たちが知っているよ」

 医者の妻はそう言って、男をこき使おうとした。


「今から十年間、私たちの元でひたすら下働きをしなさい。そうすれば仙人になれるよ」

 そんな嘘を吹きこんで、最後には殺そうとした。


「さあ、木に登りなさい。そして、枝から手を離すんだ」


 そこで、彼らの嘘は『真実』となった。


「ありがとうございました。無事、『仙人』になることができました」


 男は宙に浮き、夫婦に礼を言って去っていった。





 思い出した。あの夫婦だ。

 結果として人の夢を叶えている。その件で罪を帳消しとし、蜘蛛の糸を垂らした。


 だが、なんだろう。

 どうも、嫌な予感がしてならない。


「なんで、そいつらだけが特別なんだ」

 カンダタが不満を訴え、鬼たちも不信の色を顔に浮かべる。


「どこか、似ている気がする。拙者たちの置かれている状況と」

 下人が口にし、「オイラもそう思う」と土工も頷く。


「見せかけだけの希望を与え、いいように人を操る。そんな奴らが、極楽行きとは」

 カンダタが立ち上がり、私をジロリと睨みつける。


 また、痩せた馬たちが身を寄せる。カンダタはその背に手を乗せていた。


 何かがまずい。はっきりと予感が及ぶ。


「要するにそいつら、『意地悪仲間いじわるなかま』って奴なんじゃないか? ブッダの奴、自分も似たようなことをやってるから、友達になれそうだって極楽に引き上げたんじゃ」


 違うぞ、カンダタ。それは誤解だ。

 私の手の中で、蜘蛛の糸が空しく揺れる。


「あの野郎、やっぱり俺たちを弄んでやがるんだ!」





 すぐに、医師夫婦を探しに行かせた。


 なんとかせねば、と必死に糸電話を握りしめる。

 誤解を解かねば。私は仏。慈悲に満ちた心を持つ者。決して理不尽に人を弄ぶようなことはしていない。


 だから、信じてくれ。


「お前さんたち、それは目が曇っているんじゃないのかい?」

 しゃがれ声を出し、老人の振りをして言葉を発する。


 ちょうど、眠っている亡者がいた。その後ろに糸電話を置き、私は言葉を伝える。


御仏みほとけっていうのは、どんな時でも人々を見守っているもんだ。そして御仏の心というのは、常に慈愛に満ちている」


「何を言っている。俺が何回痛い目に遭わされたと」


「しっかりと考えるんだ。御仏の心というものを。人間は常に、仏の真意ってものを考えていかなきゃならないのさ」


 我ながら良い演技。

 元々、私はそうやって崇められてきた。私が何も言わずとも、世界中の僧侶たちが『私の想い』とは何かを考え続け、それらを経典きょうてんに記してきたのだ。


 カンダタよ。だからお前も信じてくれ。私の真意を察してくれ。


「何か、意味があるってのかよ」

 舌打ちし、私の顔を見上げる。


 座禅を組んだ姿勢のまま、私は静かに糸を垂らす。


「あいつ、誰かに『かまって』欲しいだけなんじゃないのか?」


 注目されている。糸電話は使えない。


「俺の前に糸を垂らし、上ろうとすると何度も落とす。そこに、何か意味があるのか?」

 首を振り、鬼やエンマ大王にも目線を送る。


「仏の心は謎だ。だが、考えねば先に進めない」

 下人が頷き、隣の土工も共感する。


「わかったよ。じゃあ、ここではっきり解明してやろう」

 カンダタがその場に座り、皆もそれに従う。


「ブッダの真の思惑っていう、『最大の謎』って奴をよ」


 良かった、と思っていいのだろうか。

 そもそも、考えるほどの内容なんてあっただろうか。


 それなのに、どうも『謎解き』みたいなのが始まった。


「解明しよう。どういう理屈で、蜘蛛の糸が切れ続けるのか」


 すまない。ただの事故なんだが。

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