盤煙

 スマホばかり触っていた母だったが、一人で散歩に行くのが好きで、家の中ではたまに踊った。イヤホンで俺の知らない音楽を聴きながら、部族みたいな自己流のダンスを踊る。時には叫ぶ。年甲斐も無く奇声を発する。「デバニャー!マルボー!ドンテスドウナ!」

「どうしたんですか?」と聞いても、はぐらかされる。詳しく聞こうとすると、一人で散歩に出掛けてしまう。「何の曲ですか?」聞くと、決まって同じアーティストの名前を言う。「多分、あんたには分かんないよ」付け足された。

 中学三年生の正月の朝、母が叫んだ。笑い声とも泣き声ともつかなかった。

 流石に、訊いた。「大丈夫?」

 久しぶりにソファに──隣に座ることができた。震える肩をわけも分からず抱き締めて、大丈夫だと言った。何度も。

 日が暮れる時刻に、母は外に出て行って、次の日の朝に戻ってきた。

「高校には行かせられそう。行きたい?」

「分からないですよ」

「じゃあ、行っといたほうが良いよ」

 何かの理由で、まとまった金が入ったらしい。絶縁していた肉親のどちらかが死んだんだろう。葬式とかは無かったけれど、それが一番しっくりくる。

「本当にありがとうございます」

 母親に対して敬語を使った。親しいはずの人間によそよそしくする──タチの悪い反抗期だ。


 ◆


 高校生になって、近所の工場でアルバイトを始めた。母から渡された口座通帳には毎月、数字が増えていった。なんの罪悪感も持たずに使える小銭を手に入れ、散財を試みたが意外と減らなかった。単にケチだったのかもしれない。

 美容室に行って、服を買って、どうしてか憧れていた東京へと通って──それにも飽きて。親不孝なお前も遂に、母を外食に誘う。

「意外と、バイト代がなくならなくてさ。どう?」

「いやいや、駄目でしょ。そのお金はお前のものなんだからさ」

「そっか」

 そっかじゃねえだろうが。イカれてる。


「イカれてんね、普通に」


 初めてそう言ってくれたのがチマ。バイト先で出来た恋人。チマに恋していた俺が多分、一番人間をやっていた。物心ついてからも俺の人生に何度か到来する発情期は、ただの思春期や性欲の爆発期間なんかじゃなくて、人間になろうとする努力の結晶だったはずだ。友達も母親もいなかったチマの肌は、ニキビやシミで汚れていて、髪も適当に切っていたからパサパサだったけれど、それにしてはマシで、いや、そうだ。可愛かったんだろうな。その原石感さえも。本当に好きな女ってのは、女神に見える。

 だから俺は、自分に、あるいは家庭に集まるはずだった少なくないバイト代をチマに貢いだ。

 見た目に──いや、日々の生活さえ無頓着だったチマを、嫌がられながらも思い通りにした。もちろん、常識的に考えて、プラスの方向に。『痴人の愛』の最初みたいに。

「彼氏にして欲しい。毎日、メールや電話をしたり、デートに行きたい」

「しゃあないし、ええよ」

 欲を言えば、もっと可愛らしいOKが欲しかった。


 ◆


 チマの家に通って何十回目かの夕方のことだっだ。

 周囲に人気が無いのを確認してから、自販機の前に立った。なんとなく悪いことをしているのを理解していて、ただ、どうすれば買えるのか、考える。

 チマに渡されたのは、知らない顔写真が載っている誰かの運転免許証。これをどうにか使って、ビースという煙草を買わなければならない。

 まあ、俺だって真面目だったからな。

 路地の自販機の前で冷や汗をかいて、やっとのことで小さな箱を手に入れる。パッケージにはでかでかと注意書きがあって、それが更に罪悪感を強めた。

 逃げるようにして、彼女の住むアパートに走った。そして、仕方のないことだけれど、俺は銘柄を間違えた。

「私が吸うのはライトだろうがよ。ほんまアホやねんな」

 玄関で仁王立ちしていたチマに嘲られながら、箱を押し付けて、そのまま部屋へと這い入る。

「いや!知らんわ。ちゃんと説明してくれや。ちゃんと言われたの買って来たんやからな」

「いらんわ。それあげるよ」

「もともと俺の金やし……」

「黙れ、マジで」

「そっちが黙れ。お前が悪い」

と俺が言うと、チマは真顔になって目元に涙を滲ませたが、チマが悪いから仕方ないと思う。

「お母さんにあげたら喜ぶと思う?」

俺が聞くと、しおらしくなったチマが。

「いつも何吸ってはるん」

「知らん。けど……たぶん、こういうの吸ってたと思う」

「それもライトやろ。知らんけど」

 取っ組み合いをしながらソファに飛び込んでじゃれあう。カップルらしく思う存分イチャついてから、先延ばしにしていた炊事を始める。

 部屋の通路に備えられたキッチンの狭いスペースには、俺が買ってきた調味料類が並んでいる。

 高校生になってやっと手に入れたスマートフォンを操作する。調べたレシピの通りにフライパンやらをかちゃかちゃ鳴らして、料理を作る。


 母から料理を教わることは無かったが、様々な手料理を俺に食わせてくれた。貧しいわりには、俺はいろんなものを食べていると思いたい。母は三大欲求に関する才能があって、もちろん食欲に対してもそれを発揮した。ソテーやテリーヌ、ストーヴンやシュニッェルなりのいかにも高級そうな名前の付いた料理を振舞ってくれた。

 尤も金は無かったから、節約印せつやくじるしジェネリックフィーストだったけれども、この世の中には様々な種類の食べ物があることを教えてくれた。

 チマにメシを作る時、母の料理を思い出しながら、スマホで情報収集をする。レシピを確認しながら、母の料理よりは幾割か高価な食材を手に入れて、チマに振る舞った。

 料理を作る時、そして、それを誰かに食べて貰う時、どうしようもないノスタルジアの風に至ってしまうのだ。


 


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受動喫煙にやあらず 産坂愛/Ai_Sanzaka @turbo-foxing

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