第十九話 アルビノシンガーの社会的メッセージ

 3


 辿は初めて失恋というものを感じた。

 心臓が掴まれているかのように痛かった。握りこぶしを作っては開くという動作を繰り返し、そうしていても夜の恋は成就できなかったことに、歯痒さが募る。

 どうせ。どうせ、なんだ。自分には誰も守れるような力なんて有していない。

 彼女を歌手の道へ誘ったのは自分だ。それが失敗だったのか。

「何だよ。ビジネスパートナーって……」

 不完全燃焼のまま家路に就いていた。

「ただいま」

 自室へと入ろうとリビングに向かうと母親がテーブルに頬を乗せていびきを掻いて眠っていた。

「母さん……」

「んぅ、あっ、おかえり」

 母親はにこりと微笑んでくれた。その表情を見た瞬間、どうしてか涙が零れてしまった。どうしてかは分からない。

「ちょっとどうしたの……」

「母さん……僕の選択は、間違っていたのかな?」

「学校でなんかあったの? 虐められたりでもした? それでも仕事が辛いの?」

 もう、いっそのこと母親に白状してしまいたい。そんな心の弱さが出てしまう。


「恋人に振られてしまったんだ。もうビジネスパートナーにならないかって」

「不思議ね、あんたって顔もいいのに」

「茶化さないでよ」

 母がけらけらと笑う。だがそのあと表情が一変した。

「私もあんたのお父さんと死別したあと、ずっとしんどかった。あんたがいなかったら私も同じく死んでいたかもしれない。それぐらい悲しかった」

「母さん……」

「だからね、何が言いたいかっていうとその人がいなくなっても、案外なんとかなっちゃうものなのよ」


 未練たらしく悩むのはやめなさい。そう叱咤された気がした。思わず俯く。

 涙を服の袖で拭う。

「しっかりしなさい。前を向けば未来に向かって歩けるけど、下を向いていたらいつまでたっても歩けない」

「分かったよ。ありがとう」

 辿は頬を緩ませた。

 母が大きく腕を伸ばして、それから肩を落とした。

「後悔のない生き方をしなさい」

 それだけが重要なことだから、と言われた。

「母さんの話、聞かせてよ」

 母の目の前に座る辿。机の上にあった煎餅を手に取ってそのフィルムをはがす。

かじっと噛んで咀嚼する。歯ごたえのいい音が響く。


「なんの話?」

「父さんとの馴れ初めとか、さ」

 そうねえ、と悩みながら煙草の箱を取り出し、一本手にとったら咥えて火を付けた。

 息を吐き出しながら、「彼は、太陽みたいな人だった。就職氷河期世代のなか、大学四回生の私は世間の荒波にもまれていた。その当時はね、バブルが崩壊したころでリーマンのリストラが相次いだの。その首切り担当がお父さんだったの」としみじみと呟いた。

「出会いは?」

「私は会社の内定が出ないことに憤って、ある時に酒場にストレス発散に訪れたとき、お父さ――いや、新次郎さんがいたの」

 母の瞳はメランコリーな感情をたたえていた。

「彼は酒に酔っているより、自分に酔おうとしている感じだった。私は気になって話しかけてみたの。そうしたら彼は話してくれた。後悔のない人生を選んだ方がいい。会社一つとっても重要な人生の選択なんだから。俺は、人に後悔をさせる役割なんだ、だからこそ、分かる、ってね」


 少し目が潤み始めた母へ、辿は立ち上がって麦茶を淹れてあげた。コップを渡すと、母はありがとうと言った。

「それでね、その言葉に惹かれた私は新次郎のことを人生の師として、告白をしたの。だが一度断れたわ。自分にはその資格はないってね。会社で首切り担当だった自分に、誰かを幸せにするようなことは出来ないってね」

「それでも結婚できたわけは何なの」

 母はにこやかな表情を見せて、


「それは、あんたが結婚できるようになるときが来れば、分かるわ」

 と語った。

 その言葉で佐奈の顔が浮かんでしまった辿。自分はどれだけ哀れなのだろう、と自覚する。

「ありがとう。嬉しかったよ。馴れ初め聞けてさ」

 立ち上がり、自室の襖をあけると、「頑張りなさい」と励ましの言葉を背で受けた。それにあえて答えず、襖をぴしゃりと閉めた。


 4


 夕方七時ごろ。スマホに着信を受けた。

 スマホを手に取り、通話を開始する。「もしもし――」

「あっ、私。霞だけど」

「おう、どうしたんだ」

「読んでもらいたい詩があるの」

「詩?」

「うん」

「分かった。どこで待ち合わせする?」

「えっとね、新宿三丁目のカフェで待ち合わせましょ」

「……そこってどこだ?」

「あっ、そうか。交友関係薄いもんね、あんた。常識もないし。新宿三丁目のカフェと言ったら『breath café』だよ、普通」

「すまん。その普通はJKの間で流行っているだけのものだし、それが一般常識であるかのように言うのはちょっと違うと思うぞ」

「えっ、あなたにしてはまともなこと言うじゃない」

「いいか、僕はお前と言葉遊びをしているほど心は穏やかじゃないんだ」

「……何があったの?」

「――それも説明したい。とりあえずそのカフェに向かえばいいんだな?」

「うん。それじゃあ」


 溜息を吐いて通話を切る。自分にしては余裕がなかったかな、と思う。

 ブルーのジャケットに腕を通し、腕時計を身に着け、そのあと電子カードを携帯し襖をあけた。先ほどまでいた母はいなくなっていた。きっと仕事に行ったのだろう。

「夕飯にどうぞ」そう書かれたメモ書きと五千円札。その五千円をぐしゃりと乱暴にポケットに入れて、玄関を開けた。

 最寄りの池袋駅へと向かう。時間にして三十分。そして駅舎に着いた頃には雲に隠れていた月光がのぞき始めていた。

 池袋から埼京線新宿行の車両に乗り込み、混雑していなかったので座席シートに座った。

 ガラスに雨が張りつき始める。こんなときに外出は悪手だったか。歌詞なんかPDFで送ってもらった方が好都合だよな、お互いに、なんて後悔先に立たずなことを考えてしまう。

 新宿駅に着いてから改札を電子カードにかざして通り、カフェ『breath café』へ目指す。

 そのカフェの外観は木目調で、おしゃれであった。女子高生に人気なのも頷ける。

「お待たせ――」

 白シャツにネックレス、桃色のカーディガンにグリーンのスカート姿の木田霞。

「ラフな格好だな」

 すると澄ました顔を見せてきた。「あれえ、気合い入れた格好の方が良かったの?」


 辿は頬をぽりぽりと掻いて、

「いや、そういう意味じゃあ」

 と歯切れの悪いことを言った。

「ふーん、まあいいけどさ。早く中に入ろうよ。ここの抹茶シフォンケーキは抜群の美味しさなんだよ」

「そうなのか。そりゃあ楽しみだ」

 なんて思ってもないことを言って、店内へと入る。

 店内は女性客が多かった。だからか少し居心地が悪かった。席に座ると彼女おすすめの抹茶シフォンケーキを注文した。

「で、歌詞だけど……」

 霞がA4用紙一つを辿に見せてくる。その字面を眺めていく。

 叙述的な詩や、まるで洋楽のような言い回しに感嘆してしまう。

「この歌詞の題名のH・Hってなんの略なんだ?」

「首狩り族――ヘッドハンターよ」

「ほう……ってあんまり意味が分からないんだが」

「この世は弱肉強食。それと社会問題としてアフリカの一部の地域ではアルビノの体の一部を狩ることが伝承されているらしいの」


 辿は「ふざけるな!」と用紙を彼女に投げつけた。

「彼女にそんな社会的メッセージのある歌詞を唄わせられるわけないだろう」

 睨みつけてきた霞。

「佐奈さんはアルビノという病気の認知を広めたいから、得意な、歌うという方法をとって行動しているんでしょ。なら、歌詞もそれに合うものじゃないといけないはずよ」

 確かに、彼女の言わんとしていることは分かる。だが、だからと言って、それを簡単に認めるわけにはいかない。


「だけどっ……社会的メッセージの大きいものを歌うということは、同時に反感も買うということだ。それを君は分かっていない」

「そんなこと知っているわよ。でも決めるのは彼女よ」

「いや、僕だ。僕はプロデューサーだし、それに一番彼女のことを知っている」

「ふーん、じゃあいいんじゃない。そんな勘違い甚だしい妄想、していたらいいじゃない」

「君は何が言いたいんだ。さっきから嫌味や皮肉で言葉をくるめて。論点がさっぱり見えない」

 抹茶シフォンケーキが席に運ばれる。それを辿は口に運んでいたが、霞は立ち上がり、「それあげる」と言って去っていこうとする。

「待ってくれ」

 そう言った辿を、霞は一瞥したがやはり店内を後にした。

 目の前にある抹茶シフォンケーキ。それを食べてただただ舌に転がる甘さを感じた。

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