花が結ぶ優しい恋バナ
凪玖海くみ
春の章
第1話 仏頂面のアルバイトと優しい店主
春の陽射しが街を優しく包み込む午後、花屋『花ことば』のガラス戸がカラン、と軽やかな音を立てた。
ゆったりと流れる店内の空気に僅かに異質な存在が入り込む。
「……お疲れさまです」
低く落ち着いた声が響く。
そこに立っていたのは、無造作に流した黒髪と鋭い目つきを持つ青年――桐島陽向。
白いシャツの袖をまくりながら、店内を一瞥する。
仏頂面に見える表情は元からのもの。別に不機嫌なわけではないが初対面の人間からはよく「怖い」と言われてきた。
「お疲れさまです、陽向さん」
奥のカウンターから、穏やかな声が返ってくる。
花屋『花ことば』の店主、藤倉朔夜。陽向の雇い主。
「今日もよろしくお願いしますね」
「……はい、よろしくっす」
陽向は無愛想に応じながら、棚に置かれた花束の数々に目を向ける。
淡いピンクのガーベラ、鮮やかな黄色のチューリップ、白く可憐なカスミソウ。
(……まあ、綺麗っちゃ綺麗っすよね)
無意識にそう思いながらも、口に出すことはしない。代わりに、さっさとエプロンを取り、作業台へ向かう。
「今日の仕事は?」
「午前中に注文を受けたアレンジメントを仕上げるのがメインですね。それと、店頭の花の水替えもお願いできますか?」
「了解っす」
淡々と返事をし、手際よく花瓶の水を入れ替える。
(……つーか、相変わらずこの人、マイペースっすよね)
ちらりと視線を向けると、朔夜は楽しげに花を生けていた。ふんわりとした笑みを浮かべながら指先でそっと花びらを整えている。
この店でバイトを始めて、もうすぐ半年。
最初は知り合いの紹介でとりあえずやってみるかと始めた仕事だったが、気付けば週に何度もここに通うようになっていた。
「……陽向さん、今日のまかないお菓子、レモンのマドレーヌなんですが、いかがです?」
「……別に、いらねぇっす」
即答しながらも、一瞬、視線が揺れたのを朔夜は見逃さなかった。
朔夜はゆるりと微笑みながら、特に気にする様子もなく作業を続ける。
陽向は一瞬、視線を外し、黙々と水替えの作業に戻った。
(……ったく、なんでいちいちお菓子の話なんか)
どうせ食べないと答えるに決まっているのに朔夜は時折、こうして甘いものを勧めてくる。
もちろん、バイト相手だからと気遣いで言っているのだろうと推測するも実は少々迷惑とも感じていた。なぜなら陽向にとって、それが妙に心をざわつかせる瞬間がゆえ。
――桐島陽向は甘いものに目がない。
しかし、それについてはこの花屋で働く誰にも知られたくない。なのに、朔夜の言葉はどこか分かっていて言っているように聞こえる。
(……いや、気のせいっすよね)
軽く首を振り、考えを振り払う。それよりも、やるべき仕事に集中した方がいい。
「陽向さん、そこのスイートピー、もう少し向きを整えてもらえますか?」
「了解っす」
指示を受け、そっとスイートピーを手に取る。淡い紫色の花びらが、揺れるようにふわりと広がる。
スイートピーの花言葉は「門出」――卒業や別れの季節に贈られることが多い花である。だが、そんなことを意識するはずもなく、陽向は機械的に花の位置を直す。
「……完了っす」
「ありがとうございます。とても綺麗に整いましたね」
「いや、別に……普通っすよ」
ふと、朔夜がくすっと笑う。
「陽向さんって、花に触れるときはすごく優しいですよね」
「は?」
「いえ、なんでも」
ゆるりとした口調でそう言うと、朔夜はまた手元の花に意識を向けた。陽向はなんとなく居心地の悪さを覚え、言い返すこともできずにいた。
(……ったく、いちいち気にしすぎっすよ)
作業を再開しようとしたその時、店の入り口のベルが鳴った。
「こんにちは〜!」
明るい声とともに、常連の女性客が店内へと入ってくる。
「……いらっしゃいませ」
「今日はどんなお花をお探しですか?」
朔夜が優しく微笑みながら迎えると女性は少し考えた後、にっこりと笑った。
「お世話になった人に贈りたいんだけど、春らしいアレンジメントをお願いできるかしら?」
「ええ、もちろんです。どんな雰囲気がご希望でしょうか?」
「そうね……優しくて、温かい感じの色合いがいいかしら」
「かしこまりました。少々お待ちください」
朔夜はすぐに花の選定を始める。陽向も横で控えながら、手際よく補助に回る。
(……優しくて、温かい感じの色合い、ね)
そう考えながら、ふと手に取ったのは淡いオレンジ色のラナンキュラスだった。柔らかく重なる花びらが、春の光を受けて輝いている。
「……これ、どうっすか」
「あら、可愛いわね!」
女性客の表情がぱっと明るくなる。
「ラナンキュラスですね。花言葉は『とても魅力的』……確かに、温かみのあるアレンジにぴったりですね」
朔夜も穏やかに頷いた。陽向は少しだけ、誇らしい気持ちになる。
(まあ……店長も、女の人にも悪くはない、反応)
そんなことを思いながら無言で手を動かし続けた。
アレンジメントが完成し、朔夜が優しく手渡すと女性客は満足そうに微笑んだ。
「とても素敵だわ。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。またお待ちしておりますね」
朔夜の穏やかな声に、女性客は頷きながら店を後にする。
店内に再び静かな時間が戻り、陽向は軽く息を吐いた。
「……こういうの、まだ慣れねぇっす」
「お客様対応ですか?」
「いや……まあ、それもあるっすけど」
言葉を濁しながら、陽向は作業台の上を片付け始める。
元々接客が得意ではない。ましてや優しくて温かい雰囲気の花をと言われて何を選ぶべきか考えるのは、正直まだ難しいと感じていた。
それでも――。
(さっきの人、喜んでたっすよね)
自分が選んだ花が、人を笑顔にする。たったそれだけのことが、思った以上に心の奥に残っているのが不思議だった。
「陽向さん」
「……なんすか?」
「さっきのアレンジ、とても良かったですよ」
「……別に、適当に選んだだけっすよ」
「それでも、お客様が喜んでいました。それが一番大切なことです」
朔夜の微笑みは、いつもと変わらず穏やかだった。
しかし、陽向はその言葉を素直に受け止めることができず、視線を逸らした。
(……やっぱ、こういうの慣れねぇっす)
誰かに褒められるのも、感謝されるのも、昔からどこか気恥ずかしい。けれど、それを悪く思っていない自分がいることに気づき、陽向は小さく舌打ちをした。
「……とりあえず、次の仕事っす」
「ええ、お願いしますね」
再び手を動かし始めた二人。店内には心地よい静けさと、花の優しい香りが広がっていた。
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