猫の部屋

合野(ごうの)

猫の部屋

 猫を飼いたかった。できれば保護猫を。

 ペットの保護団体へ行ったとき、単身者には譲渡できないと言われた。もしものことがあったとき、家に他の人間がいないと誰も猫の世話を見なくなってしまうからだそうだ。せっかく借りたペット可の部屋で、何もいないキャットタワーの下で、私は何度も膝を抱えた。

「保護猫を飼いたいので、一緒に住んでもらえませんか」

 会社で、同僚の男性に言った。

「なぜ?」

「保護猫を飼いたいので」

「飼えばいいじゃないですか」

「一人だと飼えないんです」

「家族のところで飼えばいいじゃないですか」

 言った同僚は、銀縁の眼鏡をかけ、いかにも猫を好きそうだった。彼も単身者であると職場の人間が言っているのを聞いたことがあった。

「家族は猫が嫌いなので」

「わかりました」

 そうして、二人で住むことになった。

 一緒に迎えに行ったのは四歳の三毛猫だった。前の飼い主が亡くなって、引き取り手がいないので保護団体へ預けられたらしい。人に馴れていていて、最初に会ったときから頭を撫でさせてくれた。同僚こと芦屋もすぐに気に入った。

「ちくわちゃんをお願いします」

 前の飼い主のつけた名前で、私たちも猫を呼ぶことにした。

 猫は面倒で懐かない生き物だと思っていたが、ちくわは違った。すぐに家に慣れ、一日の多くをベッドやラグの上でくつろいでいたが、私がソファに座っていると隣に来た。撫でろと言うので撫でてやる。満足すると尻尾を揺らして床に降りた。

 ちくわはよくしゃべる猫だった。大きな音を立てて驚かせてしまったときは、わざわざ足元に来て長々と文句を言ってきた。奇妙なダンスを踊りながらきんぴらを炒めていると「気持ち悪い……」とつぶやいていた。

 芦屋もよくちくわを可愛がっていた。餌を使ってお手を覚えさせていた。ちくわは賢かった。家の中には芦屋の買った猫の雑貨が増えた。

 ちくわが健やかに育つうちに、私たちにも様々なことがあった。芦屋が部署の異動を命じられたため、ちくわを介さない会話はほとんどなくなった。年を重ねるごとに私も一般的に進むべきステージを進まぬことについて指摘されたり修正を求められたりすることもあったが、一時の風雨のようにしのいだ。

 猫は人間よりも早く歳を取り、私たちが中年にさしかかるころ、ちくわはおばあさんになっていた。以前より寝ている時間が増え、話すことは減った。しかしそれでも可愛さは衰えなかった。

 ある日、芦屋が肺炎にかかった。風邪で会社を休むのが続いたところ、安静にしても五日経っても治らないので医者に診てもらうよう勧めた。診断が出て薬をもらい、家で養生していたが症状はさらに悪くなった。朝起きたとき、芦屋の呼吸が浅く、高熱にうなされていたのでもう一度病院へ行くよう言った。すると入院になった。

「もともと肺が弱いらしい。子どものころ言われた」

 見舞いに行くと、普段より一回り小さくなった芦屋がいた。

「知らなかった」

「言わなかったからね」

 私たちは十年近く同じ空間で生活していたのに、お互いのことをあまり知らなかった。

「治りそう?」

「わからない」

 彼の弱気が引きずるように入院は長引いた。私は気が向いたとき病室を訪れた。芦屋はときおり苦しそうな顔をした。体がそうさせるのか気持ちなのかわからないが、背中をさすってやった。思ったより痩せていて、手に骨の感触が伝わった。初めてちくわを腕に抱いたときを思い出した。ふわふわして柔らかいイメージを持っていたが、ごつごつして温かかった。自分は命をあずかろうとしているのだと知った日は、昨日のようにも感じられた。

「人間は死んだらどこへ行くんだろう」

 芦屋がこぼした。

「針の山に刺されたり、釜茹でにされたりする場所へ」

「生きているあいだ何をしても?」

「そう」

 私の与太は毒にも薬にもならなかった。

 芦屋はふっと死んだ。その知らせを受けたとき、私は家にいた。ちくわも横にいた。車を出して病院へ向かった。悲しむ様子のない私を見て医者は怪訝な顔をした。

 家には私とちくわだけになった。静かなのは変わらなかった。

「芦屋が死んだよ」

「……」

「飼い主が死ぬのは二回目?」

「……」

 ちくわはあくびをした。

 私の身に何かがあったときのため、猫を飼っている上司にもしもがあればちくわをあずかってほしいと頼んだ。夫と二人の子供と二匹の猫と暮らしているらしい。

「かわいいね。三毛猫?」

 ちくわの写真を見せると上司の顔がほころんだ。

「そうです。もう年寄りなので私が先に死ぬことはないと思いますが」

「わかった。ていうか、芦屋くんと結婚してたんだね。言ってくれればよかったのに」

 ごめんなさいと言った。

 ちくわはこれまで健康で大きなけがや病気をしたこともなかったが、あるころから食欲がなくなり餌の食いつきが悪くなったので動物病院へ連れて行った。高齢の猫に多い病気で、治りはしないと言われた。療法食を食べさせることになったが、体調は良くも悪くもならなかった。ちくわは達観しているのか気にしていないのか、心配する私をよそにいつも通りの様子だった。

「猫は死んだらどこへ行くの?」

 私は思い立ってちくわに聞いてみた。

「どこへも行かないよ」

「そうなんだ。人間は辛くて苦しい場所へ行くらしい」

「妥当だ」

 なんだかんだでちくわは二年生きた。最後のほうは寝ている時間の方が多かった。私はちくわを起こさないよう優しく頭に手を置いた。そうしていると涙が出た。自分の寿命を十年分けてちくわが一年生きられればいいのにと思った。思っても叶わないことを思ったので状況は悪くなった。ある朝ちくわを撫でるとつめたかった。気づかないふりをして一日働いた。帰ってもう一度ちくわを撫でて私は大声で泣いた。

 年甲斐もなく涙をボロボロこぼしながら、ちくわはどこへも行かないと言ったのを頭で再生した。時間がないならもっとちくわを大事にすればよかった。芦屋のことももっと知ろうとすればよかった。自分は死んだらもうちくわに会えないだろうと思った。

 部屋から芦屋が去り、ちくわが去り、また私だけになった。ここにいる限り一人ではない。消化試合のような残りの人生を終えれば一人になる。

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猫の部屋 合野(ごうの) @gou_no

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