雲井の月~勾当内侍~

 その人と目が合った。彼はずっと、こちらを一心に見つめている。何を言うでもなく、ただ彼の瞳は激しく燃えているように見える。

 爪弾いていた琴の音も止まり、虫の声さえ聞こえない静かさだ。


――貴方は、誰……?


 問いたくても問えないような雰囲気の中で、雪は目覚めた。

 夢の中に知らない人が出てきた。思い返せば古風な格好をしていたような気がする。

 しばらく夢の余韻にひたっていたが、やがてかの人の顔は忘れてしまった。


   *


 あっ、と思ったときには身体がかしいでいた。

 自分の背丈よりも上の場所にある書物を取ろうとして、足を台から踏み外してしまった。このままでは後ろに倒れてしまう。やけにゆっくりと感じられる瞬間を、どうすることもできない。雪はぎゅっと目を閉じて衝撃を待ち受けようとした。


「おっと」


 背中に何かが当たって倒れなかった。腕をつかまれている感触もする。まだひやりとした心地でいると、

「よかった」

 と優しくささやく和泉の声が聞こえて、彼に助けられたのだとさと安堵あんどした。


「和泉さん、ありがとうございます」


「なんの。お雪ちゃんに怪我をさせたら、辰巳が怖いから」


「そんなこと……」


 よくそのようなことを言われるが、夫は怖くないと雪は思ってる。彼は一度も妻子に怒鳴ったことはないのだ。自分で足を踏み外して怪我をしたのなら、誰も悪くはないというのに、辰巳が怒るはずはない。などと考えていると、いつまでも和泉に寄りかかっていることに気づいた。


「ごめんなさい……」


「もう少し寄りかかっていてもいいんだよ」


 相変わらず、和泉は冗談を言っている。と、雪は気にしなかったが、彼にしてみれば、まんざら冗談ではなかった。


 少しだけ運命が変わっていたら、もしかしたら結ばれていたかもしれない二人である。


「高いところは俺がやるから」


「お願いします」


 この日、克草塾では大量に保有している書物の虫干しが行われており、毎年手伝っている雪も駆けつけていた。静介は克草塾の隣にある寺に預けている。


 和泉の言葉に甘えた雪は、高所にある書物を軽々と手渡す和泉から書物を受け取り、塾へと運ぶ。しばらくその作業が続き、無事に蔵の中にある書物を運び終えると、まだ一冊残っていることに和泉は気づいた。


 他の書物に押しやられたのか、奥まった場所にあったので危うく見落とすところだった。


「ほう、かような書物があったとは」


 和泉が最後に持ってきた書物を見た珊石さんせきは、意外だという顔をする。


 克草塾の師範にして、克草塾にある書物をすべて把握している小山内おさない珊石は、その書物だけは初見であった。


「何かの拍子に紛れてしまったんですかね」


 珊石の弟子である寛石も見覚えのない書物だった。


 克草塾にある書物は、歴史書や和歌集などの専門的な書物が多いが、その書物は読本である。個人的に読んだとしても、蔵の中には保管しないような書物だ。


「『雲井の月』……はて、知らない書物であるな」


 とりあえず、『雲井の月』も虫干しをすることになり、また各々は次の作業を進めた。


 すべての書物を広げ終えると、一同は休憩することにした。しかし折よく珊石と寛石の来客があり、二人は席を外したので、台所では雪と和泉が休んでいた。


「昨日の夜、不思議な夢を見たんです」


 相手が和泉という気安さもあって、雪は夢の内容を打ち明けた。


 実は今朝、辰巳に話そうかとも思ったのだが、言うのを躊躇ためらってしまい、結局は言わなかった。

 もう顔は思い出せないというのに、熱い視線を向けられたことだけは憶えている。それが辰巳ではなかったことも。

 夢の中の話とはいえ、何となく後ろめたい気持ちがあったのだ。


「琴なんて弾けないのに、おかしいでしょう」


 確かに自分は、一度も弾いたことも見たこともない琴を弾いていた。


「もしかしたらお雪ちゃんが見たのは、新田にった義貞よしさだだったのかも」


「あの南北朝の武将の……」


 新田義貞とは、鎌倉幕府を滅ぼした南北朝時代の武将である。


 雪はちょうど、珊石から南北朝時代の歴史を教わっているところであった。二人は勉学の師弟であり、珊石は将来、雪を手習い師匠にしたいと思っている。


「そう。義貞が宮中の警備をしているときに、ふと琴の音に誘われて見れば、美しい女人がいたんだ。義貞はその人に一目惚れってわけ。名前は確か……勾当内侍こうとうのないし


 雪が見た夢は、まるで新田義貞と勾当内侍の出会いの場面だと、和泉は言う。しかし雪にしてみれば、夢で見たその人が古風な男性ということは憶えているが、宮中であったかどうかも定かではない。しかも自分が美しい女人になりきっていたとすれば、恥ずかしい話だ。


「義貞と勾当内侍は結ばれたんですか?」


「実は勾当内侍って、時のみかどの側室だったんだ。義貞には手の届かない存在で、見ているだけで精一杯……だけど義貞が勾当内侍に想いを寄せていると知った帝が、義貞に彼女を譲って、晴れて二人は結ばれたとさ」


 側室とはいえ、想いを寄せた男がいるからと簡単に譲ってしまうものなのかと、雪も和泉もぴんとはこなかった。

 兎にも角にも、夢の話はそれきりになり、後は他愛ない談笑をした。



 翌日の夜半よわ和泉は虫干しを終えた読本を読んでいた。偶々たまたま見つけた、倉の中に埋もれていた書物を、気まぐれに読もうと思ったわけである。


(これは……!)


 読み進む手が止まらなくて、微かに震える。


 『雲井の月』は、新田義貞と勾当内侍の物語であった。


 明日は雪に会いに行こう。きっと、偶然ではないから。

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