誰が刺した

庭野ゆい / niwano

【 掌編SS 】誰が刺した

 買ってきた菓子パンを口に含むと、違和感を感じた。ちくり、と刺すような痛み。耐え切れず、真之まさゆきは手のひらにパンの欠片を吐きだした。


 一本の小さな針が、パンの中に混じっていた。


 慌てて袋を見渡すと、小さな穴が開いているのを発見した。最初から針が混じっていたのではないらしい。誰かが故意に、このパンの中に針を入れたのだ。それを誰かが食べ、怪我をすることを望んで。針だけを取り出し凝視する。三センチほどだろうか。それでも先は鋭く、刺せば痛いに違いない。


 真之は自分のデスクで顔をしかめた。このパンは、ついさきほど飲み物などと一緒に購入した。いつもは断るレシートも、たまたま受け取っていたはずだった。


 ――クレームを入れてやる。


 最初こそ戸惑ったものの、だんだんと腹が立ってきた。残りを食べる気にもならず、袋に閉まい直す。直接店まで戻ろうとも思ったが、昼休みが終わるまであと十五分しかなかった。真之は席を立つ。廊下で、レシートに書いてあるコンビニに電話をかける。


「はい、Kマート××店です」


 どんよりとした、くぐもった声がそう言った。ずいぶん暗い声の女が出た、と真之は思った。


「あの、さきほどそちらで購入した商品に針が混入していたのですが……」


「……はい」


「はいって。こういうことはよくあるんですか」


「……いいえ、聞いておりません」


「じゃあほら店長を呼ぶとか、そういうことはできないんですか」


 暗い上に要領の悪い女だった。苛立ちを抑えて、待つ。女はしばらく無言だったが、やがてしぼりだすように「店長は今席をはずしておりまして……」と続けた。怒りを通り越して呆れてしまい、「もういいよ」と真之の方から電話を切る。


 クレームをいれてやろうと思っていたのに、気分が悪くなっただけだった。所詮コンビニのバイトだ、同じようなことがあったとしても上手く対応できるとは期待していなかった。オフィスに戻る途中で、パンをゴミ箱に押し込む。ぐしゃり、と潰れるパンを見て、ふいに思った。


 ――もしかしたら、『』が俺を狙って針を入れたのかもしれない。


「ストーカーがね、いるみたいなの」


 さきほどの女とは程遠い、美しくつややかな声音で――かつての恋人だった「あいつ」――千紗ちさは呟いた。それももうもうずいぶん前のことだ。


「私の声を聞いて、好きになったって言うの」


 そうとも、続けた気がする。


 声だけを聞いて誰かを好きになるなんて、そんなことあるもんか。その時まで、真之はそう思っていた。


 千紗。そんな女がいた。不幸な、女が。


 千紗に出会ったのは真之が大学生の時だった。友人の知り合いだという、三歳しか違わないのに落ち着いた雰囲気の千紗を、真之は一目見て気に入った。彼女を語る上で、特徴的なのは声だった。同年代の女性よりもずっと低く、落ち着いていて、清楚な見た目に反してつややかで色気があった。話している内容よりも、彼女の声を思い出す。それほど、魅力的な声だった。


 だからそうやって千紗から相談されたとき、彼女ならありえるかもしれないと直感的に真之は思った。


 千紗は医療品のメーカーでクレーム対応をしていた。つまらない相談から、罵詈雑言を含めるものまで、その内容は様々なのだと言う。真面目な人は心を病んでしまったり、辞めてしまうことも多いのだと千紗は笑っていた。


「ストーカー?」


 いつも行く店で一緒に食事をした、帰り道のことだった。馴染みのない言葉に、真之はぎょっとした。千紗が淡々と続ける。


「家の周りにね、人の気配があるの」


「見たことのないやつなのか」


「うん、でもね。最近毎日私を指定してクレームの電話が来るの。会いたいって、顔を見たいって。最近は迷惑だから、他の人に代ってもらってた。でも、家の周りに変な男の人がいるの……もしかしたら私の勘違いかもしれないんだけど、こわくて」


 憔悴した顔で、千紗はそう締めくくった。


 なんとなく、最近元気がないな。そんな気がした矢先の出来事だった。それに気づくことのできなかった自分を、真之は責めた。俺はなんてバカだったんだ。彼女がこんなにも……。千紗は余計ななぐさめなんかいらないと、そんな毅然とした表情をしていた。だから野暮なことは言わずに、真之は千紗の肩を抱いて囁いた。


「一緒に住まないか、千紗」


 その言葉を待っていたのか、千紗の表情が和らいだ。


「いいの?」


 耳元で、千紗が囁き返す。彼女の、魅惑的な声で。真之はまだ若く、千紗も若かった。真之はまだ学生で、将来のことなど考えてみたこともなかったが、若さゆえの勢いがあった。もちろん、と返事をした。


 千紗は真之の住むアパートへ越してきた。しばらくは、穏やかな日が続いた。千紗の言っていたことは嘘だったのではないかと疑うほどに。


 しかし、千紗が真之のもとへ引っ越してきて数週間経つと、不審な男がたびたびアパートの周辺で目撃されるようになった。千紗の会社へは毎日違う番号から電話がかかる。千紗は、会社からも孤立していった。


 真之のアパートは、幸いセキュリティがしっかりしていた。それでも電話や郵便物は止めようがない。無言電話が来れば電話線を引き抜き、不審な郵便物が来れば開けずに捨てた。そのひとつひとつが、千紗の精神を追い詰めた。


 やがて、真之は駅まで千紗を毎日送り迎えするようになった。もともとあまり社交的な方ではなかった彼女は、みるみる間に痩せ、休日も引きこもりがちになっていった。真之は、まだ大学生だった。つまり、そのあたりから千紗は重い女に変わっていった。彼女と関わることすべてが億劫で、重い。彼女との会話も、セックスも、あの魅力的な声すら。


 ある晩、とうとう真之は誘惑に負けた。合コンで出会った女を連れてホテルに向かう。かわいくて、何の薄暗い影もない、からっぽな女の子。その軽さが、真之には新鮮だった。


 ホテルでチェックインを済ませると、ふいに頭を千紗の暗い表情がよぎる。痩せて、目のあたりはくぼみ、かつての余裕のある大人の女性という印象からは程遠い、ひとりの女が浮かんだ。すぐに打ち消した。もうなにもかもがめんどくさい。そう、真之はつまりまだ、子どもだったのだ。


 翌朝。隣で眠る女を起こさないように、真之は小さな音量でテレビをつけた。


 テレビには見覚えのある場所が写っていた。真之のアパートの、すぐ近くだった。四十三歳、無職、男性。路上で何者かに刺され死亡。犯人はまだ見つからず。現場では女性と男性が争う声がしていたと、近隣住民が証言した。


 なあにい、と隣で眠そうな声があがる。真之はなんでもないよ、と震える声で返す。そのまま何事もなかったように、リモコンのスイッチを押してテレビを消した。


 ……千紗は数日後捕まった。自首したようだった。真之も何度か事情聴取に連れて行かれたが、千紗の証言が認められると、家に帰された。


 彼女の実家や会社には何度も連絡しようとしたが、皆口を閉ざすばかりで埒があかなかった。千紗に面会を求めたことも、一度だけある。結果は「拒絶」だった。やがて真之は大学を卒業し、かつて千紗と過ごしたアパートを出た。


 彼女の荷物は引き取り手もなく、全て捨てるしかなかった。通帳などの貴重品は何もなかった。もしかしたら逃げようとしたのかもしれない。誰も助けてくれず、一人で震えるしか術のなかったか弱い女。抵抗して、「たまたま」持っていた「包丁」で、男を刺してしまった不幸な女。いや、もしかしたら刺されるべきは俺だったのかもしれない。彼女の荷物を全て処分した後、真之はそう思った。そう思うことでしか、彼女に償う術がなかったのだ。


 昼休みが終わる。


 外へ出ていた同僚が戻ってきた。静かだった職場が騒がしくなる。日常が帰ってくる。千紗が俺を恨んでこんなことを――そんな馬鹿げた考えを振り払うために、真之はコーヒーを煽った。


 ――もしかしたら、針を刺したやつも、なにかせっぱつまった理由があったのかもしれない。どうにもならない事情があって、見知らぬ誰かにぶつけたくなったのかもしれない。たまたま当たったのが俺だったというだけで……。


 真之は、パソコンの横に置いた小さな針を手に取る。親指の腹を軽く刺してみる。一瞬の痛みが通り過ぎ、きれいな赤い丸が滲んだ。




- 終わり -

2016.01.10


※昔の小説のため、誤字脱字ご容赦ください。

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