第13話

「ええと、パーティーでも申しましたように、娘の名前は八重ではなくあやめですね。しかし、お話、大変うれしく存じます。是非、このお話を進めて頂きたい」


あやめも大層喜び、すぐさま結納の日取りを決めた。とんとん拍子に話が進んで、あっという間に今日は結納の日である。客間が綺麗に整えられ、使用人たちは庭や玄関、廊下などをピカピカに磨き上げるので大忙しだ。


そんな中、八重は浅黄の祖父に名前を間違えられていることから、名を呼ばれないよう、家を出ていなさい、と命じられた。追い出される時に当たり前のように木の棒で腕を殴られ、八重は仕方なく浅黄に借りたままの本を持って、あの公園を訪れた。公園はもう桜の盛りになっていて、花見に訪れる人たちもちらほらと足を止めていた。八重はその中で浅黄がいつも使っていた長椅子に座り、読みかけのページをめくった。


うららかな春の日差しの許、やわらかな風が八重の頬を撫でる。ページをめくる時に、使っていた栞が風に吹かれて八重の手元からひらりと飛んだ。


「あっ」


視線を本の文字から栞の飛んで行った方に向けると、朗らかな顔で八重を見つめる浅黄がそこに居た。浅黄は落ちた栞を手に取ると、驚きの顔をして八重を再び見た。


「八重さん。これで僕は、ますます気持ちを固くしたよ。準備は整った。僕と一緒に来てくれ」


浅黄は八重に栞を返すと、八重が本に栞を挟んだのを見届けてから、八重の手を引いた。浅黄は間違いない足取りで斎藤家へ向かい、客間で待っていたあやめたちと浅黄の祖父、両親の前に姿を現した。あやめは初めて見る浅黄の姿にほおを紅潮させて見とれた。


「おお、浅黄。どこに行っていたんだ。お前の結納だぞ」


浅黄の父親と思しき人がそう言い、座れと促す。しかし浅黄は部屋に一歩入ったままで、部屋全体を見渡した。


「父上母上、おじい様。僕が結婚したいのは、この桜を大事にしていた彼女です」


そう言って、浅黄は八重の背に手を当て、彼らに八重を紹介した。あやめたちが仰天した様子で次々と声を発した。


「や、八重! お前、家を出て居なさいと……!」


「浅黄さま、その娘は使用人です。宮森さまとは世界が違う生き物です!」


「八重、浅黄さまから離れなさい! 浅黄さまはわたくしの旦那さまになる方です! 浅黄さま。その栞はわたくしがその子に貸したものです。わたくしのものです!」


叔父たちの声に、しかし八重は負けなかった。浅黄はちゃんと八重を迎えに来てくれた。であれば、彼の思いに応えたい。八重は浅黄の言葉を待った。


「あやめ殿。この栞があなたのものであるなら、この桜をあなたに贈った理由についても、勿論ご存じのはずですよね?」


浅黄の言葉に、あやめは口ごもる。


「そ、それは……」


「あやめさま、嘘は止めてください。この桜は、お名前が同じだからと、以前お会いした記念に、私が浅黄さまから直接頂いた、大事な桜ですので」


凜とした姿勢であやめたちに向き合い、八重ははっきりと言い切った。


「この桜は、鬱金桜。……鬱金桜は、別名浅黄桜というそうです。浅黄さまはおじいさまが大事にしておられた桜の名を頂いたことを、とても喜んでおられました」


八重のその言葉に浅黄の祖父が目を開く。


「幼い頃、浅黄が儂の桜を女の子にプレゼントしたと言っておったが、お嬢さんがその女の子だったのか……。たしか、橋本子爵のお嬢さんだったと、記憶しておる。子爵家のお嬢さんが、どうして斎藤家の使用人など……?」


祖父の疑問に答えるのは、浅黄だ。


「橋本さまは流行り病にかかって亡くなられたそうです。その為、幼い八重さんは親戚である斎藤殿の許に身を寄せたのです。しかし斎藤殿は、八重さんが継いだ橋本さまの遺産を享楽で食いつぶし、挙句、八重さんに華族としての教育を受けさせずに使用人として扱った。それだけでなく、八重さんは斎藤殿たちからの暴力を受けていた。八重さんの体にあるあざは、その為のものです」


そう言うと、浅黄はごめんね、と言って、八重の袖をまくった。そこには先程木の棒で殴られたときに出来たあざが浮かび上がっていた。浅黄の家族は、そのあざに息をのんだ。


「なんと……。非道なことを……」

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